実家に戻った富永は、忙しいなかでの眠りのうちによく夢を見るようになった。それは今さら国試に落ちる夢ではなく、どこか異世界を旅するような夢でもない。何度も繰り返し見る夢は、懐かしい、T村で過ごした日々だった。吹雪と血。違法な医療行為と警察沙汰。はじまりは凄惨なものであったのに、気がつけば穏やかな暮らしがそこにあった。
同居を許された診療所。同居人となったその主。起きている時にも時おり思い出しはするが、夢ではいっそう鮮やかに、あの頃のKが目の前に現れる。それは白衣姿であることも、マント姿のこともあるが、そのどちらでもなく、くつろいだ部屋着であることも多い。
富永がKとともに過ごした八年間を振り返ると、やはり医者としての姿が浮かぶので、不思議といえば不思議だった。どうしてこうも、何でもない日の何者でもない彼を夢に見るのだろう。まだ預かった子も昔の執事も看護師だっていない頃、ふたりきりだった診療所。寝起きのKがぺたぺたと、スリッパを鳴らして歩く姿。あるいは風呂から上がって出てきたKが、濡れた髪をタオルで巻いている姿。
実際に見たことがあるかといえば自信はない。富永の記憶にあるKは、いつだって凛と咲き誇る花のような、はるか彼方に輝く星のような、そんな清冽な雰囲気を崩さない。もちろんオペや急患の対応時には炎のような風のような、苛烈な印象も強くはある。患者のためならその脚で駆けずり回ることもあるし、その腕力で車だって持ち上げる。それをそばで見てきた富永は、やはり夢で見るKの姿はいつかの記憶の欠片ではなく、すべてニセモノのような気もしている。
「富永、明日の休みは何か予定を入れているか?」
夜ふかしの朝、少し寝癖のついた髪。夢を見ながらこれは夢だと気づくこともあるが、いつもそうとは限らない。小さな違和感は見過ごされ、夢のなかの富永はそこにいるKをKとして受け入れる。朝食のパン。かぱりと開けられる瓶の蓋。鮮やかな色のマーマレード。
「いえ、特には。ただそろそろコーヒー豆を買いに行こうかなとは思ってました」
富永はKの向かいの席に腰掛けて、淹れたばかりのコーヒーを注いだカップを手に取った。ふわりと香る苦みをずずっと口にする。この診療所にはもてなすような来客もないためふたりで飲む分だけではあるが、気がつけば残りの豆はわずかになっていた。味も産地もこだわらないのでどこで買ってもいいだろうとは思いつつ、たまには専門店で探してみるのも面白そうだと考える。
「……そうか。ではもし街へ行くならついでに買い物を頼んでいいだろうか」
「はぁ……それは別に構いませんが」
「ありがとう。あとで行ってほしい店のメモを書いておくからよろしく頼む」
ざく、とトーストをかじる音。テレビをつけない食事の時間は静かに淡々と過ぎていく。Kはもう何も言わない。富永もまた、何を買えばいいかは訊かずにテーブルのジャムへと手を伸ばす。透明な瓶に詰まったオレンジ色。光にかざすとなかの果皮がきらきら光るように見える。去年の冬にたくさん作ってもらったこれは、コーヒーと違ってまだまだなくならない。
「Kは出掛けないんですか?」
二月も半ばが過ぎた頃、春はまだ遠いが寒さはだんだんとゆるんでいる。よく晴れた日であれば散策に出るのも悪くはない。本屋に寄って気になる新刊を見てみたり、気が早い服屋で春服を見るのもいい休日となるだろう。
富永は爽やかな香りのマーマレードを手元のパンに塗りつける。Kの方をちらりと見ると、ぽろぽろと落ちるパン屑が胸元に散っていた。服が黒いとよく目立つ。だが食べている途中で指摘するのもどうかと思い、富永もジャムがたっぷり乗ったパンにかじりついた。甘酸っぱくて、やや苦い。ひと口食んだあとのパン屑は、Kと違って膝へとぱらぱら落ちていく。
「? 俺は出掛けられないが」
「あれ、なにかこっちで用事ありました? 人手がいるようならオレも手伝いますけども」
「いや……そういうわけではないから大丈夫だ。ただ俺はこの村から出られない。そう掟で決められていただろう」
忘れたか? と問いかける目が富永を映して瞬いた。窓の外に広がる森はほとんど雪に埋もれている。冬に閉ざされたこの家で、鮮やかな色彩を持つのはマーマレードとKの瞳だけだった。富永はものを食べるために開いた口を一度閉じ、夜空に語りかける調子でそうでしたねと呟いた。指先についたジャムをちろりと舐めとると、それは星の味がした。甘くて苦くて刺激がある。
「Kはここを出たら宇宙人に拐われてしまうんでしたっけ」
「どろどろに溶けてしまうのかもしれない」
「怪物にむしゃむしゃ食べられてしまったり」
「世界を滅ぼしてしまうのかも」
恐ろしいなと笑う男はこれらの言葉を信じているのかいないのか。何が真実なのかはともかくとして、掟を守り続けている。富永がそれを迷信だろうと言ったところで静かに首を振るだけだ。いつもバス停までは送ってくれるが一緒にバスに乗り込むことはない。
「面倒をかけてすまないな」
「いいえぜーんぜん。これくらいお安い御用でございますよ」
食事を終えて、こぼしたパン屑も片付けて、それからKに渡されたメモを見てみると、そこには富永も知る街のケーキ屋の名前が書かれていた。お前の好きなものでいいからふたつ頼む。好き嫌いもアレルギーもないからなんでもいい。それだけ言って、Kは診療所を開けに行った。玄関先で話し声がするようだなと思ったら、凍えたたぬきを抱えたKが戻ってくるのはすぐだった。まるっとした毛玉がしっぽをぷらぷらさせながら、Kの腕のなかでされるがままに運ばれている。
「来客だ」
「やぁいらっしゃい」
夢であるから何が起きても驚くようなことはない。ぽてりと床に下ろされたたぬきが「おじゃまします」と喋っても、富永はそういうものだと挨拶を返すだけである。しゃがんでもまだずいぶん見下ろす先にひょいと右手を差し出すと、肉球のある前脚をぽんと乗せられた。握手のようなお手のような、傍から見れば何とも言えないやり取りのような気もするが、これがいつものことだと夢では疑うこともない。
「俺は往診に行ってくるからあとのことは頼んだぞ」
マントを翻してKが言う。いってらっしゃいと言葉を返したのは富永よりたぬきが早かった。フ、と笑ったKに頭を撫でられて、にこにこと嬉しそうな顔をする。野生はすっかりどこかに忘れてきたらしい。出ていくKを見送って、診療所にはひとりと一匹が残されて、患者も来ないのでストーブの前に椅子を並べて暖を取る。一緒に盛り上がる話題といえば、やはりKのことだった。
「たぬきばかりがいつもなでられてすみません」
「いやなんでそれオレに謝るの。そんなこと言われちゃあ、オレもKに撫でてもらいたいのに〜って感じに聞こえるでしょうよ」
「ちがうんですか?」
「違います。まぁでもちょっと……いや今のなし、違うからね」
人間同士は大人になったらそういうことはしないんだよと教えてやる。けれどたぬきは首を傾げて「でも」と言う。その首元に巻いた風呂敷のような赤い布は、誰にもらったものなのか。たぬきに人の道理を説きながらも、富永もまだ知らないことが多かった。
「さっき、たぬきがなでられているところをみてたでしょう」
ぬいぐるみのようにまるい目が、富永を見上げてにこりと慈愛に満ちた笑みを見せる。それはさながらたぬき菩薩とでも呼びたいほどに、すべて分かってますよと言わんばかりの笑みだった。富永はそのなんとも有り難みのある毛玉の姿に苦笑する。Kに甘えることが許されるのは少し羨ましいというのも本音だが、富永がKとの関係で望むのは、ただよしよしと撫でてもらえることではない。それだけはひそかな確信が胸にある。
「オレはいいの、本当にただ見てただけ」
「そうですか……なでてほしくないなんて、たぬきにはとてもしんじられないことですが」
この胸のうちにある感情を、なんとかたぬきに説明したいと思ったが、それはまだ言葉にするのが難しい。文字か絵ならば何か形になるかもしれないと、書くものを探してポケットのなかに手を入れる。するとKから渡されたメモがくしゃりと音を立てた。慌てて取り出してシワを伸ばす。
「おやそれは?」
「Kにもらった買い物メモ」
「たぬきもひらがなだったらよめますよ」
興味を示したたぬきがふんふんと手元を覗き込んでくる。だが残念ながらケーキ屋の名前は流麗なアルファベットで書かれていた。フランス語だよと教えてやれば、がーんとショックを受けている。村では見たことがないだろうから仕方ない。ついでにケーキ屋だとも教えると、富永を見る瞳がきらきらと輝いた。ぽてぽてとしっぽが床を叩いたあとで、思いがけないお願いがひとつ口にされる。
「たぬきもおだいをだしたいです」
「ええ?」
「これがたぬきのぜんざいさんなのですが」
首の結び目を器用に解いて、赤い風呂敷が広げられた。なかには葉っぱにどんぐりにきれいな小石、それから小さな財布が入っていた。がま口のそれはたぬきの手ではきっと開けられないだろう。だから富永が差し出されたそれを開けてやる。全財産とはいかほどか、と中身を覗き見ると、じゃらじゃらと小銭が詰まっていた。どうやらすべて本物であるらしい。
「お、結構お金持ち」
「たりますか?」
「足りる足りる。でもたぬきはケーキ食べられないんでしょ? なんでお金出したいの」
この財布を持たせたのがいったい誰かは知らないが、きちんと使えているなら買い物の意味が分からないわけではないだろう。むふむふと笑うたぬきはなんだか楽しそうだった。内緒話をするつもりなのか短い脚に手招かれるので耳を寄せる。ごうごうと暖気を吐き出すストーブの音。触れそうな毛のこそばゆさ。
「だってあしたはせんせいのおたんじょうびですから!」
「ああ!」
富永の叫びが世界を揺らがせる。ローソクも買ってほしいとねだるたぬきの声が遠くなる。確かに診察室にいたはずなのに、Kからのメモをこの手に握っていたはずなのに、目覚めはベッドの上だった。空っぽの手を伸ばした天井は、八年見上げた古い木造のものでなく、実家の自室のものだった。
「K……」
呟いた声は誰にも届かず消えていく。波にさらわれる砂のように、夢の記憶もだんだんと崩れていく。ベッドを離れカレンダーを見に行くと、二月のとある一日に、赤い丸がついていた。明日ではなくまだ少し先。村を離れたあとも祝っていいのか分からないまま、印だけがその日を特別な日だと告げている。だからあんな夢を見たのだろう。
思えばKとふたりきりの頃、誕生日を祝ったことはないはずだ。それをするようになったのは、まだ小学生だった子と暮らしはじめてからだった。それまでは、一緒に暮らしていたとはいえ、お互いの誕生日を気にしたりはしなかった。夢のようにケーキを頼まれることも、たぬきに教えてもらうこともなく、いつもと変わらない日を過ごしていた。今の富永は少しだけ、それを悔いているのかもしれない。迷いは一瞬のことだった。
「あ、もしもし、K?」
早朝なのも気にせずに、というよりこの時間ならKが出るだろうとあたりをつけて、指先ひとつで診療所へ電話をかけてしまう。耳に押し当てた携帯電話からKの声が聞こえると、どっと心臓が大きく跳ねた心地がした。寝起きの富永のかすれた声とはまるで違う。きっとその髪には寝癖などひとつもないに違いない。
「富永か。どうした何か急用か?」
「あなたの夢を見たんです。トーストにマーマレードをたっぷり塗って、喋るたぬきを連れてきて、ああそうだあのケーキ屋の名前なんでしたっけ。ラ……レ……? いや違うな、あれ架空の店か……じゃなくて、あなたの誕生日の話です」
「……富永。寝ぼけて電話してくるのは構わんが、お前ちゃんと眠れているだろうな?」
「あー、はい、大丈夫です。不眠で錯乱しているとかではないです大丈夫。いや朝っぱらからすみません。ちょっと今度の誕生日のことでお話がありまして」
話しているうちにようやく頭が現実に合ってくる。ふたりきりだった診療所。村から出られないのだと言ったK。過去のようで過去ではない、おかしな夢に意味を探してみても仕方ない。けれどこれは、Kとふたりきりで村の外で祝いたい、というひそかな願望が富永のなかにあるせいだったのかもしれない。裏返しの夢は存外に、心のうちを暴き立てる。
「今年はサプライズであなたをこっちに招待しようかと」
「……それを言ったらサプライズではないのでは?」
「あっそうか。では今年はサプライズじゃなく事前にご連絡の上での招待です。きっと素敵な誕生日にしてみせますが、いかがです?」
「それは……フフ、それなら俺だけではなく他のみんなにもお前から連絡を入れておけ。そうでなければみんなにとって、誕生日を祝う相手が当日いないサプライズになってしまう」
電話の向こうでKは穏やかに笑っている。しかしそのやれと言われた連絡は、誕生日のKを独り占めさせてほしいというわがままだ。相手によってはぶちぶちと文句を言われそうである。富永はぐうと唸りそうになるが、それを飲み込み分かりましたと返事をした。なかなかの難題ではあるが、かぐや姫に求婚をした男たちよりはマシだろう。
「来年はサプライズでそっちに遊びに行っていいですか?」
「だからそれを俺に言ってはサプライズでは……いや、そうだな。来年の約束をされること自体がサプライズかもしれないな」
くすりと笑う声に驚きが滲んでいるようには聞こえない。けれどどことなく嬉しそうな響きであるのは感じとれた。夢のなかでKに撫でられていた愛らしいたぬきを思い出す。もうどんな声で喋っていたかもはっきりしなくなっているが、カーテンを開けて朝日を浴びても約束は忘れていなかった。
「ケーキにはローソク立てましょうね」
お代はたぬきにもらっていますから。富永がそう言うと、なんだそれはと呆れた声が返ってくる。本物のKは夢とは違い、そんな与太話は信じない。あれほどKに懐いていたのに報われないなと思いつつ、ならば代わりに自分が好きだと告げてみようかと富永は考える。握った電話。見えない顔。当日はもうひとつサプライズが用意できるかも、と思ったままを呟くと、楽しみにしていよう、と甘やかな声が返ってきた。雪深い二月の村からKを連れ出す日が特別な日になることを願う。