オペの依頼をすればすぐにでもこちらへ来てくれる。では他の用事ならどうだろう。富永は手のなかにある携帯電話をぽちぽちと操作して、目に馴染む数字の並びを呼び出しながら、ひとりもやもやと考えた。
電話帳への登録名はただの『診療所』になっている。正式には『T村診療所』であるのだが、富永にとっての診療所とはあの村の、Kがいるあそこだけだった。だからあえて他の言葉は加えない。ここに表示される文字を見るだけで、富永は山奥にあるあの古い洋風建築を思い出す。そこに住む、マントの似合う男の姿が今なお脳に焼きついたままでいる。
「Kェ、今日は診療所にいるのかな」
親指はまだ、発信ボタンを押せていない。押してしまえばすぐにでも答えが分かる無意味な問いを、画面を見ながら口にする。今の富永はもうKの予定を知り得ない。往診の日はいつなのか、オペの日取りはどうなのか。ともに暮らしていた頃でさえ、すべてを把握できてはいなかった。離れてしまえばなおさら何も分からない。
かけた電話に出てくれるのか。そんなことを考えながら、富永はごろりとベッドに横たわる。仕事で疲れた身体は休息を欲しているものの、Kのこととなると今はまだ、思考を止めることはできなかった。実際のところはたとえK本人が不在でも、誰かしらが受話器を取るだろう。無人であるのはもう何年も前のあの日、はじめて出会った吹雪のあの日が最後だったはずなのだ。
「麻上さんか、一也くん。それか村井さんかイシさんか」
次々と懐かしい顔を思い出す。今はどうしているだろう。手のなかの携帯電話と見上げた自室の天井に、はるかな距離を感じないではいられない。自分が村を出た日から、あちらとは時の流れが違っているような奇妙な錯覚がずっとある。
大学に籍を置いていたあの頃は、勉強会なんて名目でさえわざわざ出向いてくれたのだ。Kは村を離れることを気にはしつつも厭わない。村にたったひとつの診療所にも休みの日くらいちゃんとある。いつぞやは、ふたりで海を越える旅行だってした。あれは富永にとって忘れられない思い出のひとつになっている。
「……けどなぁ」
富永はまだ迷っていた。Kを誘う言葉にも、Kを連れ出す理由にも。
はじめてのデートはもっと気軽なものだった。デートと呼ぶにはささやかな、病院からの帰り道。オペをしに来て帰るだけではもったいないと理由をつけて、少しだけふたりで歩くことにした。電車の時間は大丈夫かと伺うと、Kは小さく頷いて、せっかくだからもう少し一緒にいたいとやわらかな笑みを見せてくれた。どっと上がった体温と、思わず飲み込んだ嬉しい悲鳴が今は懐かしい。
白衣を脱いでジャケットを手に、マント姿のKと街に繰り出した。特別な行き先なんてない、ただふたりで歩くだけの時間。村にいた頃はこんな時間がいくらでもあったのだと思い出すと甘くて苦い心地がする。戻らない日々は遠いからこそ眩しくて、振り返るほどに愛おしくなって仕方ない。
「はぁ……」
富永は寝転がるベッドの上で目を閉じる。手のなかの携帯電話も同じく画面を暗くした。瞼の裏の闇を見つめてもいい考えは浮かばない。会いたいという思いばかりが降り積もって、時間だけがただ過ぎていく。
あの日ふたりで歩く道すがら、あの店は、この通りはとつい饒舌になってしまったのは、決して緊張のせいではない。あれはそう、富永としてはただ単に、Kに自分の生まれた街のことを知ってほしかっただけだった。言葉の数は違えども、かつて村でKがしてくれたのと同じように。
「子供の頃は、あの路地裏に入るだけでもちょっとした冒険だったんです。今見るとまぁなんでもない、いえ昔から何があるわけでもないただ日当たりの悪い道なんですが、怪人が出るとかなんとか噂がありまして」
そう自分の過去を語りながら、あの時の富永は村で見た森の獣道をぼんやり思い出していた。ここはたぬきが通る道だとこっそり教えてくれたK。子供の頃に俊介と探検したことがある、と懐かしそうに笑う顔。幼い日々が誰にとっても確かにあったということを、Kといる時はことさら尊いものに感じられる。
「ここは昔駄菓子屋さんがあったんですが、ちょっと前……オレが村に住んでた頃ですかね、いつの間にかコンビニになりました」
便利ですけど馴染みの店がなくなるのって寂しいですよねと言いながら、ふたりで寄って缶コーヒーを買って出た。村ではいつもカップで飲んでいたわけだから、缶コーヒーを手にするKは新鮮だ。本人としてもめずらしいのか、手のなかの缶をくるりと回し、プルタブに手をかけることなく書かれた文字を熱心に読んでいた。
凛々しい眼差しはカルテを読み込む姿にも似て、見惚れないではいられない。富永もしばしコーヒーの存在よりもKの様子に気を取られ、どうにも缶を開けるタイミングを失った。見つめる先のKがふと顔を上げ、富永の視線に気づいて照れたように唇をゆるめて笑うまで、ほんのわずか世界は止まっていた。そう信じていい気がしてしまう。
「ああそうだ、駅前にあるパン屋さん、カレーパンが美味いんですけどよかったらお土産にいかがです? 来ていただいたお礼もかねて会計はオレが持ちますから、好きなだけ選んでくださいよ」
また少し歩いてたどり着いた、可愛らしい看板を掲げた小さな店。扉を開けるとチリンと可愛らしくベルが鳴った。焼けたパンの香りに包まれる。あら先生いらっしゃい、なんて声をかけられて、Kにあたたかい目を向けられた。地域医療を担う病院の医者として、ちゃんとやっているようだと認められたのかもしれない。誇らしいような照れくさいようなそんな気持ちで顔がゆるむのを止めることはできなかった。
ほらほらとトレーとトングをKに渡し、富永はむずむずする心をなんとか落ち着けようとした。あまり広いとは言えない店内で、外よりも距離が近くなる。カチ、とトングを鳴らす音。メロンパンやクリームパンといった定番のパンが並ぶ棚。Kの所作はオペの時と同じでうつくしい。ふわふわのパン潰さないようにそっとトレーに乗せていく。
富永おすすめのカレーパンはちょうど最後のひとつだった。ちらりと向けられる視線にどうぞと手のひらを差し出し応えれば、礼なのかなんなのか、トングをカチカチ鳴らされた。パンに囲まれた空間だからかKの雰囲気もやわらかい。いっぱいになったトレーを持ってレジへ向かうその背中は、どことなく楽しそうだった。
「……またパン買いに来ませんか、なんて言うのもなぁ」
富永はうぅんと唸って天井に手をかざす。この手でKに触れたのは、いつが最後か考える。マントの下、ジャケットを脱いだシャツのなか。素肌に触れるのを許されたのは、Kがこちらに泊まりで来た時の夜だった。ホテルを手配したのは富永で、せっかくだからとツインで取っておいた部屋。
変な期待をしていたわけではない。ただ昼間だけでは物足りない、ふたりの時間がほしかった。買い込んだ缶ビールで乾杯しようと差し出すと、Kはいつかのコーヒーのようにめずらしそうに缶を見る。カシュ、と小気味よく響く音。この日の富永はKに見惚れながらも時を止めてしまうことはない。
とろとろと過ぎる夜の時間。シャワーを先に浴びたKが、備えつけのパジャマに着替えてベッドの端に腰掛ける。酔うほどの量は飲んでいないはずなのに、立ち上がった富永は思わず少しフラついた。風呂場ではなく、Kの方へと誘われるように歩き出す。
「Kがそういう服着てるの、はじめて見たかもしれません」
「フフ、俺もはじめて着たと思う」
「もしかして缶ビール飲むのもはじめてです?」
「村でビールといえば瓶だからな」
上から見下ろすKの髪はしっとりと艶を帯びていた。いつもとは違うシャンプーの香りが漂って、わけもなく胸がどきりとした。富永は酒のせいではなく渇いた喉に唾を飲む。
「あなたのはじめて、オレがたくさんもらっちゃいましたね」
そっと指の背でKの頬に触れた。風呂上がりの肌はあたたかい。出会った頃から長く一緒にいたからか、お互い老いたようには思わない。むしろ老いても枯れてもいないからこそ、こうしてお互いに手を伸ばしている。
「……もっともらってくれていいのだが」
触れている手、その腕をKに掴まれた。痛みを覚える強さではなく、ただ熱を感じるものだった。ゆっくりと身を屈める。見上げてくるKの瞳を見ていると、村での星空を思い出す。こういう時は目を閉じるもんじゃないですか、と軽口を叩く気にもならず、きらめく星の幻を見ながら口づけた。
「……はじめて?」
「言わないと分からないか」
「すみません、でも言わせてみたいもんなんですよ、こういうのは」
言いながら、もう一度唇をやわく喋んだ。ちゅ、ちゅ、と何度かそれを繰り返す。
「ん……もう、はじめてではなくなった」
「おっと、じゃあこれはどうですか?」
今度は触れるだけでなく、舌を這わせてKの口へと挿し入れた。ぬろりと熱い感触は、Kにとっては少し刺激が強かったのだろう。びく、と狼狽え身体が後ろへ倒れ込む。やわらかなベッドの上でよかったな、と思いながら富永が膝で乗り上げると、逃げ場をなくしたKは醜態を恥じ入るように顔を赤くした。逸らされた視線に興奮を煽られる。
「今のは、はじめて……だ」
Kにしては消え入りそうなほど弱い声。まだ違和感が残るのか、薄く開いた唇からちろりと舌がはみ出ていた。富永は食いつきたいという原始の欲求をぐっと堪え、嫌でしたかと問いかける。うろりと戻される視線。熱を帯びた夜の瞳。嫌ではないという言葉が返るのはすぐだった。
「はじめてだから……少し、驚いただけだ」
伸ばされた両手が富永の頬を包み込む。引き寄せられるのに抗う理由は何もない。もう一度、とねだるKの胸元に手を置くと、ドキドキと高鳴る心音が感じられた。
「大丈夫、怖いことはないですよ」
重ねた唇をすぐには犯さずそう言うと、むっと眉を寄せたKの方から舌が伸ばされる。熱くぬらついた肉が唇に触れる生々しさに、富永はぞくりと背すじを震わせた。余裕ぶったことを言ってはいるが、富永も経験が豊富だとは言えない。事前に調べた情報と、長く夢見た妄想で、Kと舌を絡ませる。
「ん……っ、ぁ、んぅ……」
やはり慣れないのか逃げたがるのを、口のなかまで追いかけた。あふれた唾液がくちゅくちゅと濡れた音を立てる。Kはどうしていいか分からないのか、侵入者である富永の舌をおずおずとつついてきた。追い出したい、というよりは歓迎のつもりなのだろう。いじらしい仕草にひどく興奮が高まった。
さわさわと、心音を追って左胸に乗せていた手のひらをうごめかせる。力が抜けてもっちりとした弾力の肉をまさぐると、くすぐったいのかKはもぞりと身動いだ。布越しに感じる乳首をやさしく擦りながら、口のなかでは上顎をしつこく舐め回す。
「は……ッ、ん、ぁ、ァ……っ」
乱れきった甘い吐息。びくびくと跳ねるだけの身体。その快楽にすっかり夢中な反応を見て、富永はゆっくりと上体を起こしふぅ、と大きく息を吐いた。ゆるめたネクタイを首から放り投げてしまい、Kもきっと苦しいだろうとパジャマのボタンを上からひとつふたつと外してやる。
「Kェ、オレ……Kが止めてくれないと、どこまでするか分かりませんよ」
「……それは、責任を俺に丸投げするということか」
「んえっ、ぁー……いや、すみません。そうですね、オレがしたくてすることを、Kが止めてくれないから……なんてひどい言い草だ。そうじゃなくて、オレが言いたいのはつまりその、もちろんKが嫌ならすぐにやめますが、もう少しだけあなたに触れさせてもらいたい。その許しがほしいということです」
富永が祈りのような言葉を吐き出すのを、Kは黙って聞いていた。結局俺にゆだねるのではないか、と呟く声に苦笑する。あなたが無理やりされる方が好きって言ってもこれは譲れないですよ、と返せば再び沈黙が訪れた。何か言いたげに開いて閉じる口。無言のままで、富永が半端に外したパジャマのボタンをKの指がさらに開けていく。晒された肌を前にして、期待が身体を熱くする。
「無理やりがいい、わけではないが……お前の好きにされるのは構わない」
「け、K……」
どく、と心臓がひどく跳ねて、脳が甘く痺れる心地がした。蜜に誘われる蝶のようにふらりとKへと手を伸ばす。割れた腹筋は見た目は逞しいものの、やさしく撫でればひくんと震えるだけだった。ぁ、とこぼれた小さな喘ぎにためらいは溶かされる。富永は今度はパジャマの布越しではなく直に胸へと手を這わせ、ぽってりと色づく突起をやわく抓んで引っ張った。ふにふにとした感触が、だんだんとかたくなるのがいやらしい。
「ここ、気持ちいいですか?」
「んっ……ぁ、分か、らない……」
これもまた、はじめての感覚なのだろう。自らの胸に目を向けて、ぷっくりと腫れた乳首をKはどんな気持ちで見ているのか。それこそ富永には分からない。けれど富永の目で見たそこは、まるで吸ってほしいと淫らにねだっているようだった。ごく、と飲んだ唾が喉を鳴らす。肌に指で触れるのと、舌で触れるのとでは心理的にも壁がある。それを飛び越えることができたのは、Kからの言葉があったからだった。
「分からない……が、お前がしてくれることは全部、気持ちがいいのだと思う」
「……っ!」
「富永?」
「あ……っあなた、本当にはじめてなんですよね? ああいえ違います疑ってるわけではないですが……なんですかもう……オレを喜ばせるのが上手すぎる」
富永は片手で口元を覆う。にやける顔を隠したところでKにはお見通しだろうが、Kはそんな富永を見て、フフ、と裸の腹を震わせた。沈むベッドは巨大な皿なのかと思う。寝転ぶKは富永の舌を受け入れて、甘く目元をとろかせる。夜の帳のそのなかで、ふたりはもう一度溺れるくらいにキスをした。
「オレのはじめても、Kがもらってください……なんてな」
再び携帯電話を手に持って、富永は長い回想を終わらせた。あのあとは、お互い手探りながらもあれこれ楽しんで、けれどホテルのものを汚すわけにはいかないからとほどほどのところで切り上げた。汗ばんだ身体をシャワーでさっぱりさせてから、悶々としたままそれぞれのベッドにもぐりこみ、しばらくは暗闇のなかでじっと身体を丸めていた。あの時やはり一緒に寝ようと言い出したのは果たしてどちらだったのか。そのあたりの記憶はどうにも曖昧になっていた。ただKと抱き合いながら眠った夜の、あたたかな幸福だけを富永は覚えている。
「あーなんだもう、こんな時間……」
液晶画面に表示されている数字を見ると、常識的に電話をかけていい時間は過ぎていた。かけても怒られることはないだろうが、夜の電話はいらぬ不安を煽りもする。やめておこうと画面を閉じてベッドの上に転がした。夜は静かに更けていく。
「……あの続き、Kはしたいと思ってくれるのかな」
富永はやはり迷ったままでいる。Kを誘う言葉にも、Kを連れ出す理由にも。
あの日のことをなかったことにはしたくないが、Kが望むのなら何もないふたりのままでいい。あるいはKがもっとと望んでくれたなら、なんてことを考えて、富永は唇をゆがめ自嘲した。そんな都合のいいことは、すぐそこにある夢の世界で見るべきものだろう。夜ふかしの夜、落ちる瞼が着信音に開かれるのは、あと少し先のことだった。遅くにすまないと謝る声が甘やかな響きに変わるのを、富永は夢見心地で味わうことになる。