甘い予感というものが、アキレウスには分からない。ふんわり漂う甘いにおいを嗅ぎとることはできるものの、それは予感と呼ぶのはきっと違う。予感というのはそうした五感で確かに捉えられるものではなく、首筋がぞわぞわとする感覚だとか、踵がずくりと疼く感覚だとか、そんなものだとアキレウスは思っている。
それは戦いの予感や死の予感、もっと大雑把に言ってしまえば嫌な予感を基準に考えているせいではあるが、それを指摘する者はいない。長く続くカルデアの廊下はしんとして、戦闘用にシミュレータを起動するまでの道のりにはアキレウスひとりが通るだけだった。
何もない空間が指先ひとつで変化して、怪物が叫ぶ声がする。すぐさま槍を手にすれば、そこからは殺るか殺られるかだけに思考が研ぎ澄まされていく。蹴り上げる土、飛び散る血。すべては機械が生み出した幻想であると分かっていても、懐かしい戦場のにおいにアキレウスは昂ぶった。マスターがいない今魔力を馬鹿喰いする宝具を出すことは出来ないが、それでも身体ひとつで敵を蹂躙するのが英雄だ。かつてトロイアの兵を恐れさせ、今なおその名を語り継がれる戦士としての血が騒ぐ。
キン、と青銅の槍と化け物の硬い外殻がぶつかる音。ぐちゃりと踏んだ生あたたかい血と臓物。練り上げた魔力は雷光のように迸り、身に纏う鎧を鮮やかに照らしオレンジの布をはためかせる。だがその一瞬のうつくしい光景は、またたく間もなく断末魔の声に砕かれ返り血のなかに消えていく。とろりと浮かんだアキレウスの笑みを目にしたものは、もう毒ある尾の先さえも動かない。
そうして人にも神にも邪魔されないまま思う存分殺し合いを楽しんだ後は再び静寂が戻ってくる。エネミーをすべて撃破しました、との文字が浮かぶ画面をいくつかの操作で終了すると、そこには何も残らない。空も風も、土も岩も、こびりつく生命であったものの欠片もすべては夢のように消える。
もう一度。指先をついと動かせば、そこには幻が立ち並び、再びアキレウスを襲ってくるだろう。今度は海を舞台にしてもいいし、雪原や溶岩地帯にしてもいい。あるいは夜空を飛ぶジャンボジェット機の上にだって設定できるのかもしれない。ピ、ピ、と機械に触れる手つきは槍を振るうのと比べてしまえば覚束ないが、それでもそれなりに慣れている。教えを乞えば何事もそれなりにこなせるのは、幼い頃から変わらない。
けれどアキレウスはしばし悩んだ末に手を止めて、青白い光を放つ画面をスリープ状態へと移行させた。じっと文字を追っていた目をぎゅっと閉じる。瞼の裏に広がる闇に、ちかちかとした光の跡。思考が、身体が、戦闘を望むものから日常の形へと戻ってくる。
「そういやそろそろ何か食うか」
くぅ、と腹が鳴るほどではないが、動いた後にはいつも何かを食べている。栄養補給にさほど意味などないと分かっていても、いつの間にかそれがアキレウスにとっての当たり前になっていた。不快はない。むしろ愉しささえあるそのルーティンに、ふっと見慣れたやわらかな笑みが蘇る。昔と違ってほんの少しだけ低い目線。昔と変わらず甘やかで耳に心地よい低い声。アキレウスにこの習慣を馴染ませた人。
食堂へ続く道を歩きながら、アキレウスはどこかにケイローンの影がないかとあたりに視線を巡らせた。召喚されたばかりの頃は一緒にいることが多かったが、だんだんとそれぞれの過ごし方は変わっている。気がつけばアキレウスより先輩にあたる教え子たちが揃っていて、そのうちに後輩にあたる教え子たちがわらわら増えて、もうみんなの先生を独り占めすることはできない。
ただ座学よりも実戦を好み、なおかつ互いに本気を出せる相手となれば、今もよく鍛錬には気兼ねなく誘い誘われる。そうして時には医神の世話になるほどやり合って、その後は共に食堂で甘味と語らいを楽しむことが日常になっていた。その日の勝敗のこと、課題のこと。アイスのトッピングのこと珈琲に入れる砂糖のこと。それから次の休みを合わせる相談と、ベッド横にあるチェストの中身の確認と。
話したいことはたくさんある。廊下に漂う甘い香りが濃くなるなか、アキレウスは会えないことへの落胆と、今日がだめでもまた明日との楽観を抱えて食堂の入り口をくぐり抜けた。がやがやとした喧騒に、かつかつと自身の足音が響き混ざる。
「おっ! アッキーじゃん! いいところに!」
繰り返すが、アキレウスには甘い予感が分からない。だからテンションアゲアゲの平安女子に突撃されて小さな箱を胸元にぐいぐいと押し付けられても、何が何だか分からないままそれを受け取ることしかできなかった。
「夏は世話になったしね。またみんなで宇宙を救う大冒険、しようぜ!」
「おう……いや待てなんだこれ……っておい!」
最速の英雄の問いより速く、キラキラと光が弾けるような演出をつけてバーサーカーは嵐のように去っていく。その背中をおろおろと追う図書館司書は、それでも疑問符を浮かべ立ち尽くすアキレウスに向け端的な解説を添えてくれた。
「その……ハッピーバレンタイン、です……!」
小さな会釈を丁寧に残し、あわあわと去る美女の背中。それを追いかけ追いつき追い抜くことすらアキレウスにとって造作もないが、あえてそんなことをする気にはならなかった。手のなかにあるリボンのついた箱を見る。
本来は苦いはずのカカオを元に、とろりと甘く仕上げた菓子。ハートや星や、思い思いの形に固めたチョコレート。いつもとは違う特別な、この日だけに贈るもの。知識としては一応ある、けれど実感としてはどうにも薄い、バレンタインという行事。
「おやアキレウス。あなたも隅に置けませんね」
しかしどうあれもらえるものはもらう主義。それも中身の喧しさはともかくとして、うつくしい女からのもらいもの。悪い気はしないとアキレウスが唇をふっとゆるめたところ、聞き慣れた男の声がした。
「うぉっ、先生いたのかよ」
つい先ほどまで探していたのは確かだが、こうも不意打ちで現れるとどうにもびっくりしてしまう。音もなく床を踏む足はサンダル履きで、耳に馴染む蹄の響きがないからか。掛かる声が頭のずっと上からではなく首筋をそろりと撫でるからか。アキレウスは振り向いた先ににっこりと笑う師を見つけ、跳ねた心臓を落ち着かせた。
「あなたを探していたのですよ」
ついと指先で頬をくすぐられ、その一瞬の接触に再び胸がどきりとする。汗が冷えたアキレウスよりわずかに高い体温と、ふわりと漂う甘い香り。弓を扱う手は決してやわらかくはないものの、やわらかな仕草がかすかな灯火を残していく。
「……俺を?」
再度の繰り返しになるが、アキレウスには甘い予感が分からない。けれど嫌な予感は人並み以上によく分かる。
会えればいいなと思い焦がれていたひとが、同じくこちらを探してくれていた。それは喜ぶべきことだと思う。にも関わらず、どこか本能的な部分で身体が逃げ出したいと訴える。アキレウスは後ずさりしそうな足を踏んばって、探される心当たりを数え上げた。
「えっと、採点の手伝いはこの前したし、マスターたちと夜ふかししたのはちゃんと反省文書いて提出したし、シャンプー切れてるのは昨日の夜に言ったよな?」
他に俺が何かしたか? と答えを求めて師を窺う。ふぅ、と小さく息を吐く音と、ゆるゆると振られる首。跳ねる髪の毛先を見るともなしに見るアキレウスは沈黙に居心地悪さを味わった。けれど他に思い当たるものは何もない、はずだった。
「それですよ、それ」
だからそれ、と言って示されたものにぽかんとする。ケイローンの言うそれはアキレウスの手に握られた小さな箱。赤い包装と黄色いリボンのバレンタインの贈り物。日頃の感謝を伝えるための、ただそれだけの、誰にでも配る用の菓子。
「……これ?」
「ええ。今日がどういう日かあなたはまた忘れているだろうとは思いましたが、私としては今年もあなたと一緒にこのイベントを楽しもうと探していました。甘いものは好きでしょう? ですが、あなたときたらすでに誰かからチョコレートをもらっている、とはね」
見ればケイローンの手には簡素なラッピングをした包み。先ほど感じた甘いにおい、たった今の話の流れ、どこをとっても中身はチョコレートに違いない。そこでようやくケイローンがどことなく不機嫌な理由を察したアキレウスは傾げていた首を戻し、寄せていた眉を驚きの気持ちで開いていた。
「えっ」
バレンタインをまたしてもスカーンと忘れていた。それについては悪かったなと少し思う。けれど誰かにチョコをもらったことをとやかく言われてしまうのは、アキレウスの予想していないことだった。
ケイローンもまた甘いものをそれなりに好んでいる。どこぞの文系バーサーカーのように餡子だ和菓子だと特定の甘味に目がないわけではないのだが、ここカルデアでは生前にはなかった多くの甘味が味わえる。ゆえにいろいろ試したいとの好奇心から、あれこれふたりで食べてきた。
だからひとりだけ手に入れたものをずるいずるいと思われる。それは他の相手、たとえば少女の姿をしたサーヴァントたちが相手であれば有り得ることなのかもしれない。けれどケイローンにかぎってそんなことはないだろう。アキレウスは短くはない付き合いのなかで様々な師の顔を見てきたが、そこまで子供っぽい考えをしないことははっきりと言い切れる。
「いやでも先生だってもらえるだろ」
「そういうことではないんですよ」
やれやれと再び首を振る姿は大人の顔で、やはりアキレウスのチョコを羨んでいる様子はない。
「まぁいいです。続きは部屋でしましょうか」
そう促され、くるりと向けられた背中を見る。歩くたび揺れる尻尾に現れるほどの不機嫌はないと安堵して、アキレウスはその尻尾を追って食堂をあとにした。師の部屋を訪れることはいつものことで、チョコという手土産もある今日は珈琲も美味しく飲めるだろうとふわついたことを考える。
「なぁ先生」
「何ですか」
呼び掛ければ声が返る。カルデアの廊下はいつものように、食堂から離れるほどに人の気配が減っていく。手のなかの箱。甘いにおい。バレンタインの本当の意味。
「もしかして妬いた?」
ぴたりとケイローンが足を止めた。部屋の扉はもう少し先に見えている。アキレウスはぶつかりかけた文句を言おうと口を開き、けれど言葉が音になる前に、背中にかたい壁の感触を味わった。
「せん……」
「だから、続きは部屋でしましょうと言ったでしょう」
一瞬で姿勢を崩されたのも、ぐっと壁に押しつけられることになったのも、油断や慢心があったからと言えばそれはそうだろう。だが仮にそれらを差し引いたとて、ケイローンの見せた顔に対する動揺が、結局は同じ結果になっていたと思わせる。
「顔、赤い」
「あなたに言われたくはないですね」
「俺のは先生のせいだから」
「私だってあなたのせいですよ」
降り注ぐ蛍光灯の白い光の下、誰にも聞かせたくない言葉が交わされる。
「部屋、行くんだろ」
「そうですね」
ふぅ、と互いに小さく息を吐き、ほとんど密着していた身体がゆっくりと離された。ケイローンが前に立ち、アキレウスが後に続く。ほんの短い距離を黙ったままで進みながら、アキレウスは先ほどの問いの答えがこうくるとはとにやける口を抑えていた。どきどきと高鳴る胸に、期待までもが膨らんでいく。
「せーんせ」
シュ、と軽い音を立てて閉まった扉を見届けて、アキレウスはいまだ背を向けたままの男に呼び掛けた。サイドテーブルに置かれた包み。ケトルを取る手。怒ってはいないというのは分かっている。だが照れている、というのも今は違うだろう。その感情は、おそらく廊下でのやりとりのうちに過ぎている。
「拗ねてるのが可愛いのは人によるんじゃないすかね」
シュンシュンと湯気の上がる音を聞きながら、アキレウスはもらった箱の置き場をどうしようかと少し悩み、まぁいいだろうとケイローンのものの横に並べ置いた。バレンタイン。感謝の気持ちを伝える日。ではなく恋人たちが愛を祝うためにある日。
「しかしこういうのも恋人らしいと言えるでしょう?」
ふたつのマグカップを手にしたケイローンは、やはりもう照れも可愛さもないいつもの顔で笑っている。
「嫉妬は恋人の特権だと、私の弓の師も言っていたような気がしますし」
それはあの恋に一途な月女神か、それともあの恋多き太陽神のことなのか。気になりはしても口には出さず、アキレウスは差し出されたカップを受け取った。ふわりと芳ばしい香り。チョコレートよりも深みのある色の飲み物は、苦いながらも語らいながらちびちびと飲むにはちょうどよい。
「恋人らしい、ねぇ……」
かたりと小さな音を立て、ベッドではなくテーブルと揃いの椅子に腰掛ける。するとケイローンもまたその向かいに置かれた椅子に腰を落ち着けた。ほわほわと湯気が踊る。アキレウスの頬を撫で、かと思えば肩を掴んで壁に押しつけてくる男のがっしりとした大きな手が、チョコレートの包みを指し示した。
「本来ならこちらで十分だったというのに、あなたが鈍いからですよ」
「それは……だって忘れてたし」
「そういうところ、あなたは本当に変わらないですね」
恋人という関係になった後もなる前も。ぼやく声が聞こえるが、それは心外だ、とアキレウスとしては思う。開いた包みからころりと出てきたハートのチョコをひとつ摘み、それをぱくりと口に放り込んだ。とろける甘さ。喉を焼く甘さ。愛の甘さ。
ひと口で存分に味わったアキレウスは、珈琲に手を伸ばす代わりにケイローンへと手を伸ばした。そして先ほどのアキレウスと同じくらい油断しきった唇を奪い、そのまま舌を絡ませる。甘さがとけて混ざり合い、遊んでいるのか遊ばれているのかどんどん分からなくなってゆく。
「んっ、ぅ……ほら、ちゃんと恋人らしいこと、してるだろ?」
得意げに笑ってみれば、濡れた唇を獰猛に舐める恋人と目が合った。テーブルの上にはチョコの残りと珈琲がなみなみ入ったカップがふたつ。背後には、今朝整えたばかりのベッドがひとつ。順番はどうあれハッピーバレンタインは間違いなしの展開に、アキレウスはもうひとつチョコを口にした。それが口づけで奪われるのは、もう少しだけ先のことになる。