仁重殿に置かれたる繰り人形(以下略)二その数日後のこと、広徳殿に訪問者の姿があった。
「台輔、お呼びでしょうか?」
跪拝して礼をとっているのは瑞州師中将軍の友尚だ。訪問者、とは言ったが 実態としては呼ばれて参上しただけなので、むしろ本人の表情には若干の戸惑いがある。
「忙しい所を済みません。急なことで困惑しているでしょうけれど、どうしても出立前に話をしておきたくて……」
楽にするよう伝える台輔は、青白い顔をしていた。そば近くには大僕の耶利と項梁が控え、まださほど寒くもないが傍らに褞袍を用意している。体調を崩しているのかもしれない。
「いいえ、ご用があればいつでもお呼び立ていただいて構いません。ただ連絡の者から聞いた様子では余りにお急ぎのようでしたので少々驚いているだけです」
そうは言うが、友尚は馬州で起きた一部州師将兵による県城占拠の鎮圧のため、近く派兵が決まっている。今の時期は出立前の準備のために忙しく立ち働いているはずだった。実際ほとんど無い隙間時間を縫ってここに立っているのだろう。
「時間が、なかったので……。そこも追々説明します」
仄白い顔をまっすぐ前に向けて ではまず、と話を始めた。
「次蟾や傀儡についてずっと調べてきましたが、このたび進展がありました」
ここに来て?と疑問が友尚の頭を掠める。六年前の乱の平定直後からずっと台輔が国の内外の伝手をたどり魂魄の抜けた者達を元に戻す方法を求めていたことは周知の事実である。他国の宰輔にまで書簡を送っていたが、ここ数年めぼしい話は無かったように記憶している。
その疑問に答えるように台輔が口を開いた。
「これまでと全く別の情報提供者から話がありまして」
「今頃見つかるなど、山奥の洞府にでも隠遁していたんですかその情報提供者というのは」
思わず呆れ声を出してしまう。台輔が方々の有力者、知者、道観寺院、好事家に至るまで「病んだ」者達のことや、魂の抜けたような自失状態から快復した者の情報を募っていたことを知らぬ者は戴国内におるまい。
「そのようなものです。ただ、その者の名は教えてはいけないという約束なので……」
苦笑いとともに、台輔は口の前で指を一本立てて見せた。
「でも…待った甲斐のある話が聞けました。非常に確度の高い情報です」
「……なるほど。分かりました、敢えてそれが誰かと問うことは致しません」
名を出してはならないという条件で、友尚はとある人物に思い当たっていた。
主上を連れて奉天殿から雪崩を打って逃走したあの日、計都を連れ出した娘。阿選亡き今、謀反に際して使われた妖魔の類に最も詳しいのは間違いなく彼女だ。むしろ謀反に妖魔を使うことを唆した人物である。個人的に思うところもある。素性を隠すのはそういうことだろう。
台輔は敵ではないと判じていたようだが、流石に主上の陣営に戻る程の面の皮は持ち合わせていなかったらしく友尚は明幟の世に琅燦の名を聞いた覚えは無い。
台輔とは連絡を取っていたのか と、ただ純粋に驚いた。
そもそも泰麒が傀儡を療養所に集めたのは「病んだ者が集まれば、そこに瘴気が湧く」「麒麟の気によって瘴気の影響は散る」と耶利から聞いていたからだ。
黄朱は妖魔の習性を知る。次蟾についての話は早々に黄朱の者に聞きに行った。そこで知ったのは「病がある程度進行した後は、次蟾の影響下から脱しても快復することはない」という経験に基づく事実だった。黄朱は「何をすれば、どうなるか」はよく知るが「どうしてそうなるか」に興味を示さない。いや、興味はあっても態々調べる様な余裕がないのだ。
他国の麒麟、ひいてはその使令にも話を聞いてみたが、親交のある国に次蟾を使令とする麒麟はおらず、使令達にも魂魄を抜かれた傀儡を癒やす方法を知る者はいなかった。
自ら次蟾を下してみたりもしたが、使令になったとしても妖魔は自らの種についてあまり語らない。それでなくとも次蟾自体が力の強い妖魔ではないからか会話らしい会話が成り立っておらず、能力や生態について聞き出すことは未だにできていない。
次に当たったのは道観だった。魂魄 と聞いた時、蓬萊にいた頃に読んだ本を連想したからだ。九字護法に妙に興味を引かれて手に取った道教の本だった。果たして次蟾が抜く魂魄と、言語概念としての魂魄を同じものとして扱って良いものかは分からないが、何かしらのつながりはあるかもしれない。そう思って。しかし道観にある 陰陽と魂魄に関しての思想体系をまとめた文献は思考の整理程度には役に立ったが、病を解決する糸口はそこには見つからなかった。
結局妖魔のことは、実地に基づいた経験だけがすべてなのだ。
「それで、どの程度調べた?」
生徒の知識を試す教師の様な物言いだな、と泰麒は思った。
「─鶚鵩(がくふく)、あなた検討がついているのでしょう。私が未だ核心に至っていない、と」
「当然」
さもなくば取引など持ちかけないだろう。
「そうと分かっていて聞くのはひょっとして嫌がらせだったりするのでしょうか?」
「まさか。一体どこから説明してやったものか、確認は必要だろう」
ひょいと首を竦めてそんな風に言ってくる。随分と気安い態度を取るようになったものだ。
軽く嘆息を零して泰麒は目の前の鶚鵩─これは世を憚るこの人物の呼び名として泰麒がつけた偽名だ─に言葉を返す。
「まずは認識の擦り合せをする必要があるでしょう。最初からお願いします」
三魂七魄、という語がある。
道観の者から聞いた話によれば、人間を生かしている原動力 精気は陽と天に属する魂と、陰と地に属する魄に分けられる。精神活動を行う魂が三つあり、肉体を生かすための魄が七種ある。それを併せて三魂七魄と呼ぶ、ということだ。
偶然か、道観にかつて妖魔を使って実験した者でもいたのか、部分的に一致する部分もあるので便宜的にこの「魂と魄」を傀儡の魂魄と同じ物と仮定しよう。説明に便利だからそのように扱うというだけで、実際のところ同一物かどうかはあずかり知らぬ話である。
早いうちに呪を施し、護符で守られた建屋にいた傀儡が完全に動かなくなるのに三年かかった。
鶚鵩はそう言った。おそらく事実だろう。泰麒が偽朝に在った頃、傀儡ばかりを六寝に召し上げて天官の数は増える一方なのでは、という疑問があったが
「取り次ぎにしろ門衛にしろ、務めの長い者はいつの間にやら顔を見なくなっていった」
と小臣をしていた者達から聞いたことがある。六年の間に何度か顔ぶれが変わっている、と。
この段階に至った者は最早呪で縛って命令を与えたとしても反応はない。これは自発的活動を行うための魂が残っていないから、と見なすと現象を説明しやすい。その考えに基づいて言い換えれば、魂が肉体から完全に抜けるのに、三年。
だが、この段階になっても、仙籍にない者もしばらくは生きていた。これは肉体の働きを司る魄がまだ残っているからだと考えればつじつまが合う。
しかし、それも無限ではないはずだ。
問うような眼差しを向けられ、泰麒は答える。
「……傀儡のうち、仙籍から抜いた途端命を失った者がいます」
そうだろうな、とでも言うように鶚鵩が頷く。
例えば先の文州侯がそうだった。
彼は謀叛の起きたその時には既に傀儡となっていた。泰麒や驍宗が文州城に入る頃には、魂魄を抜かれて七年が経ち、見(まみ)えた時は既に完全な廃人であった。
そして、残った傀儡達も今は皆仙籍を外れ次々とその数を減らしていっている。
三つの魂が完全に抜けるのに三年、魂魄が抜けぬよう呪を施してさえそれが限界だった。
そしてどうやら魄も同様に抜けていくようだと、そしてその限界は文州侯やほかの傀儡達の例を見るに七年程度なのであろうと察せられた。嚥下反射すら消えた傀儡達に命があったのは、仙であるからどうにか永らえていただけなのだろう、鶚鵩の出した答えはそれだった。
そして刻一刻と減っていく傀儡達については、魄に代わって生命維持を担っていた仙としての超常の力がなくなれば、当然魄の無い肉体は生きられないだろう、と。
「仕組みを説明されたところで、それをとどめることができないのであればあなたの話に価値はありません。話はこれで終わりですか?」
ことさら冷たく切り捨てるように泰麒は言う。くく、と押し殺したような笑い声が帰ってきた。
「この先を聞くかどうかは、自分で決めるといい。残された時間は多くない」
つまり、話はまだある。あるが、これ以上の情報を聞き出したいならば自分の要求を飲めということだろう。無料の情報はここまで、続きは有料で、か。
「……わかりました。取引をしましょう」
ため息に乗せて声を出す。
いいだろう、取引成立だ。楽しげな返答を聞いて思わず眉根寄せた。
「そうだな、堤(つつみ)…のような物だろうか。流れ出る水を一定量留めておく堰(えん)堤(てい)。人を魂魄という水を湛えた湖沼とすれば、その堤を壊すのが次蟾の妖としての特性なんだ」
水漏れ程度であれば修復が効くが、完全に決壊した堤を直す術は無く、そうなれば呪符で縛って流れ出る魂魄を少しでも少なく留めるのが精々、と。そして───
「…待ってください」
すべての話を聞き終えて後、蒼白な顔で泰麒は言った。
「今の話を総合すると、傀儡を、七年を超えて生かす方法は『無い』ということじゃないですか……」
そう、泰麒が求めていたのは魂魄が抜けて傀儡と化してしまった彼らを快復させる方法、元の人生の続きを始められるよう『病んでしまう前』に戻すための奇跡だ。
しかし、藁をも掴む思いで得た情報は残酷な事実だった。
「だから言ったろう、残された時間は多くない、と」
先ほどの己など比較にならないほど 暗く、冷たく、無情な声だった。
与えられた情報を生かすか、このまま死なせるか、自分次第だ。そう突きつけられた様な気がして、身が竦んだ。
話の途中、喉の渇きを覚えキリのいいところで泰麒は傍らの項梁に水を求めた。その顔色は友尚が堂室に入った時よりも悪くなっている。
「……堤、ですか。堤が破れれば中に溜めた水は流れ出す。人の中に湛えられた魂魄が次蟾の開けた穴から漏れていく、と?」
そこまでの説明を聞き、友尚は口元に手を当て何事かを考えている。
「はい。そう、例えていました」
「その、漏水した堤防を補修した経験はあるのですが、私は寡聞にして決壊した堤の流れる水を押し戻して修復したという例は……」
言いさして、飲み込むような間。
「話の腰を折って申し訳ありません、ただの例えとは分かっているのですがどうにも己の職分に引き寄せて考えてしまって」
口の端をゆがめて友尚が言った。笑おうとして失敗した顔だ。
「同じことを言われました」
暗く沈んだ顔で台輔が言う。顔が一層白くなったように見える。
「現状で穴を塞ぐ方法は無く、ひとたび流れ出た水を元に戻すすべはない、と」
堂室の空気がさっと冷えた気がした。指先が冷たい。きっと自分も台輔と似たような顔色になっているのだろう。
七年。
これまで曖昧だった傀儡の寿命が、確固たる数字として示されてしまった。
恵棟の魂魄が抜かれたのは弘始九年、すなわち明幟元年の春である。
あの乱からすでに六年が過ぎた。
覚悟はしていたはずだった。しかし覚悟していたからと言って、突きつけられて平静でいられるかはまた別だ。
友の命の刻限は、せいぜいがあと半年。
─現状で穴を塞ぐ方法は無く、ひとたび流れ出た水を元に戻すすべはない
六年探し続けた奇跡がわずか半年で見つかるとも思えなかった。