乍朝右界奇譚拾遺集 -願いの叶う宿帳のこと-願いの叶う宿帳のこと
明幟の二十年頃のこと。凱州北部に舎館(やどや)あり。
主人 人柄温厚にして篤実、有識故実に明るいとのおぼえ也。
近隣より請われて閑日私塾の体をなす。
使ひ古して草臥れたる木簡、竹簡、よろづに継ぎ綴じ手習ひが為に供したるものをば設(もう)ければ訪れたる者みな筆のまにまに書き遊(すさ)ぶなり。誰からと無くいつしか宿帳と呼ばへり。
さても一つの不思議なること、此の宿帳 見れば脱簡甚だし。
よしなしごとを書き成して、簡牘(かんとく)失せたる者の言ふ。
「亡父の形見の盗まれたるを宿帳内にてくねりたり。一月(ひとつき)の後、出でにける」
「尋ね人より消息来たり」
「故郷の酷吏の妖魔に遭ひ、官位返上し下野せると聞く。いとこころよし」
曰く、其は人の願い聞きたる宝重なめり と。
─凱州
「本当だよ! 先週の手習いの時、僕ぜったいにここに書いたんだ。無くなってる!」
「なになに? なに書いたの?」
昼下がりの影が落ちる建物の中、興奮気味に話す子供達の賑やかな声がする。
「……えーっと…たしかその日見た、しましまのでっかい馬が飛んでた話だったかな…」
「なにそれつまんない。点心(おかし)いっぱい食べたいとかなら良かったのに」
「ねえそれって騎獣なんじゃない?」
「ええっ!そうなの?なら馬が飛んでたじゃなくって『僕も乗りたい』って書けば良かった!そしたらお願いが叶ったかも知れないのに」
はしゃいだ声を割るように、玄関口の方から大人の苦笑の声が聞こえてきた。
「こら、今日は大事なお客さんが来てるから読み書きの教室は無いって言ったろう?」
子供達は一斉に声の方に振り返り
「えぇー! でも練習ならいつでもこれに好きな時に書いていいって言った!」
「べつにいいでしょ、家の手伝いは終わったもん」
「ねぇ聞いて聞いて、僕が『やどちょう』に書いた札無くなってるの! お願い叶うかな?」
銘々に喋りかけてくる子供達の圧に、買い出しの荷を抱えたままの男は思わず仰け反った。
凱州の北部、委州との境から幾ばくか離れた田舎町。交通の要衝からは外れているが旅人や都市に廛舗を構えるような商人が仕入れのためにちょっと立ち寄るには便利な場所にある、そんなのどかな土地の 近隣で唯一の宿、今子供達にやり込められている男はこの宿館の主だ。
壮年というにはいささか歳を食っていて、かといって初老とまでは言えない。いまいち年貌(としのころ)が判然としないが穏やかで誠実そうな顔をしたそんな人物だ。
大きな乱があった後、子供達が生まれるよりも前この里にやってきたそうだ。字を品堅という。
「落ち着きなさい。まず、その木簡は糸がほつれていたから昨日修理したんだよ。元々ありもので繕っただけだったしボロボロだったろう。直してる最中どこかに紛れてしまったんじゃないか? あと 誰だい その書き付けた木簡がなくなったらお願いが叶うとか言い出したのは。見ての通りこれは材木にならない木っ端を拾ってきて焚き付けにする前に書き付けにでもしようかって作っただけで、そんなご大層なものじゃないよ」
言いながら、子供達の手にあった簡牘をつまみ上げて新しい紐で綴じ直された部分を示す。
「でもうちの裏の李さんは、盗まれたと思った形見が見つかったって言ってた! そんで一年前ここでおじいさんの形見を盗まれたこと書いたって言ってたよ。さっき、その話も載って無かったの確認したもん」
「そうそう、ほかにもあるよ!」
「そりゃあ去年の分なんかもうとってないだけさ。それこそ墨の跡を削ってももう書けないくらい薄くなったら焚き付けに使っているし。それに失せ物が出てくるなんてよくあることだ」
「やだやだやだ!そんなの面白くない!」
「夢がない!」
「点心いっぱいたべたい!」
「じゃあ僕騎獣にのりたい!」
どさくさに紛れて願望を叫び始めた子供達を前に苦笑と冷や汗を流し始めた品堅の後ろで小さく床の軋む音がした。振り返った先に身なりの良い若者の姿を認め、額に手を当てる。
「郎君(わかさま)!……用事を済ませてくるので客房で待っていて下さいとお伝えしたでしょう」
「いえ、あまりに楽しそうだったもので。賑やかですね」
郎君と呼ばれた若者が微笑む。黒い髪を緩く結わえて垂らした細身の少年だ。
「おつきの方はどうされたんです」
「撒いてきました」
「変なご冗談はやめて下さい」
そもそも用意した部屋は半房の同室である。隣の部屋にいるのだから撒くも何もないだろう。
適当な用事でも言いつけたのか部屋で待機するよう申しつけられたのか……。相手の立場を思うと胃が痛む様な気がした。
「ああ、そうそう。いっぱい、とはいきませんが点心ならありますよ」
少年が背をかがめて子供たちに視線を合わせると、懐から包みを取り出す。包みの口を開けると、中には蓮の実の砂糖漬けがころころと入っていた。
白くなるまで精製された砂糖、それをたっぷり使った甘いお菓子は高級品だ。
子供達は驚いた顔で目の前の砂糖漬けと、若者の顔と品堅の方とを見比べている。
「そういえば、ここに来る途中の丘に椎の実がたくさん落ちてましたね。僕は椎の実が大好きなんですけど、拾いに行きたかったなあ。本当は今日椎の実拾いに行くつもりだったのに、品堅とお話があるのでいけなくなってしまいました。残念だなあ」
あさっての方向を向いてそんなことを嘯くと、子供達の目がぱっと輝いた。
「おにいちゃん、僕ら椎の実たくさん拾えるところ知ってるよ!」
「うん、南の丘よりも もっとずっと沢山落ちてるんだよ」
「一日あれば甕一杯になるくらい!」
「ええ! 本当ですかそれはすごい」
ニコニコと、若者が応じる。
「じゃあ僕らが椎の実沢山拾ってくるよ! だから、えっと…」
「ねえこれ食べてていい?」
「ええ、いいですよ。喧嘩せずにみんなで分けて食べて下さい」
「やったあ!」
「点心いっぱい!」
「拾いに行く前に籠持ってこようよ!」
「こら、お礼をちゃんと言いなさい」
「ありがとうお兄ちゃんまた後でね!」
言うが早いか、包みを受け取った子供達は我先にと外へと駆けていった。
急に静かになった飯堂に思わず苦笑がこぼれる。
「随分と人払いがお上手ですね、郎君」
「年の功というやつでしょうか」
「私が貴方と同じ年頃だったのは随分昔ですが、その時から今に至るまでずっと子供のあしらいなど全く分かりませんでしたよ」
子供達が出て行った扉を眩しそうな顔で見つめた。
「そう言う割には、随分と好かれているようでしたよ」
「では、それは年の功ということにしておきましょうか」
顔を見合わせ二人して少し笑った。
「……台輔、どうぞおかけになって下さい。今日は前においでになったときよりは有意義なお話ができそうです」
そう言いながら品堅は一枚の木片を卓上に置いた。
「そんな風に言われては困ります。私がここに来るのはただの休養ですよ」
苦笑をこぼしながら若者─泰麒は着席して品堅にも座るよう勧める。
「その休養でいらっしゃるたびに、草寇(おいはぎ)退治やら郷長の収賄調査やらの大立ち回りをなさって帰るのは一体どなたですか」
「私の護衛ですね」
間違いではない。が、誰がそれを命じているかという話である。
「次から偽名として越後の海客、高里主水って名乗ろうかな」
「はい?」
訝しげな品堅に 何でもないと片手を振ると、泰麒は卓に置かれた木片を手に取る。
「なるほど、先ほどの子供が言っていた騎獣の件ですか」
「はい。丘で遊んでいるときに山から飛んで来て平野へ、ということでしたから委州の方から南東へ向かったものでしょう。ここから南東へまっすぐ向かえば州城があります」
「このあたりで吉量を飛ばせるような大きな商家は?」
「ご存じでしょうがこのあたりの騎獣の多くは十年前の勅令の際に徴発されています」
二十年ほど前の乱の後 戴は全土がボロボロで、民間で騎獣を養えるような者の大半は牙門観の葆葉の様に、上手く立ち回ることのできた大商人であった。中でも早い段階で偽王への恭順を示した藍州、馬州、凱州では瑞州から離れていることもあり余州に比べれば焼き討ちの被害は格段に少ない。凱州は妖魔の被害こそ甚大であったが大きな商家は妖魔への備えも厚い。
農村部では 危険を推しても耕さねば年を越えることもできない そんな人達から食われていった。田畑は荒れて廃れるが、都市部では資産のある者が鉄の門扉と護衛を備えた邸で命を守る。
結果として凱州は金持ちほど資産が残り、そうでない多くのものは命以外の全てを失った。
だというのに、相対的に見れば焼き討ちにも遭っていない、大きな商家も残っている、凱州は恵まれていると余州からのあたりがきつく、荒民として逃げ出しても里がまだあるなら戻れと言われて追い返されて、しつこく残る妖魔のために農地の開墾もままならない。そんな様では人心も荒み、治安は経時と共に悪化した。
王の膝元である瑞州がなんとかまとまりようやく余州に朝廷の目が行き届くようになった頃、たったの数年で凱州における貧富の差は他州と比較しても類を見ないほど大きく開いていた。対策に乗り出すのがあと少し遅ければ馬州の様に大規模な暴動がおきていたことだろう。
─間に合った、と言うわけにはいかない。その間に失われたものが多すぎる。
「十年前の勅令は……応分負担の名目で供出を要請した時のですね。あれは騎獣の種毎に返還までの年限が異なっていました。吉量と騶虞はたしかまだ借用期間中だったはず」
妖魔さえ出なくなれば農地は再び開拓できるようになる。それまでの間、復興政策として事実上荒民と化した者は人夫として集め、労働の対価として賃金や食料の配給を行い 一方で素封家には一時的に騎獣や手持ちの資産を「国が借りる」という形で運用に制限をかけた。
大きな資産はあるだけで運用益を産み、それがまた格差を拡大させる。
その再生産をどこかで止めてやらねばならない。
しかし強権を以て没収などするわけにはいかない。だから「借りる」ことにしたのだ。
今は王と麒麟がそろっているのだ。王朝が正しく回りさえすればいずれ国土は回復していく。
だから、皆が富める様になるまで少し待っていてほしい、というわけだ。
「ええ、既に騎獣の返還ははじまっていますが、吉量はまだ期限が来ていないので新たに購入した者でもいない限り州の空行師でしょう」
大分回復したとはいえ未だ地方は多くの土地が復興中である。悪路に強い騎獣は需要が高い。そして極国であるため、黄海で捕まえるのが殆どの妖獣は供給が少ない。
高需要低供給。つまり高価だ。せっかく高値を出して購入したところで万が一国から供出を要請されてはたまらない。目端の利く商人であればこのご時世に高価な騎獣を購ったりはすまい。
「単独で飛んでいたということは訓練ではなくいずこかへの伝令の帰りでしょうね。このあたりには資産に制限をかけられたことで不満を持つ商人もいます。火種には困らない」
「中々、きな臭い話になってきましたね」
「このあたりも大分落ち着いてまいりましたから。時期と言えば時期です」
品堅は小さく首を振った。この程度は対応を間違えなければ小火で済む範囲だ。
それにしても、と台輔は手の中の木片をまじまじと見つめる。
「これ、いいですね。市民の噂話でこんないろいろな物が見えてくるなんて」
「王や州侯ならば市井に草を放つというのもよく聞きますが、台輔が独自の情報網を持つというのは聞いたことがありませんよ」
他州でもやってみますか? などと、冗談のつもりで言えば台輔の目が一瞬きらりと光ったような気がして空気を飲んだ。余計なことを言ったかも知れない。
「こちらの件は、私が引き取ります。ではここから私の今回の本題なのですが」
木片を仕舞いながら、台輔が卓上で指を組む。
「瑞州師に戻る気はありませんか」
「……休養にいらっしゃった筈ではありませんでしたか?」
そこはそれ、と目の前の麒麟はきっぱりと言い放った。
「貴方が下野してから……もう十七年でしたでしょうか。完全に払拭されたとは到底言えませんが、軍の空気も大分変わりました。友尚がよくやってくれています」
このところ将帥からの下野の打診が増えているらしい。後進に位を譲ろうにも一度に入れ替えが起きれば混乱する。何よりそんなことになれば中堅層が空洞化する。まだ打診程度だが実際に下野を見越して準備している者も多くそろそろ手を打たねばまずいのだ、と台輔は説明した。
「下野して十七年も経っては、兵としては薹が経ちすぎです」
「兵ではなくて将ですから問題ありません」
台輔が酔狂で既に下野した旧軍の将を呼び戻そうとしているわけでないのは理解している。
今 軍に残っている将軍と師帥は皆、墨幟を掲げて戦った者達だ。この二十年を荒廃した国土のためと思って走り抜けてきたのだろう。少しずつ妖魔は減り禾黍(みのり)が増え、山野に緑が戻ってきた昨今、揺り戻しが来る頃だ。下界では弘始の世を知らない世代も増えつつある。
これまで必死で戦ってきた燕朝の彼らが人生を見つめ直して、これまでと違う生を選びたいと思うのもやむを得ないことだろう。そして、品堅にはその二十年を彼らに任せて自分は逃げたのだという自覚があった。だが
「このご時世に老将など流行らないでしょう。若者を昇進させてやれば初めは多少まごつくかも知れませんがすぐに馴染みます。いいではないですか旧弊打破すべしというやつです」
「老将って…貴方は巌趙よりも年下ですよね?」
「これは失礼を。……え? 巌趙殿は現役なのですか!?」
「杉登と一緒によくやってくれてますよ」
杉登の名を聞いた一瞬、品堅の目が懐かしむように細められた。
「たしか杉登も、白圭宮攻城戦の時は貴方と同じく先陣部隊でしたね。非常に凄惨な戦いだったと聞いています。先陣で生き残って軍に残った者が一割もいないというのは私も知っています。ですが……酷な物言いをしますが、同じ場所で戦った杉登はまだ頑張っています。力を貸してはもらえませんか」
まっすぐな目に射貫かれて、品堅は口の中の苦いものを飲み下す。
それはできない。どうあっても、自分は軍には戻れない。戻ってはいけない。
「……台輔。かつての右軍…阿選軍が、どのように評されていたかはご存知でしょうか」
久しぶりにその名を口にしたな、と頭の片隅で思った。
「私の口から申し上げるのは非常に烏滸がましいことですが嘗ては 品行が良く、統率がとれた、情義を重んじる軍であると。そしてそれは将がそうであるからだ、と。その様に言われていました」
「知っています」
そう言う台輔の目は、やはりまっすぐだった。
「五人いた阿選軍の師帥は、そのような将の性質の内、何かしらをそれぞれが引き継いでいたように私には思われるのです」
そう言って品堅は くしゃりと反故紙を丸めるように笑みを浮かべた。
「戦術と軍略に秀でた者、規律に厳しく過ちは糺(ただ)そうとする者、何があろうと承(う)けた下命は遂行する者、理非と情義を秤(はか)り最善手を選びとる者」
早々に粛正された者もいれば主に殉じた者も、今まだ生きている者もいる。そんな中で
「私はよく『温厚で誠実だ』と過分な評を頂いておりました」
阿選軍に配される前から、そう言われることが多かった。かつてそれは間違いなく自分にとって誇りであった。そう評されることが誇らしく、そうありたいと思っていた。
「過分ではありません、私は貴方のことをとても誠実な人だと思います」
台輔の言葉に、小さく首を振った。
「先ほど仰いましたね。白圭宮での戦い、特にその先陣は非常に凄惨な戦いであった、と」
その場にいた者として断言する。それは事実だ。
傀儡の命を駒にして敵ごと擂り潰す様な戦端に始まり、妖魔すら投入した 人を人と思っていれば到底実行しない様な戦術。そして敵が人であればこそ、この上なく有効な戦術。
「分かっています。多くの士卒が心的外傷(トラウマ)を負いました。兵も将も関係ありません、それを目の当たりにした貴方に軍に戻ってほしいというのが酷なことも承知しています」
台輔の言が真摯であればこそ、自らの懺悔を前に、指が硬く強ばった。
「いいえ、違うのです」
くしゃくしゃに丸めた紙のような笑い顔は、今や泣き顔の様相だった。
「私は、それらに絶句しました」
そう、絶句した。あまりの悲惨さに。
「そして、納得しました。ああ、合理的な戦術だな、と」
そう、理解した。将としてその有効性を。
「私は、戦場に立ってはいけない人間なのです」
いつか自分もああなるかも知れない。なぜならばその効果を理解できる人間だから。あの戦を思い出して苦しいと思えば思うほど、それを一瞬でも理解できた自分が脳裏をよぎる。
「いつか私も同じことをするかも知れない」
「あり得ません」
台輔が品堅の手を取り、力を込めて言う。
「鴻基から漕溝に逃れ共に過ごし、明幟でも三年を瑞州師で共に過ごしました。貴方の為人はよく知っています。その上で私が断言します、貴方はそんなことは決してしません!」
「台輔……」
ああ、今自分はどんな顔をしているのだろう
「みんな、そう思っていましたよ……」
息を飲むように、台輔の手から力が抜けた。
甕一杯の椎の実を抱えた郎君と、窶れた顔で泣きそうな護衛を前に品堅は苦笑を浮かべていた。
「今回も、すっかりお世話になりましたね。また来ます」
晴れやかな笑顔で少年が言う。
「今度いらっしゃるときこそは、おつきの方が変わっていないことを祈りますよ」
隣に立つ半泣きの護衛に視線を送りながら品堅は半ば本心からそう言った。
そして、たかだか一週間いたかどうかの間にたった一人で州城の警備をかいくぐって機密文書の持ち出しを成し遂げた白圭宮の小臣に心の底から同情していた。
きっとこの後王城から凱州へ勅使が送られ、この辺りもしばらく慌ただしくなることだろう。
「何ででしょうね? 私は同じ人に頼みたいのに何故か毎度断られるんですよ……」
ぶつぶつと小さく不満をこぼすその姿は年相応の少年のようでなんだかおかしい。
手に持っていた荷を馬に付け、出立の準備を整える。鞍にまたがるその姿は当たり前の旅人だ。
そんな普通の旅人が実は国に二つと無い高貴な方なのだと思うと不思議な気分になる。
「馬の旅も好きですけど、折角ですし 次に来るときは吉量に乗ってきましょうか」
「あまり子供達を甘やかさないで下さい。ただでさえ変な噂になって困っているんです」
「ああ『宿帳』に書いた木簡がなくなると、書いた願いが叶うっていうやつですか?」
質問に肯定しようとして、はたと気づく。
「郎君……その『宿帳』というのはなんですか」
子供達が、手習いのために作った書き付け用の簡牘をそう呼んでいなかっただろうか。
だがそれを自分が宿帳と呼んだことは一度も無い。
品堅が付けている宿帳はもちろんある。当然のごとくそれは宿泊者の記録と名簿のことだ。
「……あの。これは もしかして、という仮定の話なんですが……」
自分でも思ってもみないような低い声が出た。
「おや、出発の時間が過ぎているようですね! それではまた来るときは連絡します!」
言うが早いか隣の護衛を急かして馬の腹を軽く押した。ぽくぽくと、馬が常足(なみあし)を始める。
「……郎君!」
品堅の抗議を含めた声に構わず、馬は軽快に歩を進める。
「それではまた!椎の実をくれた子達にもよろしく言っておいて下さいね!」
振り返って手を振った少年は、いかにも屈託のない笑顔を浮かべていた。