アイスクリームは楽しくないずっと、憧れていたんだ。
「……あ」
けたたましい音とギラギラ七色に光るライトを見にまとったアイスクリームトラックは向こうへ行ってしまった。ドップラー効果で変わる音色はオモリボーイの鼓膜を揺らす。窓から外を眺めていた彼は、小さな吐息を漏らしてそっと窓枠から手を離した。
窓枠の下ではニャーゴがちろちろと腹を舐めていた。こちらを見ることもなく、ただちろちろと、ちろちろと。けれどオモリボーイは何もすることがなかったので、ただそれを空っぽの頭で見ていた。
いつまでそうしていたのかよく分からない。そうやって空っぽのままでいられることが、オモリボーイは得意だった。いい意味でも、悪い意味でも。ニャーゴはすっかりオモリボーイに興味を無くして(いいや、きっとハナから興味などなかったのだろう)定位置であるブランケットの上で眠っていた。ここに時間なんて邪魔なものはないから、オモリボーイは自分がどれくらいの間空っぽでいたのか分からなかった。でも、多分、アイスクリームトラックが通り過ぎる前からずうっと空っぽで何も無いのだろうと、なんとなく理解していた。何せ、考える時間は邪魔なくらいあるから。
くぁ、と欠伸をした。頭を使わないというのは実に頭が疲れるものだ。窓から離れ、ニャーゴの隣に座り、ブランケットを引っ張った。安眠を邪魔されたニャーゴが恨めしそうにオモリボーイを見やり、それを見て「ごめん」と小さく謝ったオモリボーイの隣に座った。上体を寝かせてブランケットを腹にかける。この温かさから離れるのは口惜しいと、ニャーゴがオモリボーイの腹の隣に座り込み、顔を腹の中へうずめた。
目を閉じながら先程の喧しい歌を思い出した。歌が上手いなど言われたことは無かったけれど、小さい鼻歌を歌うことは好きだった。そういえば、どうしてアイスクリームトラックが来たんだろう。自分の思い出の中に、何か良い出来事があったっけ。多くは無い思い出たちをひっくり返して、そうして、そこで、アイスクリームがあまり好きではないことを思い出した。
どうして、アイスクリームが好きじゃないんだろう。別に、甘いものが嫌いという訳では無い。冷たいものが嫌でもない。あれ、じゃあ、どうしてだったっけ。海馬に吊るされた糸を手繰り寄せて、ああ、これかと思う記憶を見つけた。
アイスクリームトラックが対向車線に止まっていた。周りにはアイスクリームをねだる子供が数人と、その親であろう大人たちの笑い声。ママに手を引かれるオモリボーイは、それをじっと見ていた。欲しかったけれど、ここで欲しいとねだってしまえばまるで自分があそこにいる子供たちと同じような、見ているだけで恥ずかしい存在になるのかと思うと何も言い出せなかった。けれど、オモリボーイの母親はそれも見抜いてくれていた。
『欲しい?』
ママにそう言われて、バレていたことが恥ずかしくて、でも頑張って頷いた。内気なオモリボーイの精一杯の意思表示だった。ママは笑って『好きな味、選びましょう』とオモリボーイをアイスクリームトラックへ連れていってくれた。けれど、人混みと喧騒とたくさんの視線が怖くて、顔を上げることさえできなかった。ちらと目線だけを上にあげて、『チョコレート』と見えた文字をそのまま言った。もう一つ選んでね、とママにいわれたけれど、オモリボーイは強く首を横に振った。ママが店員と何かを話している時も、店員がアイスクリームを作っている空白の時間も、オモリボーイにはあまりにも長く感じて、早く人混みから抜け出してママと2人になりたかった。
ママに手を引かれ、喧騒が遠ざかっていく。
『ほら、お食べなさい』
そう言われて、オモリボーイはやっと顔を上げた。手渡されたアイスクリームの、ひんやりとした感覚と、薄茶色と薄黄緑のコントラストがひどく綺麗で、それだけは美しい記憶として残っていた。
微睡みの中、ふと、想う。
ずっと、憧れていたんだ。
もしも勇気があったなら、アイスクリームを食べたいと、ママに言うことが出来ただろうか。
もしも勇気があったなら、本当は食べたかったレモンシャーベットを選ぶことが出来ただろうか。
もしも勇気があったなら、シングルでもダブルでもなく、トリプルのアイスを頼めただろうか。
オモリボーイは思い出す。
夕暮れの藍に染まったアスファルト。
広がる染みと群がる蟻ども。
つめたくてあつい両手。
甘いはずなのに、ちっとも甘くなかったチョコレート味。
スースーして、歯磨きみたいで嫌だったミント味。
誰かの声。違う。たくさんの人の喧騒から聞こえた、誰かの笑い声。
『ママ、アイスクリーム、美味しいね!』
ニャーゴは眠っている。猫は溶けるとはよく言ったものだ。
目を瞑るオモリボーイの頭の中も、溶けてとろけて、やがて消えていった。