ばんりおキャッチボール(仮)「白石、付き合ってもらって悪いな」
「いいよ! 俺も息抜きしようと思ってたところだし」
つかの間の休息。
たまには外で体でも動かしてリフレッシュしたいな、と思っていたところに凛生くんから「公園に行かないか?」とお誘いがあった。
もちろん断る理由はないし、凛生くんと一緒の時間を過ごせるのは願ったり叶ったりだから、二つ返事でオーケーした。
「いつもみたいに、キャッチボールでいいか?」
そう。俺たちは公園に行くとよくキャッチボールをしている。
ここは広くて防球ネットも完備されているし、草野球の試合なんかもよく行われている。
夕方すぎに行くと部活動を終えた近所の高校球児たちが、自主練習のために訪れたりしていることもある。
それを眩しそうに見つめる凛生くんの夕陽に照らされた横顔は、どきっとするほど綺麗だったけど、なんだか切なくて―― 心がぎゅっとなったことを覚えている。
「もちろん。そのためにグローブ、持ってきてるんでしょ?」
「……ああ」
苦笑いをしながら、凛生くんはナイロン製の袋からふたつのグローブとひとつのボールを取り出した。
「いいよ、遠慮しないで。チビたちとやるから、俺がまあまあできるの知ってるでしょ?」
「そうだったな」
手渡された黄土色のグローブは、よく使い込まれている。でもボロいってわけではなく、表面は滑らかで、革は柔らかくなっていて、紐が弛んだところもない。
野球に詳しくない俺でもちゃんと手入れされている、というのが分かった。
「そのグラブ、使いやすいだろう」
「うん、なんだか凛生くんの歴史を感じるよ」
「はは、かなり長いこと使っていたからな」
「そっちのは?まだピカピカだけど」
凛生くんが左手に嵌めているのは黒色のグローブ。
どう見ても俺が使わせてもらっているのより、真新しい。凛生くんはグローブを馴染ませるかのように、閉じたり開いたり、右手でボールを受けるポケットのあたりを揉んだりしている。
「高三の時に買った投手用のグラブなんだ。……あまり、使ってやれなかったからな」
「……なんか、ごめん」
「いや、気にしないでくれ。こうして使う機会ができたのも、白石がキャッチボールに付き合ってくれるおかげだ。……ありがとう」
「凛生くん……」
シンプルで飾り気のない感謝の言葉が、じんわりと俺の心を充たしてくれる。こんなにさらっと、ストレートにお礼を言われたら……まいっちゃうよね。
「……キャッチボール、やろうよ!」
「ああ」
「最初は軽めに」と比較的近い距離から始めた。
この距離なら俺も、凛生くんが一歩二歩動くだけで済むところに投げることが出来る。キャッチボール専用の球だというそれは、硬球のようにかたくなくて、どちらかというと軟らかい。けれど、野球のボールらしく赤い糸できちんと縫い目があって。
正しい握り方を教わったけど、途中から気にせずに投げちゃってる。
一方、凛生くんがお手本のように綺麗なフォームで投げたボールは、俺がグローブを構えたところに返ってきて、パシッ、と小気味のいい音を鳴らす。
でも、ちょっと―― いや、だいぶ? 手加減して投げてくれてるな、ってのは感じる。
「凛生くん、もっと強く投げてもいいよ!」
そう言って俺は、一球投げる毎に一歩ずつ後ろへ下がっていった。
凛生くんもそれを心得たのか、半歩ほどずつだけど、俺との距離を徐々に長くしていく。
キャッチボールを始めた時よりも倍近く離れただろうか。それでも凛生くんの球は、俺の構えたグローブにまっすぐと、寸分の狂いのないコントロールで届く。
俺の方はと言うと……一応、凛生くんの元には届くんだけど、さすがにここまで離れると――
コントロールが全く定まらなくて、凛生くんを右に左に走らせることになっていた。
「ごめん!! 凛生くん!」
「平気だ! いい運動になる」
やがて俺の球は凛生くんの手前でワンバン、ツーバンするようになって……そのうち、ゆる~いゴロを捕る練習をさせてるみたいになってしまった。
お互いの声が聞こえないほど離れたけれど、凛生くんが投げる球は綺麗な回転を伴って、手元でぐーんと伸びるように俺のグローブ目がけて一直線に飛んでくる。
――どこまで届くのか、試してみたい。
その一心で俺は後ろに下がり続けたけど、
ガシャン!
背中が金網のフェンスにぶつかってしまった。
……ここまでのようだ。凛生くんも、両腕で大きくバッテンを作って駆け寄ってきた。
「こんなに遠くまで……すごいね! 凛生くん」
「白石……! 怪我は、……なさそうだな。ふっ、久々にちょっと本気出したぞ」
「あはっ、本当に!?」
そうしてふたりで笑いあってると、周りがざわざわしていることに気付いた。
いつの間にか人だかりが出来ていて、あの兄ちゃん凄いな、なんて声が聞こえてくる。
うんうん。うちの凛生くんはすごいんだよ。
「もしかして、桔梗さんっすか!? 自分、札幌出身で兄貴が桔梗さんのひとつ上の世代で――」
紺色のブレザーを着て、おおきなリュックを背負った高校生の集団が凛生くんに声をかけている。
その中でもひときわ体格のいい坊主の学生は、札幌の中学から東京の高校に進学した、という話だ。
後輩に絡まれて少しだけたじろいでいる凛生くんは、なかなかに新鮮で。俺は思わず顔がにやけてしまった。
「球の伸びエグいっすね!」
「全然だ。以前はこんなものじゃなかった」
「あの! 自分、キャッチャーやってるんすけど、球受けさせてもらってもいいっすか!?」
「……いや、俺はもう、」
そう言って、助け舟を求めるようにちらり、とこちらに視線を送る凛生くん。
――うん。何となくだけど……考えてること、わかるよ。
凛生くんは、今でも野球が大好きで。
俺みたいな素人とキャッチボールしたり、プロ野球を観戦したり。
そういうことはできるし、したいんだろうけど……
現在進行形で野球に真剣に取り組んでいる高校球児だとかそういう領域には、もう足を踏み入れてはいけない、って一線を引いているんだ。
凛生くんの考えを俺は尊重してあげたい、けど。その枠をぶっ壊して、あの夏の呪縛を解いてあげたい、とも思った。
「……いいんじゃない? 胸貸してあげなよ。俺も、凛生くんの格好良いところ見てみたいな」
「だが、」
「オネアシャアス!!!」
……としか聴き取れないけど、言いたいことは伝わる体育会系独特の「お願いします」と共に腰を直角に曲げてお辞儀する高校球児。
凛生くんも、さすがに断りきれなくなったみたいで。
「わかった。三球だけ」
「アザァス!!!」
結局、凛生くんが折れる形となった。
高校球児はこれまた独特の「ありがとうございます」を叫ぶと、ブレザーの上着を脱いで、リュックからキャッチャーミットを取り出した。
ちょうど、野球場のマウンド周辺は誰も使用していなくて。せっかくだから使わせてもらうことにしたみたい。
硬式のボールを使うのでどこからかキャッチャーの防具も借りてきて、あちらの準備は万端だ。
凛生くんは俺とのキャッチボールで肩慣らしは出来ているけど、硬球を握るのは久々のようで……手のひらで、指先で、その感触を確かめていた。
マウンドに上がると「ストレート」と球種を伝える。
左足を上げて、腕を大きく振りかぶって一球目を投げた。
バシィ! と公園全体に響き渡るんじゃないかというくらい、ミットがいい音を鳴らす。
「ナイスボール!」
キャッチャーからの返球を受け取った凛生くんは、なんだかふっ切れたような……さっきまで渋っていたとは思えないほどすっきりとした表情をしている。
「次、変化球ください!」
「ああ。スライダー」
ボールの握りを見せるように右手を突き出して、空中で右から左にくいっ、と手首を動かしてジェスチャーをする凛生くん。
ストレートとほとんど変わらないフォームで投げられた球は、キャッチャーの手元でぐぐっ、と左に曲がる。
凛生くんは「曲がりすぎた。あれではボールだな……」と呟いていたけど、さすがに相手も現役の球児なだけあって、ストライクゾーンから外れてもミットを動かして対応して、パシッと上手く捕球している。
「へえ、あんなのも投げられるんだ」
俺ならきっと後ろに逸らしちゃう、かな。でも、凛生くんからの変化球……ちょっと受けてみたいな。なんて思ったりもした。
「ラスト! 桔梗さんの一番得意な球ください!」
「真っ直ぐ」
最後もストレートだ。渾身の球は一球目よりも力強くて、受けたキャッチャーもおお……と感嘆の声を漏らしていた。
「アザッシタ!! あ、俺たちでトンボかけときますんで!」
「ありがとうございました。……野球、頑張ってくれ」
「はいっ!!」
被ってもいない帽子をとる素振りをしながら、ゲームセットの「礼」をする凛生くん。一連の動きが身体に染み付いているんだなあ。
「ナイスピッチ!」
「思ったよりは投げられたが……昔のようにはいかないな」
「そう? 格好良かったよ、桔梗先輩♪」
「からかうなよ。……」
凛生くんの目線の先の高校生たちは、地ならしをしながらなおもワイワイと騒いでいる。
青春だなあ……ずっと帰宅部の俺には無縁だった光景だけど、凛生くんは数年前まであの輪の中にいたんだ。
「……ごめん。本当はやりたくなかった?」
「いや……逆、かもな。どこかで、尻込みしていたところを、白石が背中を押してくれた」
「ありがとう」と、またストレートに感謝の言葉を口にしてくれた。
凛生くんは、いつも真っ直ぐに気持ちを伝えてくれる。
いいことも、悪いことも……それは人によっては無神経だと感じるのかもしれない。でも俺は凛生くんのそういうところ、好きなんだよね。
「ね、さっきの変化球、俺にも今度投げてみてよ」
「スライダーか? ……捕れないだろう」
「いいじゃん! やってみてよ! 俺、凛生くんの変化球受けてみたいなあ」
「……白石には、これからも直球勝負で行こうと思ってたんだが」
「あはっ! 凛生くんは、俺になにを投げて欲しい?」
「真っ直ぐ、だな」
まっすぐ、かあ。
うん……俺も覚悟を決めて。渾身の火の玉ストレートな告白、しちゃおっかな。
「もし大暴投、なんてことになっても?」
「必ず受け止めてみせる。白石が投げてくれた球なら、……全部」