ばんりお抱き枕「ただいま~!」
「おかえり。万浬宛てになにか届いてたよ」
バイトから帰宅した万浬に一番最初に出くわした蓮が、下駄箱の横に置かれた紙袋に入っている荷物を指して伝えた。
蓮は今から風呂に入るようで、着替えとこぶし大ほどの球体の入浴剤を抱えている。一番風呂に入るメンバーに入浴剤の選択権が与えられるのだ。
風呂に入れるとシュワシュワと溶けるバスボムと呼ばれるタイプのもので、溶け切ると中から小さなおもちゃが出てくる、どちらかというとバラエティ性の高い入浴剤。
そして、当然のように出てくるものはスターファイブのマスコットであった。
「あ、もう届いたんだ。教えてくれてありがと、蓮くん」
万浬は風呂場へと向かう蓮を見送ると、自分宛てに届いた大きな紙袋を抱えてリビングの扉を開けた。
いつもみんなが集まるリビングだが、今日は凛生がひとり。ソファの定位置で野球のナイター中継を見ながら寛いでいる。
「おかえり、白石。早かったな」
「凛生くん! ただいま。電車に乗ってからメッセージ送ったんだよね」
このふたりは函館で活動していたときから常日頃、メッセージアプリで頻繁にやりとりをしていた。
万浬いわく既読が付くのも返信が来るのも早くて安心できるらしい。凛生も、トーク一覧の一番上に常に表示されている万浬に連絡をすることが多い。
勿論それだけではなくお互いに憎からず思っているから、こうして連絡事項があるときもないときもメッセージを送り合うのだろう。
万浬はごく当たり前のように凛生のすぐ隣に腰掛けた。
「さっき夕飯の後片付けが終わったところだ。白石は賄いをご馳走になってきたんだろう? 足りてるか? 簡単なものなら作ってやれるが……」
「大丈夫! 今日は賄いだけでなく試作のメニューも味見させてもらったし!」
「新商品……カレーか?」
「カレーの新メニューは先月凛生くんが提案したドライカレーがあるでしょ~?」
アルゴナビスや他のバンドメンバーたちもアルバイトとして勤めている、演奏スペースが併設された人気のカフェ。
ある日に凛生が賄いでちゃちゃっと作ったドライカレーが好評で、メニューに加わることとなった。目新しさに注文する客もそこそこいて、売上も上々だという。
ほんっと、カレーが好きなんだねえ、と万浬は目を細めて凛生に問いかける。
「ああ。好きだ」
「!」
「どうかしたか?」
万浬を真っ直ぐに見つめて「好き」なのだと微笑む凛生。
好きと言われている対象はカレーなのに、万浬は胸の鼓動のBPMが跳ね上がって顔に熱が集まるのを感じた。
こうなっては笑って誤魔化すしかない。万浬が白い歯を見せて笑うと、凛生も首を傾げつつも涼やかな笑みを浮かべた。
ふたりでニコニコするだけの謎の時間が流れていたが、やがて凛生が万浬の持っている紙袋に視線を向けた。
「あっ! そうだ。兄貴から〝こいつ〟が届いたんだ」
「そう言えば玄関に置いてあったな。クール便じゃないようだからそのままにしておいたが……」
「あはは、食材だったら冷蔵庫入れとかないと傷んじゃうもんね。気にしてくれてありがと。にしても、思ったより荷物が薄いな~」
気になるから今すぐ開封したいんだな、と察した凛生は立ち上がると共用スペースの壁面収納の浅い引き出しからはさみを取り出し、閉じたはさみの刃の部分を握り、持ち手の方を万浬に向けるようにして差し出した。
「ありがと……凛生くん、超能力者か何か?」
「白石のことを見ていれば分かる。それに、よく気がつくのはお互い様じゃないか?」
野球中継が放送時間の予定を超えてサブチャンネルに移行した瞬間、凛生がチャンネルを変えるより先に万浬はリモコンに手を伸ばし、選局のボタンを押した。
「俺たち、伊達にアルゴナビスのバックを固めてないからね。いひひ、自分で言っちゃう」
「ふ、たまには自画自賛してもいいんじゃないか?」
「俺は天才だからな! って?」
「いや、違う。もっと低い声で堂々と言うんだ。『俺は天才だからな』」
「まさかの本人からのレクチャーだよ……『俺は天才だからな』どう?」
「はは、いいドヤ顔だ。白石」
「凛生くんには負けるけどね!?」
万浬は凛生と他愛のない話をしながら紙袋の端をちょきちょきとはさみで切り、中身を取り出すが――
出てきたのは厚みのある透明のビニール袋に入った白黒の物体。
「……牛のぬいぐるみ……か?」
「うん、俺が実家で抱き枕にしてたぬいぐるみ……のはずだったんだけど」
「圧縮袋で空気を抜かれているから……なんと言うか、少し可哀想だな」
「嵩張ると送料もかかるし、考えは分かるけど兄貴……!」
ふわふわかつもちもちした素材で抱き心地抜群なぬいぐるみが、真空パックのような状態でぺらぺらのカチカチ。衝撃的な姿になっている。
凛生が「可哀想」と漏らす程のなんとも居た堪れない見た目だ。
「開封したら元に戻るんじゃないか?」
「そうだよね! よし、開けてみるよ……」
スライドジッパーをゆっくりと開けると……徐々にぬいぐるみの体積が増えてきた。
袋から取り出し、空気を含ませて形を整えるようにぽんぽんと軽く押して―― やがて元のふわふわした感触と、丸々とした俵型に戻った牛のぬいぐるみ。
万浬はそれを満足気にしげしげと眺めて、顔を埋めるように抱きしめた。
「よかったな、白石」
「うん! あ~この感じすっごく安心する~」
「東京に持ってこなかったんだな」
そんなに白石にとって必要そうなものなのに。と声に出さずとも凛生の口ぶりから言いたいことを汲み取った万浬は、少し気恥しそうに視線を外し、頭を掻いた。
「そりゃ……大学生になってまで抱き枕がないと眠れませーん! なんて、ちょっと恥ずかしくない?」
「そんなことはないだろう」
「それにさ、これから成功してプロになってビッグになったらツアーで色んな所へ飛び回ったりするわけじゃん? ずっとぬいぐるみ連れ回すわけにはいかないよ! ただでさえ荷物多いんだし!」
「白石なりの考えがあった、ということだな」
「その通り!」
「じゃあ、もうひとつ聞いてもいいか? 何で今さらぬいぐるみを送ってもらったんだ?」
あ、やっぱりそれ聞く? と万浬は諦めたように息を吐き出す。
その反応を受けて凛生の眉根に力が入り、眉がハの字型になる。
それは函館から札幌に向かうときに万浬が事故にあって以来見せるようになった「心配で仕方ない」顔だ。主に体調や精神面のことで。
「本当に大したことじゃないんだよ? 兄貴と電話してて、最近ちょっと寝つきが悪くて~なんて言ったら『お前が忘れていった抱き枕送ってやる!』って……俺は置いてきたつもりだったんだけど」
「あまり眠れてないのか?」
「前に比べたらね。でもこれでよく眠れるようになるはずだからさ! 大丈夫だよ凛生くん」
「それならいいんだが……」
凛生はあまり納得がいかないと言った感じで何やら考え事をしている。万浬がよく眠れるための方法を、その物覚えの良い頭の中を探るようにして見つけ出そうとしているのだろう。
「これで眠れなかったら凛生くんの力を貸してよね」
「ああ、任せてくれ」
落とし所が見つかったところで、蓮が風呂から上がってきた。相変わらず大学生らしからぬ寝間着を着用して、バスボムから出てきたマスコットを大事に握りしめている。
「お風呂上がったよ。次、万浬入る?」
「そうしよっかな。凛生くん、先いい?」
「ああ。先にどうぞ。今いちばん盛り上がってきたところだからな」
同点で迎えた九回の裏、後攻のホームチームが一死二・三塁。打席に立つは本日三安打猛打賞と打撃絶好調の捕手。一塁が空いているから歩かせることも出来るが、次の投手の打順で代打の切り札を出してくるに違いない。痺れる展開だ。
「じゃっ、お先に! あ、蓮くんはもうおやすみ、だね」
「おやすみ、七星」
「も、もうちょっと起きてるよ!」
夜十時には寝てしまう蓮だが、その時間まではあと三十分ほどある。蓮はそれを主張したかったようだが、万浬たちにとって蓮が早寝であることは変わらない。
自分の部屋へぱたぱたと帰っていく蓮を見送ると、万浬は立ち上がって風呂場へと向かう……その前に、抱えていたぬいぐるみを凛生に手渡した。
「凛生くん、温めといてよ」
「わかった」
軽口を叩いて、ふたりでくすくすと笑い合う。
だが、万浬の軽い気持ちで口にした冗談は、真面目を通り越して天然な凛生にとって……真剣な「お願い」だと捉えられた。
テレビから歓声と共に「打球はライトへ、飛距離は充分……」というアナウンサーの実況が聞こえた。サヨナラ犠牲フライで試合終了。
そう確信した万浬は「さて、どう温めようか」と凛生の表情が本気モードへと変わったことに気付くことなく、風呂場へと歩いていった。
***
スターファイブの入浴剤で青色に染まった湯に浸かりながら「スターファイブってブルー居なかったんじゃなかったっけ……」などとぼんやり考えていたら、普段よりも長湯になってしまった万浬。
湯が冷めてしまって追い炊きするのはガス代が勿体ないし、早く次のメンバーに入ってもらわないと。結人と航海がリビングに見当たらなかったから凛生に入ってもらうのがいいだろう。
雑に水気を取った髪の毛を包むようにタオルで巻いて、寝間着に着替えてリビングへ向かう。
「あれ、野球まだ終わってないじゃん」
今もテレビに映し出されているのは、万浬が風呂に入る前と同じ野球中継だ。結局あの犠牲フライは右翼手の好返球によって本塁憤死、得点とはならなかった。
現在は延長十二回、このまま盛り上がることもなく同点で試合終了しそうな雰囲気に包まれている。
「ねえ、凛生くん。あの後どうなったの?」
ソファに深く腰かけた凛生の後頭部に話しかけるが、返事はない。
「凛生くん……? もしかして寝てる?」
万浬はほぼ確信を持って、小声で話しかけながら凛生の横に回り込むと―― 弾かれたようにその場を離れ、自分のスマホを取りに行った。
「ねぇ、凛生くん。俺、温めといてとは言ったけどさ……」
凛生は牛のぬいぐるみを両手できゅっと抱きしめたまま、眠ってしまったようだ。
いつもクールで大人っぽい凛生が、子供のようにぬいぐるみを抱えて、あどけない寝顔を惜しげも無く晒して眠っている……このレアな光景を記録と記憶に残すべく、じっくり観察してじっくり撮影した万浬。ここまでされて凛生が目を覚まさない訳がなく……
「ん……白石、見すぎだ……」
「あ、ごめん起こしちゃった? 凛生くんが可愛くてつい」
「可愛い……? それよりも白石、温めておいたぞ」
「あはは……ありがと、凛生くん」
万浬はぬいぐるみを受け取り抱きしめるが、自身も風呂上がりでほかほかしているため正直なところ温まってるのかどうかはよく分からない。
それでも、今しがた凛生が触れていたぬいぐるみは心が温かくなるような……そんな気持ちがしていた。
凛生くんを直接抱きしめたのなら、もっと心が満たされて、もっともっと多幸感に包まれるんじゃないかな?
万浬は凛生の横に座り、ぴったりくっつくように距離を詰めるが――
「……これで分かった」
「えっ、なに!?」
さり気なく腰に手を回そうとしたところで、凛生が口を開いた。
万浬はさっと手を引っ込めると、誤魔化すかのように牛のぬいぐるみを撫で回す。
「その牛のぬいぐるみ。抱きしめると何だか安心した。……俺がいつの間にか寝てしまう程に」
「確かに、凛生くんが居眠りするのって珍しいよね。だから寝顔は超レアだし」
「だからと言って写真を撮るのはどうかと思うぞ。それはさておき、これならきっと白石もよく眠れるだろう」
身をもって実証できた、とばかりに凛生は牛のぬいぐるみによく眠れる抱き枕としてのお墨付きを与えた。
「実家から送ってもらって良かったんじゃないか?」
「うん……」
「恥ずかしいとか、年甲斐もないだとか関係ない。白石が心身ともに健康でいてくれることがいちばんだ」
「ありがと、凛生くん。じゃあさ、試してみたいことがあるんだけど」
「なんだ? ……っ、白石?」
今度は堂々と、正面から凛生の身体を抱きしめる。
――あ、やっぱり。俺、今すごく満たされてる。凛生くんのヒーリング効果すごい。
ぬいぐるみのようにフワフワでも柔らかくもない、どちらかというと筋肉質でごつごつしている凛生。
それなのに万浬は予想以上の心地良さを感じたようで、彼を抱きしめる腕に力と想いを更に込めた。
「白石、俺も……」
試させてくれ、と万浬の背中に手を回す凛生。大きな手のひらから伝わってくる熱さは、万浬の心を焦がすのに充分すぎるほどで。
どちらからともなく顔を近づけて、頬と頬をくっつけた。互いに触れたいという気持ちが芽生えたばかりの今はまだ、これで充分なのだろう。
テレビから「打球は伸びて、伸びて……入った!! サヨナラホームラン!!」と興奮して絶叫するアナウンサーの声と球場の歓声を何となしに耳に入れながら、ふたりは今夜ひとつのベッドで眠る約束を取り付けたのだった。