隠し味 〜RK side〜「ただいま」
仔犬のぽんちゃんとの散歩から帰ってきた俺は、ダイニングテーブルで課題をしている七星に帰宅の挨拶をした。
「おかえり、凛生。ぽんちゃんも!」
公園でたくさん遊んできたから、ぽんちゃんは少しお疲れのようだ。抱っこから開放してやると、ちょこちょこと歩いて水飲み場で水分補給した後、日当たりの良いところに置かれた自身の寝床へ向かっていった。あの様子では夕飯の時間までぐっすりだろうな。
七星の座る席の斜め向かいには、法学部のものとはまた異なるテキストが広げられている。
「あ、凛生くんおかえり!」
白石だ。キッチンでコーヒーを淹れているようで、ふわりといい香りが漂ってきた。
「凛生くんも飲むよね?」の問いにこくりと頷くと、ニッと白い歯を見せてサムズアップしてきた。
「ただいま白石。手伝うよ」
「ありがと。じゃあ出来上がったら向こうに運んでもらおうかな」
どうやらリビングへ移動して一息入れるようだ。
折角ならお茶請けも用意しよう。つい最近実家から届いた菓子の詰め合わせを戸棚から取り出して、包装紙を解いていると…… 白石も七星も期待に満ちた表情でこちらを見ている。
目をきらきらと輝かせたふたりは、おやつを発見したときのぽんちゃんのようで…… 思わずくすくすと笑ってしまった。
俺は甘いものは苦手だから定期的に送られてくる菓子に困っていたが、こんなに歓迎してくれるなら悪くないな。
「ね、牛乳飲んで欲しいからみんなの分もカフェオレにしていい?」
「うん!」
「ああ。たまにはいいな」
コーヒーは普段ブラックで飲むが、白石牛乳で作ったカフェオレならきっと美味いはずだ。作るのは白石に任せて、リビングで寛ぐためのセッティングをすることにした。
***
ローテーブルの上を片付けて――と言っても共用スペースなので、置いてあるのはテレビのリモコンとポストに入っていた電気の検針票など。
たまに五稜が私物を置きっぱなしにしているが、その度に的場が説教をする…… と言うのがお決まりのパターンになっている。
今日は特には散らかっていないな。テーブルを固く絞った布巾で水拭きして、化粧箱を開封した菓子の詰め合わせを真ん中に置く。
課題がひと段落ついたのか、七星がやってきた。
菓子の種類をひとつひとつ確認して「これは食べたことある!」「僕、これが好きだな」等と、まるで子供のように感想を述べている。どうぞ好きなだけ食べてくれ。
それから少しして、白石がキッチンから「で~きたよ~」と独特の節をつけて俺を呼んだ。
プラスチックのトレイに乗せられているのはマグカップが三つと、スティックシュガーが二本。それに使い捨てのマドラー。
どこかで見覚えがあるものだと思ったら、俺が以前ファストフード店でホットコーヒーを注文したときに付属してきたものだな。砂糖もクリームも入れずにブラックで飲んだので、使わなかったのだが…… 白石はこういったものをちゃっかりと持ち帰ってきては戸棚にしまい込んでいる。
節約のため、とは言うが元来が几帳面な性格でないとこういったことは出来ないと思う。
全員がソファの定位置に座り、ささやかなお茶会が始まった。
白石の作ってくれたカフェオレは想像していた通り、とても美味しいものだった。
色合いからして牛乳の割合が多めだが、コーヒーの香りはそのままで牛乳のマイルドなコクと、ほのかに甘みを感じる。白石牛乳は不思議と、乳製品独特の嫌な後味が残らず口当りが良くて飲みやすい。
それに―― 白石が作ってくれたという付加価値もあるのだろうな。ふと目が合った白石に美味い、と感想を伝えると「当たり前でしょ!」などと言いながらも照れくさそうに笑っていた。
ふたりとも結局スティックシュガーは入れていなかったな。菓子が甘いから必要なかったのだろう。
美味しそうに食べている様子を見て俺も久々に口にしようと、小さめの焼き菓子に手を伸ばす。
――やはり、甘いな。しかし、カフェオレとの相性は悪くない。
三人で談笑しながらゆったりとした時間を過ごしていたが、突然白石が何気なく付けていたテレビの画面に釘付けになった。
食品ロスについてのニュースだ。
年末年始の需要の冷え込みで、とてつもない量の生乳が廃棄される恐れがあるとのことだ。
身近な話題ではあるが、七星も俺も白石の前では気安く触れられず、黙ってカフェオレを啜っていたのだが――
その損失額の概算が出た瞬間、白石は勢いよく立ち上がってわなわなと震え出した。
ニュースが流れてきた時から白石はずっと表情を曇らせていたのだが、俺たちにとっては天文学的とも思える金額を見て、遂に感情が抑えられなくなったようだ。
今にも爆発しそうな白石を、七星とふたりで何とか押し鎮めようと努力したが…… 白石は財布とエコバッグを持って外出してしまった。
「どうしよう、万浬出ていっちゃった! 課題終わってないのに……」
「牛乳を買いに行ったんだろう。まだ冷蔵庫にたくさんあるんだが……」
「……僕たちで飲みきれるかな?」
「どうだろうな。……やれやれ、今晩の献立、変更しないとな」
カレーを作るつもりだったんだが、クリームシチューにするか。と言ったら、七星がほっ、と息をつき心做しか安堵の表情を見せたように感じた。
……二日連続カレーでは不満だったのか?
***
一時間もしないうちに白石はシェアハウスへ帰ってきた。
そして、その手にはエコバッグに入るだけ入れられた牛乳パック。冷蔵庫がいっぱいになるぞ。
しかも、消費期限が短くなって値引きされていてもおかしくない牛乳を選んで買ってきている。近いものでは明日が消費期限になっているのだが…… こんなに使いきれるだろうか。
「夕飯作るの手伝うから、凛生くんこれ使って」
「……善処しよう」
差し出されたのは牛乳パック二本。
クリームシチューと…… デザートのミルク寒天でも作るか。
手伝いを申し出てくれた白石には「課題が残っているだろう」とやんわりと断りを入れるが、それどころじゃない! とのことで、結局ふたりで夕飯を作ることになった。
料理が出来ていくにつれ、白石の機嫌は良くなっていったので…… まあ、結果オーライだ。
***
夕飯を食べ終えると、白石は後片付けも手伝うと言ってきたがそれは遠慮しておいた。
慌てて部屋に戻った様子を見ると、やらなければいけない課題がたくさん残っているのだろう。後で差し入れでもしてやるか。
白石と俺の間で差し入れの定番といえば―― 白石の実家から送られてくる牛乳で作ったホットミルクだ。
元々は白石が夜遅くまで作曲していた俺を労うために作ってくれたものだが、それからお互い事ある毎にホットミルクを差し入れするようになっていた。
疲労回復の効果は勿論、味も悪くないし、牛乳の消費にも繋がっていい事づくめだ。
何よりも白石が俺のために作ってくれること…… それが一番嬉しかった。
最近は隠し味に凝っていて何を入れたか当てるという、ちょっとしたクイズのようなこともしている。
だが白石牛乳の味を損ねず、美味いと言ってもらえるような材料のネタがなくなってきた。どうしたものか――
「おっ! 何作ってるんだ?」
「ホットミルクだ。五稜も飲むか?」
「あ〜〜……俺はいいや。ありがとな、凛生」
一番風呂から上がってきた五稜がキッチンカウンター越しに俺の手元のミルクパンをちらりと見て、何とも言えない複雑な顔をしていた。
「風呂上がりなら冷たい牛乳がいいよな。少し待ってろ」
「いや!! 今日は牛乳はもういい! 気持ちだけ受け取っておくぜ!!」
「そうか? 遠慮しなくても――」
「だからいいって!」
牛乳の消費に協力してもらえると助かったのだが…… 五稜は冷蔵庫の牛乳パックを掻き分けて奥からナポリンを取り出し、豪快に勢いよく飲んでいた。
「それにしても、牛乳買いすぎだろ。万浬ん家のやつもあるのに…… まあ、何があったのかは聞いたけどさ」
「ああ。だから少しでも飲んでやらないとな」
そろそろ牛乳が温まるころだ。調味料が置いてある戸棚を開けて、なにかないものかと見渡す。
ハチミツやメープルシロップ、黒みつなんかも試したし、きな粉やシナモンを加えたこともあったな。さて、今日はどうしようか――
「なにか入れるのか?」
「そのつもりだが…… 入れても問題なさそうなものは一通り試してしまってな。いい案があれば聞かせてくれ」
「隠し味、ってことか。それはもう……」
五稜は戸棚の中を一瞥することもなく、どっしりと仁王立ちをした。そして、顔をにやつかせながら自身の胸をこぶしで叩いて。
「万浬に差し入れするんだろ? それなら……〝愛〟だ!」
「……愛?」
「凛生の愛情をたーっぷり込めてやるんだよ!! 万浬もきっと喜ぶ!」
「愛情なら、どの料理にも込めているつもりだが」
「カーッ!! まっ、確かに凛生の作る飯、美味いもんな……」
いや、俺が作る料理が美味いのは俺が天才だからだ。
だがこうして共同生活をするようになって、みんなに食べてもらう機会が増えて…… 喜んでもらえたらいい、と思うようになっていった。これも愛情のうちに入れてしまって構わないだろう。
「参考になった。ありがとう」
「どういたしまして、って礼を言われるようなことはしてないけどな!」
「ところで、五稜は課題終わったのか?」
「うっ」
的場や同じ文学部の連中と大学の図書館で課題をしていた、とは聞いているが…… シェアハウスに帰ってきた五稜の前髪に寝癖がついていたことで、何となく現場の様子が想像が出来てしまった。
「頑張れよ。糖分が必要になったら、こっちの戸棚に菓子が入れてあるから食べてくれ」
「ありがとな! 航海も喜ぶぜ」
どうやら五稜はこの後も的場と課題をするようで、二階の部屋へと足早に帰って行った。俺も、白石の所にいかないとな。
少し考えた挙句、夕方カフェオレに入れずに残されたスティックシュガーを牛乳に混ぜることにした。
シンプルに甘みを足しただけだが…… 今日はこれで良いだろう。
充分に牛乳が温められ、グラニュー糖が完全に溶けきったところでふたつのマグカップに注ぐ。
ウインクした牛の絵が描かれたものと、無地のもの。それらと夕方に開けた菓子からいくつか、白石が食べていなかったと記憶しているものを選んでトレイに乗せて…… そして最後に。
白石のマグカップの側面に口づけを。
出来る限りの愛情を込めて―― 白石の頬にするようにしてみたが、人肌とは比べ物にならない陶器の熱さで一瞬にして俺は冷静さを取り戻してしまった。
傍から見るとかなり恥ずかしいことをしているな。せめてミルクだけは冷める前に持っていこう。
***
「凛生くん? どうぞ」
トントン、とノックをすると、すぐに俺が来たのだと分かったようだ。
白石は実家から持ってきたという、小さな炬燵で課題をしていた。
「こっちおいで」と白石は自身が座っている場所の炬燵布団を捲ったが…… 密着したら肘が当たるだろうし、課題の進行の邪魔になりそうだ。
後でな、と断りを入れて正面に回り込み、トレイを天板の空いているスペースに置いた。
「ありがと、凛生くん。飲んでいい?」
「ああ。どうぞ」
「……うちの牛乳だ! 美味し〜〜」
「素材そのものを頂くから、良質な白石牛乳を使わせてもらった」
「さすが。分かってるね〜凛生くん。でも、何入れたの? すっごく美味しいんだけど!?」
愛情だ。などとは言えるはずもない。
白石は隠し味は何だろうと、あれこれ考えているようだったが、ひと口飲む度に「美味しい」と言葉を漏らしていた。こんなに喜んでもらえると…… 少し照れくさいな。
「ほんのり甘いけどクセはなくて、俺好みなんだよな〜。あー、美味し…… ん? 凛生くん、何だかいつもよりニコニコしてない?」
「ふふ…… そんなに美味いと言ってもらえたら、嬉しくもなるさ。白石、そっちに行ってもいいか?」
「え!? いいけど…… って言うか、来て欲しいけど! まだ課題終わってないよ?」
「こうした方が、早く課題を終わらせたくなるだろう?」
白石の隣に移動する。小さな炬燵の一辺はふたりが入るには狭いが、それでも白石を端に寄せてまでして、敢えてこぶしひとつ分の隙間を空けて座った。
ごく自然に俺の腰に回してきた白石の手を、するりと回避したことで意図を汲んでくれたようだ。
「おあずけ、ってことだね……」
「終わったら好きなだけ触れてくれ。いや…… 触れて欲しい」
「凛生くんって…… ほんっと天才だよね!」
ありがとう。俺もそう思うぞ。
物凄い勢いで課題を終わらせた白石とのその後は―― ふたりだけの隠し事、だ。
***
「ところで、結局隠し味って何だったの?」
「牛乳に入れたのは…… ファストフード店で貰ったスティックシュガーだ」
「え? それだけ!? あれってそんなに美味しいんだ!! これからコーヒー買った時『甘党なのでお砂糖五つくださーい』って言うのはどう?」
「……それは勘弁してくれ」