本当に忙しい人は休み方がわからない、とはどこの誰が行ったのだったか。
イーリス聖王国の首都、その中心に堂々とそびえるイーリス城は主に王族の居住区である右翼と、政を司る左翼に分けることができる。
ルフレは左翼ー…その中でも最も格式高い、この国の王が執政に励む一室で内心大きな溜息をついた。
それというのもつい先刻、目の前の半身とも呼べる友が無慈悲な通告をしたからだ。友は頭痛を抑えるような顔をして重々しくいったものだ。
「ルフレ、働き過ぎだ。」
「ええ?そんなことないと思うけど。」
「いいや、証拠は上がっている。お前今日を入れて既に一ヶ月城に泊まり込んでるそうじゃないか。
その間休みなく財務処理、交易品の検品、南西の港から修繕要請を受けていた大橋の費用の申請と地元の工夫の選定、自警団にも顔を出して武器庫と食料庫の在庫管理、就寝時間は日を跨がない時のほうが少なく、日を追うごとに瞬きの回数が平均4回増えているとー」
「あーあーあー!誰だいそんな昆虫の観察日記みたいな記録をつけているのは!?」
「サーリャだ。」
「知ってたけど!」
ルフレは現在進行系で寂しい独り身であり、当然ながら就寝時も充てがわれた個室で独り寝だ。
故に瞬きの回数など数えられるべくもないのだが、サーリャほどの呪術のエキスパートともなれば不可能も可能となる…らしい。
尚、どのような呪術を用いているのかは聞かないほうが精神衛生の為である。
ともかく、とクロムは居住まいを改めた。
「ここ一ヶ月のことを抜きにしても働き過ぎだ。終戦から此方、ルフレは軍師の業務範囲を超えて尽力してくれた。そのおかげで被害を受けた町や村も復興が進み、最近では祭りが開催された領すらあると報告を受けている。
そして聖王には臣下の労をねぎらう大事な務めがある。従ってルフレにはこれより2週間の休息を命じさせてもらう!」
友の顔は、初夏の青空よりも晴れやかだった。
そうしてルフレは持っていた書類をぶん取られ、執務室を訪ねた目的であった職務のあれそれの報告はそこそこに、反論の余地はなく尻を叩かれる勢いで執務室を追い出された訳である。
おお、なんと慈悲深い王であろうか、流石は英雄王の再来と呼ばれる御方ー…などと舞台俳優よろしく称賛してやりたいところだが、悲しいかな。ルフレの胸中はこれ以上なく暗澹としていた。
休憩、休息、休暇、休日ー呼び方はなんでもいいが、ルフレは休みというものがどうにも苦手だ。
なんせ生まれて此の方、ならぬ記憶をなくして拾われて此の方、多忙に多忙を極める日々の連続だった。
策を弄して、剣をとって、戦ってー…そうしていつしか邪竜の器であることを忘れられるのではないか、などとくだらない妄執に焦がれて、戦って戦い続けて、戦争は、遂に終わった。
安堵すると同時に、ルフレは恐怖したのだ。
微睡みに身を任せる朝寝の狭間に、日だまりたゆたう裏庭の温かさに、平穏の影にはいつだって己を貪らんとする竜がいたから。
国の為だ、民の為だと?笑ってしまう。動機を突き詰めてしまえばルフレは自分の心のために自分の体を犠牲にしただけに過ぎない。
追い出された執務室を背にして廊下を突き当たりまで歩く。突き当たりを曲がると天井まで届かんと背を伸ばす窓から差し込む初夏の日差しが、容赦なく目を灼いた。慌てて視線を逸らせば今度はメイドの手によって磨き上げられた白亜の廊下の眩しさに目が眩む。ルフレは瞼で強く蓋をした。
「2週間…2週間か。」
短いようでいて酷く長いこの時間は、楽しむべくもなく消費するように過ぎるのだろう。
人為的に作られた暗闇に浮かぶのは、幾度となく救われてきた友の笑顔だ。あの揺るぎなく未来を信じる眼差しと優しさが、今のルフレにはただ苦しかった。
結論から言おう。休暇一日目から事態は暗礁に乗り上げた。
休暇という言葉には本来気安さしかないものだが、この言葉を告げたのはこの国のトップに君臨する人物だ。クロムの口調こそ気のおけない仲間内でのみ使うものであったが、王の言葉とはつまり、命令なのだ。そのことをルフレも、クロムもまた深く承知していた。
生来から堅苦しいやり取りを不得手としているクロムが、命令という形でルフレに言い渡した"休暇"、その重み。ルフレはクロムの心遣いに感謝すると同時に、反省していた。
故にルフレは誰が見ても文句のつけようがない休暇を過ごしてみせようと、些か肩の力が入りすぎた決意を持って動こうとした。
…したのだが。早朝、雌鳥の鳴く前に目覚めたルフレは身支度の片手間に朝食を摂り、さて出仕しようと玄関から足を踏み出し、足を止め、元あった位置に足を戻して…玄関脇の生け垣にがっかりと腰を下ろすこととなった。習慣とはかくも恐ろしいものなのだ、とルフレはこの時初めて痛感した。
別に、仕事人間のつもりはなかったし何だかんだ小器用な自覚があったので今回もこなせると思っていた矢先での躓きである。こうなってはもう何をしたいか、なんて自主性には期待することなどとてもじゃないが出来ず、かといって流行り物の音楽だとか食べ物なんて一つも知らない。知り合いに声を掛けようにも長らく城に籠もっていたので最近の動向はおろか所在も怪しい。
思えば自警団で集団生活をしていた頃、自分は自ら手を伸ばした趣味、とか。あったたろうか。
スミアから本を借りたことはあった。でもそれは勧められたからであって。セルジュの愛竜であるミネルヴァちゃんの見合い相手をほうぼう探したこともあった。そしてそれも誘われたからであって。
いや勿論、当時はペレジアとの戦争の只中であり、そう易々と何かしらに没頭する余裕はなかった訳だが、しかし。
「僕ってつまらない人間だったんだな。」
「そ、そんなことありませんっ!」
「うわっ!?」
「きゃあっ」
「」
そこにいたのはオリヴィエだった。戦争の終結から暫く、オリヴィエは
ルフレは漏れなく芸事方面の流行にも疎いが、一所での名声ならまだしも、各国で持て囃される踊り子ともなればそういるわけがないというのは分かる。
イーリス城下に繰り出せば"あの"オリヴィエが我が国に来ているらしい、なんて興奮気味の会話が耳に入ることすらあったほどだ。彼女の人気ぶりはルフレの拙い想像を軽く超えるものだろう。
そしてその噂を裏付けるように、オリヴィエその人は眩しいほど美しかった。
滝のように豊かに波打つ桜色の髪と、同じ色をした優しげに和む瞳。黒黒と輝く睫毛は枝垂れ桜のように優雅に靡く折れそうなほど細い手首に、臓物が詰まっているか危ぶむほど薄い腹。シミ一つない白い肌は侵し難い清廉さで包まれ、天国に住まう妙音鳥を想起させる声をしていた。
閑話休題。
ーそして世界は薔薇色に染まり、天からは刻々と移り変わる五色の光が降り注ぎ、陽気な調べが潮風に乗って運ばれ、大地には緑が萌え出た。
人々は互いに恒久的な平和と愛こそ最も尊く美しいものだと叫びあい抱きしめあい、麦酒をかけあい歌い踊り、最終的に仲良くもち米を買いに走った。
これは偏にルフレが後の最愛となるオリヴィエと出逢ったことにより起こった事象であったが、万が一、いや億が一、まだ名も無い関係性でありながら、まるでこうあることが運命であったかのように惹かれ合う初々しい二人の心に影を落とすことがあっては壁になりたいタイプのオタクの名折れであるため、人々は今はまだ何もないふりをして過ごそう、と固く誓い、既に決壊しかけている顔をなんとかかんとかコンクリで押し留めた。
ー次回、炊いた赤飯は十合!デュエルスタンバイ!