Wisteria(12)「Wisteria」について異種姦を含む人外×人のBL作品。
世界観は現実世界・現代日本ではなく、とある世界で起きたお話。
R-18、異種恋愛、異種姦等々人によっては「閲覧注意」がつきそうな表現が多々ある作品なので、基本的にはいちゃいちゃしてるだけですが……何でも許せる方のみお進み下さい。
又、一部別の創作作品とのリンクもあります。なるべくこの作品単体で読めるようにはしていますがご了承を。
※ポイピクの仕様上、「濁点表現」の表示が読みづらい時がありますが脳内で保管して頂けると助かります。(もしかしたら現在はポイピクさん側が小説投稿の表示を調整してくれたかもしれません。:2022/7/7現)
【項目 WisteriaⅢ】
「蒼に賑わう祭囃子」
閑話1 「漂う氷菓の海」
閑話2 「星合に浮かぶ光」
閑話3 「とある日の人々」
「蒼に賑わう祭囃子」
二人で揃いの浴衣を着て、何処かに出かけようかと二人は思案する。偶には別の世界に出かけてみようと思い至り、隠世の中心であるエントランスでおすすめの行き先を聞いてから、鍵屋に貰っていた鍵を使用して〝世界旅行〟をしようと扉を開いた時だった。何やら楽しそうに会話している人々の声や何かを奏でる音が聞こえてくる。
扉から出て狭い道の端に二人は現れると、そこから抜け出して大通りを覗いてみた。
祭囃子が耳から離れない。
蒼天広がる晴れやかな日和、空から視線を降ろしたその袂では多くの人が賑やかに、そして楽しそうに行き交っている。
「お祭り……初めて見た……」
瞳に光を携えている藤が好奇心を抱きながらも、子供が初めて目にするものを恐る恐る覗きみる様に、他世界の事柄に僅かな不安で此方へと寄ってくる。
曲がりなりにも自分は神だが、特に気にもせず藤とものを言いあい、最初に出会った世界でも当初から名前で呼びあっていた。というより〝外〟へ出られない所から〝外〟へ出られない所へ来たので、他人が言うところの〝神との距離感〟を知らないのだろう。なので藤は他世界の祭事を見た今、とても驚いていた。
遠くの方に、微かだが此処からでも見えるお神輿が大きく振られると、それを見よう見ようとしていた人の波がわっと沸き立つ。
「え……? 神様ってここまで……」
そもそも神社で祭事をする事自体知らなかった藤が驚き動揺し、それを見て朽名が笑いを堪えている。
「まぁ謂われや神格、場所によるだろうな」
「向こうに居た頃はやってなかったのに」
「あいつらはもう信仰の事など忘れていたからな。村里が荒れて、慌てて思い出したように供物やお前を差し出してきたのだろう」
そんな神は元いた場所の人間達の事などどうでもいいのだろう。それについて気にする素振りなど一切なく、目の前の出来事に驚いては楽しそうな雰囲気にわくわくと目を輝かせている藤を、一片たりとも逃さないという様にじっと見つめ続けている。
威厳なぞどこ吹く風の神が、藤の様子を微笑ましく思えて笑みを零した時だった。藤が少しだけ考え込む。それをするのは気が退けるのか、はたまた羞恥から躊躇っているのか。
「……今からでも〝様〟をつけて呼んだ方が……いい……?」
その言葉を聞くと朽名がくっと噴出し、更にケラケラと笑う。
「試しに呼んでみるか?」
「えーと……朽名…様?」
「……いいな。以前に着た〝女中服〟でも着て言ってみるか?」
言い慣れぬ違和感に首を傾げながら言う藤の呼びかけに、別の意味合いの敬意を想像しては考え深いとでも言う様にうんうんと頷いている。
「……なんか、腹立つ」
藤がそれを恥ずかしがって着ないであろう事を容易に予測し、それと共にその服を着て恥ずかしがりながら名前を呼ぶ姿を噛みしめている蛇の内心を察したのだろう。
確かにそれを着て呼ぶのは何だか恥ずかしいし、出来れば遠慮したいが、
(でも……お願いを言ってくれたら、着るかもよ……?)
恥ずかしがるからもう着ないであろうと見透かしては自身の姿を想像して堪能している蛇にむくれながらも、密かに(あえて驚かす為に着てみようか……?)と、自分の隣で噛みしめている相手を驚かす貴重なチャンスに複雑な心境で思案している。そんな藤の様子を察知して蛇はまた笑みを増やした。
人の姿の朽名と、カラコロと下駄の音を鳴らしながら並んで歩く。
「神様が他の神様のお祭りに来るって何だか面白いね」
藤が苦笑しならがら同様に楽しそうにしている隣の神に話しかける。
「意外と人間だけが楽しむ祭りじゃないかもしれんぞ。目に見えて現れてないだけで、何処かで神同士酒でも酌み交わしてるかもしれん。……それに、私はもう大勢の人間の願いを叶える神では無い。その神を尋ねたでもなく、人間の気をその神から逸らすでもなく、お前と楽しむ為に来ているのだからな。まぁ、構わんだろう」
楽しそうに話しながら藤へと向くと、人が行き交う中でも聞き拾えるよく通る声で告ぐ。
「私はただ一人だけの神だよ」
じっと見ながら、けれどにっとした何時もの笑みで答える蛇に、耳を傾けていた藤の奥底が跳ね上がった。
❖ ❖ ❖
入口から参道は屋台が並ぶからか辿りつく前の道よりも人で溢れていた。その波に足を踏み入れ賑やかな祭りの空気に目を巡らせる。華やかな装飾や普段はあまり見かけない屋台の並びも、がやがやと楽しそうに誰かと行き交う人々も、見渡せば藤の好奇心をくすぐる出来事が何処を見ても視界に映る。
けれどあちらこちらと目を移した隙に、前を行く朽名との間を人が遮って一つ二つと距離が離れてしまう。
「あ……ま、まっ――」
(まって)
再び波に呑まれそうになったその時、伸ばした手をぱしりと捕まれる。
「大丈夫か?」
「う、うん」
「これならはぐれないだろ」
良い機会だと言わんばかりに、にっと蛇が笑うと指を絡めてくる。
「うん」
頬が赤くなり照れるが、離れないと分かるとほっと息をつき、綻んだ表情を浮かべながら手を掴んでくれた相手へ「ありがとう」と言葉を渡す。そして息をついた藤へ朽名は何か赤いものを手渡してきた。
「林檎飴? ……どう食べればいいんだろ」
初めて食べる赤くて丸いきらきらとしているそれを見ながら、藤は同じく瞳を煌めかせてゆらゆらと頭を揺らし、どう食べるのかとあぐねている。
「貸してみろ」
思案する姿を見かね、藤が持っている林檎飴へ口を近づけるとパリッと一口齧る。
「甘いな」
「美味しい?」
「良い食感だぞ」
言われて藤もそこから一口齧る。
するとパッと明るい顔を浮かべてもう一口と口をつけた。好物である甘味を噛みしめると美味しさをくれた相手へ顔を向ける。
「美味しいね!」
その笑みが的中したのだろうか。朽名が笑みを浮かべたまま固まる。
「? どうしたの?」
「いや……気にするな」
僅かに首を捻るが、再び林檎飴を口に含む。やがて食べ終わると次は何を見ようかと歩を再開した。
夕が暮れ、辺りに深い黒が広がると賑やかな屋台通りを見て周っていた二人は階段を上り拝殿前まで訪れる。
「此処、人が少ないね」
「そうだな」
もうすぐ打ち上げ花火が上がるからか、境内はお参りをする人が僅かに見えるだけであとは出店や川沿いの花火へと足を運んでいた。参っている人々も、それが済むといそいそと階段を下りていく。空に上がる花火を近くで見ようと川沿いへと向かう人の動きが此処からよく見えていた。
そんな人通りを見ているうちにカッとあたりが明るく光り、途端に火花が空へと打ち上がり始めていく。一つ上げる度に向こうではドッと人々の声量が大きく響く。ぱらぱらと散りきる前に次の花火が空を彩り、賑やかな物見によって一層花を添えていく。
空に浮かぶ大輪を眺めては目を見張る藤の瞳に、輝くその色が反射していた。そうして空を眺めているうちに花火に専心している藤の手を朽名が引く。
「?」
引かれた手の主は蛇の様子に「どうしたの?」と言いたげに此方をじっと見つめている。
しかし蛇が口を開くのを待つが一向に言葉を発しない。それどころか瞳を覗き込まれ続けて藤の方が緊張しだしてしまった。視線だけでも逸らしたくて堪らないのに、頬を捕らえられては相手を見るように支えられてしまう。
真剣な顔つきで、だがそれに反して何かを欲する瞳で絡め取られていく。
「く――」
やがて耐えきれなくなってしまった藤は声を掛けようと口を開く。その途端、藤の肩は大きく跳ね上がった。
呼びかけようとした名前は後方で楽しそうに駆けて行った子供達の声で遮られてしまったのだ。緊張と共に相手に集中していて別の世に居た藤の心中は、突然引き戻された事でどきどきと早鐘を打つ。賑やかに階段を下りていく子供達に気づいた朽名はふと言葉を落とした。
「お前と私の間で手を繋ぐ者が生まれる時が、いつの日か来るかもしれんな」
予想外の言葉に驚きで藤の瞳が開かれる。淡い色の瞳が瞼で遮られる事無く向けられ続けた。
「……」
(余計だったか……?)
続く沈黙で、藤が望んでいるのかも分からずに思わず口にしてしまった言葉に追い立てられて、焦りで心が曇っていく。だが、頬に添えられた手を藤が自らの手で重ねると、嬉しそうに目元を細めては染まる顔がほころんだ。
「うん、いつか、そんな日が来たらいいな」
その言葉が繕いでもなく、心からの言葉だというのは藤の表情を見れば分かる。突然目の前に現れた喜色に、蛇の心は浮遊した。
(なんでお前は、何時も私の心を満たしていくんだ)
ぐっと気持ちを噛みしめた。
たおやかな腰に腕を回まわし、そのまま藤を連れて境内の外れへ足を運ぶ。
「え? ちょ、朽名? 何?」
林檎飴の甘さを口にして花を咲かせた時から、藤が笑みを向ける度に己の欲が奥底で騒ぎ立て、無視をしては我慢していた。しかしそれはすでに溢れ出し、藤に触れたくて仕方がない。お祭りに楽しそうにはしゃぐ藤を見ていたら段々と食べたくなってしまっていた。
移動する途中で抱えられ、茂みを分け入っては更に奥へ奥へと歩みを進め、元いた場所から程遠く木々の隙間から微かに拝殿が見えるか見えないかの場所まで来ていた。末端にそびえていた石垣に藤を寄り掛からせると、相対した腕の中に閉じ込めてしまう。
眼下で見上げてくるほんのりと赤味に染まった藤は、何をする気なのかと眉根を寄せる。その眉に唇を落とすと藤に頬を擦り寄せた。そしてそっと小さな蛇が朽名の手から現れると、するすると移動しては離れた位置で待機する。
「少しだけ触れたいが、好いか? 藤」
じっと視線を合わせながら、逸らされないよう藤の顎に触れる。野外な事で戸惑いをみせながらも、少しならと相手に頷く。
「……少しだけなら……いいよ」
目を瞑り、「んっ」と小さく合図して唇を差し出す姿を目に焼き付けると、唇を合わせて藤を食む。
舌先で閉ざしていた唇を舐められたその身体が震える。訪ねて来た舌を招き入れると中で待つ舌と絡みだした。何度も角度を変えては絡め合い、かさを増す液を飲み込み、口蓋を舐められては深く深くへと進んでいく。藤が息を漏らす度に蛇は止まる事を忘れていった。
「ふっ、うぅ、ぐ…、っ、ン――」
喘ぐ藤の声に余裕が消え、息に荒さが増している。
触れていたそこから離れ、藤の口の端から流れた液を舐め取り、とろりと溶けた瞳で息を荒げている藤を見つけると笑みを浮かべる。
静かに後背に手を忍び込ませると帯を緩め始め、衿下を開くと朽名が膝をつく。事に気づいた藤がビクリと身体を揺らした。
「んっ、朽名! 人来ちゃうから!」
内腿を指先で下からなぞられると、ぞくりと背筋に刺激が駆けていく。薄く濡れた布地から抑え込まれていたものを開放すると、現れたそこに指を這わせてはくにくにと挨拶を始めた。刺激にふっと息を吐き出した藤の腰が跳ね、触れているものの膨らみが増したのを確認すると、起こした当人の喉が意図せず嚥下する。飲み下した息が奥底へと沈んでいくとそっと顔を近づけた。
反りかえり始めたそこへ顔を近づける朽名を離そうと、遮る為に触れている手に力を籠めるが微動だにしない。そうこうしているうちにぱくりと口内に含まれてしまった。
「――っ、だめっ、こんなっ――……ァっ……」
こんなところでするなんて。
言い切らないうちに快楽へ沈められていく。普段とは違う雰囲気の中でしているのが相乗しているのか、自分も相手も熱を増すのが早い気がする。
「すこしだけって、――っ、いった、ぁ……んんっ――」
ちゅくちゅくと辺りに水音が響く。
頭身を下から上へとなぞられたかと思えば、咥え込まれて舌先で遊ばれ弄られる。溢れる先走りは舌で掬い取られては何処かへ消えていった。
「ふっ、うぅ……」
刺激を与えられ続けている藤は口元を抑えて誰にも声が届かないようにと必死に湧き出てくるものを抑え込む。
「皆上を見上げるので忙しいからな。大丈夫だぞ」
口を離し、先走るそこを指先でにちにちと弄りながらも声を掛けてみるが、感覚に耐え忍ぶ藤は嫌々と首を横に振る。
境も張っていると言おうとしたが、漏れ出る甘い声を隠そうとする藤が可愛くて黙った。どちらにせよ今も鳴り響く大輪の音に掻き消され、境内よりも外れた場所から微かに聞こえてくる声を耳にする者はいないだろう。
「ひぅ――っ、ぁ、んんっ」
先端に佇む溝を再び口内でねぶられては悶え、閉じかけた脚を割り込まれては開けられる。身を唸らせながら痴態を晒し続ける藤を見て、刺激を与えている相手は更に燃料を投下された。
「゛んっ!」
陰茎の根元を摩り抑えていた指を外して鈴の口を舌先が入り込むように抉りなぞる。その途端、背筋にぞくりとした刺激が伝わっては湧き上がる快感が藤を蝕む。
「やっ、も、イっ…でちゃ……っくち、はなして……」
長く深い熱が藤を冴えなむと、触れられずに据え置かれている後孔がきゅっとほのかに締まる。そして――
「っ――!」
意識の中の白光が視界をあやふやにさせる。
気づいた時にはじゅぶっと液がせり上がり、道筋にも残る果てを吸い上げられていた。蛇の口元から自身の粘液で糸が引かれていくと、下から見上げてくる朽名に胸が鳴る。目が合うとガクッと身体の力が抜けてしまった。崩れ落ちきる前に腰を支えられる。
「少しって言ったのに!」
真っ赤な顔を朽名の肩に押しつける。抗議された当人は石垣に預けていた藤の背を優しく撫でていた。
「少しだっただろう?」
その言葉で「あれは少しじゃないよ!」と更に抗議をする瞳とむくれた顔でキッと睨む。その姿が愛らしくて口元がほころぶと、「悪かったな」とぽんぽんと背を叩きむくれる相手に謝罪を入れた。
「帰るか? それとももう少し見て回るか?」
「……」
花火はそろそろ終盤に入るだろうが、祭りはもう少しだけ続くだろう。どうするかを藤に問うと、予想外な返答が返って来た。
「……う…ろ……、…て、ほしい……」
「ん? 何と言ったんだ? 藤?」
か細い声量で呟かれてよく聞き取れない。聞き返すとたじろいだ藤は中で暴れる羞恥を押し込めて、声を絞り出しては朽名の耳元でお願い事をする。
「朽名がほしい」
今度は蛇自身の力が抜けそうになってしまった。驚きに変わった表情を整えるが、次は顔がにやつきそうで困ってしまう。
願いを聞き届け、鍵を取り出しては何時もの様に扉を作りだす。待機していた蛇を手元に戻すと、藤の身を軽々と抱えそのまま自分達が住む神社の境内まで帰還した。
❖ ❖ ❖
着替える間もなく寝室まで運ばれる。
とすりと降ろされた柔い寝具は置かれた重さできしりと音をたてた。帯は落とされ、浴衣は肩をむき出しにしては今にもその身から剥がれて陥落も間際だ。そんな守りが無くなろうとしている事へ気を留める余裕も無く、藤は合わさる唇から入り込む感覚に対応するので精一杯だった。
零れる息も唾液も飲み込まれながら、相手の帯に手を伸ばして解いていると後ろへと身を倒される。
髪が波打つ寝具に散らばり熱や羞恥で肌が赤らむ。同じ様に普段よりも色づく乳房が乱れた浴衣の隙間から顔を覗かせていた。上気して眼元から粒が零れそうになっていたのを口を寄せて掬い取られ、そのまま赤らんだ耳朶を食まれては次は首元、それから胸元へと点々と小さな痕を残していき、膨らみの小さな突起に吸い付いていく。舌先で押し込まれると吸われ、くにくにと舌と唇で遊ばれる。油断していたもう一方を指先でくじられた時には口をつけられた乳房をまた吸われる。
そんな一連の些細な愛撫に、藤のものは透明な粘液を垂らして寝具を濡らし始めていく。下着は紐に指を掛けては引かれ、淡い粘液で細い糸を生みながらとっくに何処かへと取り去られてしまっていた。
小さな山の頂に居た指先が、へそを弄んでは通り抜け、腹を撫でては下へ下へと降りていき、乳房から口を離すと辿りついた指先の居場所をしげしげと眺め、その光景を目に焼き付ける。
指先の主は狭間に居たものの惨状に欲情と共に息をつくと目を細めた。
「ぁ……っ」
脚の狭間に緩く佇むそれを、子の頭を撫でる様に優しく撫でられて、藤は早々に淡く漏れ出していた先走りの量を増やす。くぷりと触れている指の腹の隙間から、粘り気のある液がとくとくと漏れてきた。
「ぅ……、んっ……」
裏筋をすりすりと擦られ、包まれる様に掌で膨らんだ屹立に触れられると、ぬるりと溢れ出る液を持っていかれてしまう。水を含んだ指先を後孔に添えられると、ぬぷぬぷと入り込みきゅっと座していた縁を解していく。
時間を掛けて一つ二つまた一つと抜き差しされては指が増やされていく。三本目が入り込もうとする程、その場所は何時もの様に相手を受け入れる準備は疾うに済んでいる。だが、
「やぁっ、…そこ……だめ……っ!」
しつこく後ろばかりを攻められると同時に、再び屹立に置かれた指先が先端で閉じる溝への進入を試みようとしている。相乗してとろとろと流れ続けている先走りが、解すのを止めてくれない指が挿しこまれている後孔を更に潤していく。
水が増えて嬉しいのかその魚は更に奥へと突き進み、藤が感じやすい場所をつつき始めた。そしてもう一方では指先が溝の入り口から中を撫でては戯れている。次々と現れ体に溶け込んでいく刺激で、藤は射精までいけない軽い絶頂を繰り返してしまう。
あっあっと喉の底から出てくる音は相手の理性を貪っていく。かりかりと指先でポイントを刺激され続けていたが、今度はぐりっと強い刺激で抉る様に撫でつけられ、屹立の先端に潜む割れ目を爪先でカリッと引掻く。
「ぁっ――」
そうして愛撫され続ける身体は快感に震え、達する事で噴き上げられた白濁とした液は抑えられた指に阻まれて四方へと飛び散っていった。けれど蛇はそれで満足はせず、次の頂上を求めて快楽を藤へ与え続けていく。
(さっきから…ずっと……)
どれだけの音を零したか。
肌も胸も熱を帯びるそこも後孔も。ずっと弄られ続けて自分ばかりイかされている。腹上も孔もぐずぐずに濡れ、指が彷徨うその中はすでに解れきっているし、中がうねりをあげては指に吸い付いて催促を繰り返す。早く欲しくて仕方がない。
それなのに、依然として朽名自身が行動を起こさず、もどかしさが藤を苛む。
ふと、弄りくじられ濡れそぼっていた屹立から指が離され……た思うと、内壁に強い快楽を与えられて跳ね上がった腰の下へ、手にした枕を敷き入れる。そのまま藤の腰の位置を高くさせて二人の距離を縮めやすくすると、後ろを弄り続けながら今度はまだ僅かに赤味が残り、芯を持っていた乳首に唇が這わせられていた。
「ンっ、や、くち……ぁあっ――……ぅ、っ……ァん…っ、……あっ――……」
乳首を甘噛みながら舌先で何度も擦りあげる。空いた手でくにくにと弄られていた片方はむにっと摘ままれていた。吸い付かれ指で引っ張られ、両の頂点が引き上げられた感覚に持ち主が小さく悲鳴を上げる。中と外からの刺激にまた淡く先走りを滴らせた。
「やっ、ぁ――……だ、め……、んっ…ちがうの……くちなが、ほしくて…っ、あぁ――」
(ああ……もっと強請ってくれ、藤)
「んっ」
力が籠り相手に縋る様に閉じかけていた脚をぐっと大きく開かれてしまう。そして被さっていた身は下り、ふるふると勃ち上がっているそこを再び口で咥え込んでは新たに愛撫を始めていく。残る全てを吐き出させようと、そそり勃つその下にある膨らみを揉まれながら。
「あっ…あぁ……」
ねぶられながら後ろを弄る事で生まれる刺激に背を反らし、開けっ放しの口からは飲み込み切れない唾液が零れ出す。
頭を乗せていた枕をぎゅっと掴む。
絞り出すように執拗に。藤の今ある限界まで飲み込もうと吸い付いてくる口に、思わず腰が持ち上がり最奥へ押し付ける様に腰が揺れてしまう。藤のそんな動作に煽られて更に強く吸い付てきた。
「あ…も、でな……むり、だからっ!」
首を横に振るが気にも止められない。
開かれる脚がぴくぴくと痙攣を始めていく。促しながら揉み押され、そしてまた最奥を搾り取ろうと強く吸われる。二つの膨らみに触れていた手は今度は指で輪を作り、気づくとこしこしと何度も反り返りを上下していく。
何度も通り抜け、全て吐き出しきってしまったと思っていた道は、猛りを持って再び熱を通過させようと試みている。
もう耐えられなかった。
作られた指でこされながら吸い上げられたのを合図に藤の脚がガクンと大きく揺れる。
「ァッ――……」
望みのものが与えられずに焦らされ続けていた後孔が、その反動で挿れられたままの指を貪り始める。屹立からじゅぷりとせり上がってきたものは、藤の中で僅かに残されていたそれが集められた限界の果てだ。
湧き上がっては吐き出されていく液体が咥え込んでいる相手の奥へと消えて行ってしまう。喉が嚥下する感覚が咥えられた屹立から伝わり、背を大きく反らされては山を作る身体へと響き渡る。
快楽に藤の腰も脚もビクついていく。歓喜して身体全体で味わっている目の前の光景に、朽名は恍惚な眼で顔をほころばせているが、快楽を消化するのに必死な藤は知る由も無い。
「――は…ぁ……」
全身の力が抜けて身を預けられた寝具が沈み込む。未だ抜けきらない快感を噛みしめながらも、蕩けきった瞳は相手を捕らえようとしていた。
突然、藤の瞳が揺らぐ。
「あ、…んんっ」
ちゅぷりと指が抜かれたその縁が、ひゅくひゅくともの欲しそうにひくついている。愛おしさが勝った蛇にその場所へ唇が落とされると、小さく藤の喉が唸り音を零した。
朽名から与えられのを待ち焦がれているのに未だその場所へ挿れてくれない。何度も快楽を与えられているのに全く持って満足が出来ない。
(ほしいのに……くちなといっしょにしたいのに……)
「くちなぁ……」
潤んだ瞳が欲情にまみれて此方を見つめる。
心中は疾うに知っているが、藤からのおねだりを願う神様は、赤らむ耳の内を擽る声で甘え方を落とし込んでいった。
「藤、私が欲しいものは疾うに知っているだろう? ほら、どうほしいのか言ってごらん」
間近で擽られた耳から欲が藤を煽る。
お預けを食らい続けている藤は苛まれ、我慢の一線など消え失せていた。
「……ぅ…、いれて、おくに、……おれのふかくまで……くちながほしい……いっしょに…したいの……おねがい……」
招き入れる形で腕を開き、蕩けながら濡らした瞳を向けておねだりをする声が一層官能的にさせる。淫靡で甘い藤の匂いが背筋を衝動で震わせ、早く食らいつけと急かしてきた。
余裕がないのは神様も同じだった。
静かに朽名が身を寄せると、藤は伸ばしていた枝を首元へ巻き付かせる。待ち兼ねるその縁へ自身を宛がうと、ふるりと震えたそこは吸い付くように微かなうねりをあげた。そして――
「ん〝んっ」
すでに太く重さを持ち、そそり勃つそれが入口から足を踏み入れ始めると、ようやく与えられたものに藤の身体が悶え歓喜し、しゃぶりつこうと内壁が咀嚼する。
先頭が飲まれ、一番の膨らみを通り過ぎると速度が上がってはぱちゅんと頭身の全てを飲み込んでしまう。その瞬間、押し出される様に上がった声と共に藤の腰が大きく跳ね上がった。
衝撃に藤の胸が大きく上下する。まだ動いていないのに、中が「早く動いてくれ」と頭身を撫で回していた。
藤のお願いに応える為に大きく身を振り下ろす。
「あ――、ぁっ――」
淫声が部屋中に冴え渡っていく。
出たり入ったりする抽挿に合わせて歌いだし、その声が辛うじて残っていた相手の理性を食べだしていた。もう淡い透明な液しか出せない藤の性器が二人の間で擦られ、滴っていた液が被さる相手の腹を濡らしながらぬちぬちと音をたてる。
「っあっあ――、あっ、ん…ひぁ――っ…あっ」
(っ――)
自身が与えるもので気持ちよさそうに喘ぐ藤に堪らなくなる。
先達の後を追って、とろとろと口の端から唾液が流れ出し、強く何度も中を突かれる事で生まれる快楽が藤を包んでいた。
奥へ奥へ。
その最奥で潜むくびれに強烈な快楽を与えていく。下から突き上げる激しい律動でくしゃくしゃと皺のよっていたシーツが更に波打った。
身体の底から湧き上がってくる快感に藤が啼き喘ぐ。
「゛あぁっ――」
強く穿たれ、最奥の境目を朽名が突き上げた。
すでに吐き出していた蜜でどろどろになっている藤はもう噴き出す事が出来ない。出せないのに、中が酷く快楽を貪り食べていく。
「――、……っ」
始めて自身を空にされ、出しているような感覚とうねり上げる中だけでイク二つの衝撃が、藤を享楽の水底へと引きずり込もうと駆け廻る。今までとは違う酷く長引くドライな絶頂に、声にならない声が喉から押し上げられ続けた。
「っ――……!」
まだ両者ともイキ終えていないのに、藤の中で吐き出し続けているそれがのた打ち回る。
与えられる快感に膝が跳ねると今度はガクガクと揺れ始めた。揺さぶられる身体が互いに擦れ合い、ぬそぼる鈴口から垂れた液や孔から飲み込み切れずに漏れ出た液でぬちゅりと何度も水音が鳴る。けれど今までに無かった感覚を味わい続ける藤には音へ耳を向ける余裕など微塵もなかった。
意識が薄らぎ、性感を纏うぼぅっと開かれた眼から落ちる粒や開かれたままの口の端から垂れる唾液、荒く上下する腹上や胸元に飛び散る淡い液、しなやかな脚の狭間で溢れた精液。溢れた多くの液で身をぐっしょりと濡らしては褐色の肌を艶めかせる。身体は与えられ続けたもので僅かに痙攣を続けていた。
初めての快楽に一杯一杯になり、そんな状態のまま蕩け恍惚をひそめる瞳で精一杯此方を見つめようとしてくる。染まる頬が愛らしくて仕方ない。
そんな藤の姿が中で休んでいた剛直へまた熱を帯びさせ、このまま挿れておきたくはあるが、散々相手へ愛撫し何時もとは違い限界まで果てさせた後なので、一先ず快感に震えるその身体を休ませようと中から自身を抜きだす。その僅かな感覚にすら快感を感じて声を漏らす藤に何度も己の中が昂りそうになった。
絶えず昂る己を制しながら、このまま休むか風呂へ行くかを尋ねようと相手に意識を向ける。だが、開け放れたままだった藤の口が僅かに動き、此方に何かを伝えようとしているのに気づくと開きかけた口を結んだ。
「……」
乱れる息をゆっくりと整えている藤を目に焼き付けながら、静かに言葉が紡がれるのを待ち続ける。
「ねぇ、くちな……」
欲情の中になぜか憂いを含んでいる藤が声を掛けてくる。しかしそれは蛇が予想もしなかった提案だった。
「くちなの……〝もうひとつ〟は……俺の中にはいってくれないの……?」
蛇の姿でのもう一方のそれは何時も自身の中に入る事は無かったけれど、何だかそれが寂しくもあったのだ。
そう寂しげに此方を見つめる藤が息を飲むと、その口から音を紡ぐ。
「くちな……もういっかい、しよ……?」
提案してくるその姿に意識がくらりとする。
じっと此方を見つめ、少し身を捩り、太腿を手で支えながら片脚をあげて誘惑してくる藤に、喉が嚥下し熱が奥へと下されていく。
持ち上げた脚の狭間に座る花からは、自らが注ぎ込んだ精液が次々と溢れ零れていた。藤から垂れる液が、未だ使われずに閉じ続ける蜜口を辿って泡立つその場所に合流していく。脚が持ち上げられる事で更に中から押し出されたそれは、ぽかりと内が覗く秘部から流れ出し、激しい律動で泡立ってはぱちゅっと弾け飛んでいる。
今までにない目の前の光景を手放さぬ為にしかと目に焼き付けると、精一杯の理性で心做しか何時もよりも小さい姿にふわりと身を変え、抑えきれない熱を帯びた息を外へと吐き出す。
「……ふたついっしょには……だめ……?」
その言葉で今度は蛇の理性がまた一つ弾けていく。半身を起こした藤にくるりと巻き付くと困り顔で蛇が告げた。
「そんな淫らに誘い出して……私を狂わせる気か? 藤」
意図して官能さを表した分けではないのだが……欲するあまりにしていた自身の痴態に言葉を失う。
羞恥で顔を覆う藤の手を鼻先で撫でて嬉しさを伝え、佇んでいた滴りが滑り落ちていく脚の下へ尾を入り込ませると、太く長い胴で持ち上げる。晒される秘所に一つ目を宛がうと藤に問いかけた。
「いいのか? 藤。此処を、毎夜お前を啼かせていた熱の全てで満たしてしまっても」
じっと見つめられ続ける視線を逸らせないまま、言葉に含まれる色に侵食されていく。腕を伸ばし、蛇の太い首元に縋るように抱きついた。
「うん。してほしいよ……くちな」
抱きつかれている蛇の朱色の瞳が欲に揺らめいた。宛がっていた一つ目を飲み込せると先の行為ですでに熟れており、容易く藤の中へと自身を進めていく。小さく淫声を漏らす藤に歩む速度が加速していった。
「は、ぁ……っ――」
ずぷっと粘液を練りながら飲み込ませると、熱く荒い息が藤から吐かれる。それを確認するとすかさず尾先で支えた次の過熱を飲み込ませ始めた。
押し広げながら進んでいくものの重さに藤の腰が浮く。それを咎めた蛇が逃げそうになるその腰を尾でくるっと巻いて掴まえた。そして、
「ッ――!」
藤が背を反らしながら、赤面した頬と衝撃で見開かせた眼を携えて口を大きく開け放つ。
パンッと根元まで押し込まれると、藤の性器が空うちでぶるっと上下に振れ、みちっとしたその場所はぐぽぐぽと溜め込んだ液が音をたてた。
「ぁ、…っぁ……」
馴染ませるようにゆるく揺する動きに藤が呻く。
(……おなか…ぁ、…くちなが……いっぱい、はいってる……)
ちらりとその場所へ顔を向け、みっちりと自身の中へ入り込んだそれに胸がいっぱいになり、欲に焚き付けられた熱と嬉しさが籠った涙目ではぁっと熱い息を追い出していく。すると蛇が心配げに声を掛けてきた。
「どうだ? 藤。……痛くはないか?」
「――ぅ、……んっ」
蛇の掛け声に頷く。
ゆるく動かしていたものを今度は強弱をつけて動かされ、その途端、藤は甘さを含んだ声をあげた。
蛇の眼元が緩む。
「゛あっ」
大丈夫だと判断した蛇は藤の好所に向かってぐりゅっと己を打ち付け、反れるその背にピタリと自身の胴を密着させた。
「っぁ、っ――、あ、あっ、ぁ、ん、――ぁ、は――ぅっ」
大きく中を捏ねられたと思うと長いストロークが藤を襲い始める。突かれる度に、二つのそそり勃ちが各々中で好き勝手に暴れまわり、乱れる両者が産む熱波を搾り取ろうと脈打つ内壁が藤を悶絶させていた。連続する空うちと中イキに蛇へとしがみつく腕に力が入る。
「あっ、あ、きもち…い…ぁ、くちな、ぁ――」
次々と淫声が発せられては宙に漂う。
褐色の裸体が白い蛇の上でくねくねと身を捩らせ続け、歓喜し悦ぶ藤の脳は蕩けてしまっているのか瞳が恍惚と快楽に浸っている。口内の湖は表皮を辿り川を成し、やがて蛇の鱗に辿りついた。
「ぁ、あ――っ」
藤の裸体が飛びあがる。
砂糖よりも甘い喘ぎに駆られて蛇が最奥に手を伸ばす。幾度となく刺激によって愛液にまみれた褐色の肌がビリリと震え、重さを持つ直進に白濁と先走りが混じり合う液が孔から噴き出していく。
中にいる膨らみが震える。叩かれた最奥が振動すると、ゾクリと背筋を辿って電気が走るような絶頂感を伝えていき、強烈な快楽が藤を苛んだ。
「っ!」
だが、強い快感に漬け込まれる中、腰を振るのが止められない。貪る藤の中にいるその相手もまた、動きを止められずにいるようだ。先のイキ終えていない中での揺すりとは違い、今度は二人で激しく中を擦りあげていく。
互いに互いを貪りあう。藤の吸いつきに蛇は喉を鳴らして噛みしめた。
(ぁ、あ、くちな……)
やがて互いに果てを食べ終わると、力が抜けた藤は蛇の首元から崩れ落ちた。
(きもちいい……)
蛇の長い舌が藤に絡まる。
もう何度キスをしたのだろうか。巻かれる蛇の輪の中で、おねだりをしたらすぐにくれたその温度を自身の舌で絡めていく。
やがて離れた唇を名残惜しそうに眺めていたら、目の前の相手の姿がふっと変わる。現れたのは薄茶色の髪を揺らめかせ、何時ものような柔らかい笑みを携えた朽名だ。
「藤、こっちもいるか?」
「……ん」
背を支えられ、間近で問いかけるその表情が奥底で鳴り続ける音を止めさせてくれない。唇が合わさるとまた音が跳ねだす。
「ん、っ……」
余裕があるとでも言いたげな顔でいるのに、絡める舌は何時だって熱を帯びている。与えられる温度が心地良い。朽名が与える温度と自身の温度が混ざり合い、中で溶けあうそれがどちらのものか分からなくなるまで絡めあう。
恥ずかしくて仕方ないのに、とっくの昔に自分が好きになっていたものの一つで。
それに……羞恥に揺さぶられる顔も見られにくくて良いし……。
「はぁ……」
唇と唇が離れていく。絡め合っていた舌が抜かれていくと、糸を伝って小さな滴がぽとりと藤の口元に着陸していった。それに気づいた朽名が間も開けずに拾い上げる。
「!」
ちゅっと離れていった唇が過ぎていくと、咄嗟に手で口元の液を拭う。散々流れ出し表皮の上で漂っている透明な液は、羞恥に染まる藤の肌と同じ色をしていた。
そんな藤に相手はにこにこと笑みを浮かべている。乱れた身体も、零れ出した液さえも綺麗にしてやると言う様に此方を見てくる。そしてまだ付着する液を拭おうと首元に顔を近づけられた。
「そ、そこまでしなくていいよ」
がしりと相手の肩に手を置いて制止する。
慌てる様子にくっくと笑っている蛇を見ながら、段々と我を取り戻し始めた藤は自分がしていたおねだりに羞恥が掻き立てられていく。
(うぅ……二つも一緒に……。しかもやめられなかった……)
それを自分が出来た事にも驚くが、最近、少しでも線を越えると増々貪欲になっていっている気がする。
(我儘ばかり言って、お願いを言いすぎて嫌われたらどうしよう)
ただでさえ多くのものを貰っているのに、かつて人間達からの願い事を聞くのにうんざりしていた目の前の神様に、欲を晒しながら今日何度求めてしまったのか。
醜態を晒して朽名に嫌われるのが怖い。我慢できなくなってしまうのが、欲深く甘さに溺れていくのが怖い。自分に求められ続けたいと言っていた神様に、自分が不慣れ過ぎて何処まで甘えていいのか分からない。
「甘えすぎてたら、ごめん……」
つい目を伏せてしまう。
その顔を伸ばされた指先で前へと向かされると、少し高い相手の目線と交差する。……ついでに残っていた液を拭われぺろりと口に含まれた。
「私はもっと強請ってくれても構わないがな。甘えすぎどころか足らなすぎるな」
(足らないの……)
今までも今日も散々甘えてしまっている気がするのに、まだ足りないらしい。やはり自分は不慣れすぎるのだろう。
何時も余裕を浮かべているその相手は数百年と過ごしてきたのだ。そんな相手と比べても仕方ないが、少し羨ましくなってしまう。
(……いつも朽名は俺の表情を変えてくるのに、俺は表情を崩す事が出来ないのは……何だかちょっと悔しい)
普段何かと驚かされ、足らなすぎるという言葉にまた驚かされた藤はそっと胸の奥に少しの負けず嫌いを仕舞い込んだ。いつの日か、自分も〝余裕の笑み〟を携えたまま朽名の表情を崩してみたい。まだ見た事の無い朽名の表情を見てみたい。
「それとも私に甘えるのは嫌になったか?」
否定する為に見上げると、相変わらず歪める事の無い笑みのまま。けれど瞳の奥で何かが揺れた気がした。
「違う、ただ……」
「ただ?」
言いづらそうに藤が淀む。
「ただ俺が、臆病だから……。我慢出来なくなるのが……朽名に教えられる甘さに溺れるのが怖くて」
そして伝える勇気も出せずにいる。中々甘さに慣れるのも難しく、羞恥に頭の中も白くなっていってしまう。
「あと……恥ずかしい」
怖いという言葉に、藤の話を聞いていた朽名の瞳の奥がまた仄かに揺らいだ気がするが、続いた言葉と共に淡く浮かぶ頬の赤に視線が移されていく。
「俺も、もう少しだけでも余裕を持てたら……いいのにね」
目の前で呟く藤に苦笑が浮かんだ。
「怖い、か……。私が触れるのは……苦しいか?」
伝えるのが恥ずかしいのか藤の目が泳ぐ。赤味が増していくのから目が離せない。
「……悦かった。それに、朽名に触れるの……きもちいい……よ?」
優しさも甘さも温度も、朽名がくれるそれらが苦しかった事なんてない。
言うのも恥ずかしいと眉を顰め、困り始めた藤のその言葉に満面の笑みが浮かぶ。抱きしめている腕の深みが増した。
「これからも沢山教えよう」
うんうんと頷く蛇に、更に藤が困惑する。
「俺が自分を止められなくなって……我慢できなくなるのは……」
甘えすぎて、我儘を言いすぎて、傲慢になって、朽名から嫌われるのは怖くて。そんな事が起きるのは考えるのも嫌で、じわりと瞳が潤み始めてしまった。幸いにも抱きしめている相手の胸に顔を埋めているので見られてはいないだろう。
「私が抱き留めてやるから、そんな怖さは捨ててしまえ、藤」
藤の瞳がぱちりと開かれる。またじわりと視界がゆがみそうになると、粒を落とさない様にそっと目を閉じた。ふわりとした笑みを浮かべたまま。
「うん、頑張る。でも……」
せめて我慢ではなく、我慢しなくても良い程に余裕を保つくらいにはなりたい。心の余裕を。何かから与えられる苦しさに我慢しなくてもいいくらい、甘さに沈んでも余裕が持てるくらい、支えてくれる朽名を支えられるくらいには強くなりたい。
不安に揺れた中で、抱きしめられる体温が暖かくて気持ちいい。自身の弱さを噛みしめながら、続く言葉を発する前に藤の意識は沈み切っていく。
「……」
胸元で顔を伏せて密着している藤の声が疲れで眠気を含む。聞こえてくる静かな寝息を聞きながら、蛇は呟いた。
「私だってな、余裕はないんだ」
苦笑を浮かべながら押し出されたその言葉は、微睡に落ちていた藤にはもう届いていない。己から逃げ出す事も無く、腕の中で安らかに眠り続ける藤に安堵の息を漏らす。
藤が戸惑っているのが分かっているのに愛しすぎて思わず沢山与えたくなるし、藤を失う怖さで不安に揺られて己の届く範囲から出したく無くなってしまう。藤を縛るなんてしたくないのにも関わらずだ。
矛盾した欲が顔を覗かせて〝別の道を辿った誰か〟が「捕まえておけ」と告げてくる。余裕がある様に見せかけて、その実は皮下に余裕の無さで覗く〝恐怖〟を隠し通しているだけだ。
(情けない姿なんて見せたくないからな)
気持ちよさそうに眠る藤に、起きたら恐らく身体を痛めているだろうと懸念し、自身が先に動き出す事を密かに決めた。
砂糖に漬ける程に甘やかしたいと言ったら、藤は怒るだろうか。抜け出せないほどの甘さに漬けて逃げないようにしてしまいたくなる時があると告げたら、自身の傍から立ち去ってしまうだろうか。悲しみと苦しみにひたすら耐える為に〝我慢〟する事を手にして生きてきた子が、甘える事で我慢出来なくなるのが怖いと言っていた。
受けた痛みの為に我慢なんてしなくていい。そんなくだらないもので怖さを感じるなら、己の欲深さに震えてくれた方がまだましだろう。……それが言えたら良かったのだが、甘さに漬けこみたいと告げた事で藤がいなくなるのに怯えてしまう。
そんな折にふと、花が咲く夜空の下で零してしまった自身の言葉に、「いつか、そんな日が来たらいいな」と嬉しそうな表情で返していた藤がふわりと浮かび、腕の中で心地よさそうに眠り続ける相手を見る。
「いずれ、此方でも出来るようになると好いな、藤」
その相手が己だけであってほしいと、自身の願いにも似た言葉がそっと空に混ざり消えていく。
「待ってて。くれる甘さに沈むのが怖くなくなるくらい強くなるから」
何となく、目の前の人物からそう聞こえてきた気がした。
❖ ❖ ❖
陽は疾うに傾き、空の色が変わり始めようとしていた。
耳まで真っ赤な藤は頭を抱える。そのすぐ横ではとっくの前に行動を開始して人の姿をとっていた朽名が楽しそうに待ち構えていた。
「……くちな」
「ふふ、どうした藤」
つやつやとした蛇は嬉しそうに聞き返し、藤の不服そうな表情からは言葉が産まれていく。
「お腹……すいた……」
「ああ。あれだけ求め合えば腹も減っているだろう。直ぐにでも食事が出来るぞ。……それと?」
用意周到な蛇が生き生きと藤に聞き返す。
「……お風呂まで連れてって」
不本意な藤が、多くの波を作る寝具に動けない身を横たえながらそんな注文を朽名へと手渡した。
満面の笑みを浮かべて心を弾ませると、蛇は軽々と藤の身を持ち上げる。波を作っていた当人達が去ると、その場所は熱を含んだまま水平線を取り戻していった。
……寝具から、やれやれと溜息が聞こえてきそうな気がする。
閑話1 「漂う氷菓の海」
(蛇だし……いきなり冷たいのを当てられたらびっくりするかな……?)
それはちょっとした思いつきだった。まぁ、日頃色々と驚かされているし、偶には仕返しをと。
けれど相手の方が藤の気配を読んでいたらしい。こっそりと近づき、冷気を含んだアイスキャンディーを一つ、縁側で寛いでいた神様の首元へ渡そうとした時――
「うわっ」
藤の行動に気づいた相手に引っ張られてしまった。抱き留められるとそのまま倒され、神様の下で藤が目を丸くする。
「どうしたんだ?」
「……表の掃除をしてたら、前に依頼に来た子に会ったんだ。そしたらそれを貰ったから、朽名にあげようと思って……ついでにちょっと日頃の仕返しを……」
悪戯がばれた事で藤が言い淀む。すると朽名は藤の手元に居るそれを連れ去った。パリッと袋を開け、藤の口元に差し出してくると、「こんな体勢で食べるの……?」と藤が躊躇う様子を見せる。
「ほら、早く食べないと溶けるぞ」
急かしてくる朽名に負け、恐る恐る舐めとっていく。ソーダ味の空色をしたそれは爽やかでほんのりと甘く、夏になっている今のこの世界にはぴったりのお菓子だった。
ごくっと溶けだした液を飲み込むと、アイスを支えていた手が口の中からそれを引き、ちゅぱっと音を立てながら藤の唇から離れて行く。差し出していた朽名がそのままそれに齧りついた。
「旨いな」
暑さに呻いていたからか、その冷たさに蛇が喜ぶ。
飲み下し、もう一口含んだ。その眼下に居る藤は此方の様子を観察しながら、溶けそうな眼で何かを欲しそうにしている。
「食べるか?」
「!?」
藤の元へアイスを差し出す……事は無く、急に体を起こされ一口含んでは唇を塞がれる。そして口に含んだままのそれを流し込まれた。
冷たい固体が溶け、溶け出した液体と混じって口の中を泳ぐ。漂ったそれは藤の温度を奪うと、喉を伝って奥へ隠れていった。
「まだあるぞ」
溶け落ちそうなアイスを再び齧り取り、間髪入れずにまた藤の口を塞ぐ。
食べきれば何れ満足するだろう。
最初は慌てた藤だがそう思い直す。こうした事に諦めを知らない神様を知っている藤は、食べ終わるまで大人しくする事を選択した。
目の前の神様は冷気を含んだそれを口にしては、自身の熱と共に藤へと注いでいく。絶えず流し込まれ続け、熱で溶けだす固体が液に変わっていくと藤の喉がまた嚥下した。だが
「んっ……、――゛んんっ、ぅ、ん、っふ、っ」
全てを注がれても朽名が離れる事は無く、代わりの物が挿し込まれるとそれは藤の中を好きに歩き回っていった。
ちゅっと音を立て中の味を楽しむ。
やがて解放されると、甘さを含んだ糸が両者から引いく。美味しそうに与えられるものを飲み込んでいたのに、突然自分を吟味された藤は相手の腕の中で熱によって溶け落ち、そして当人の嬉しそうな笑みに気づくと、熱さで真っ赤になる自分の表情を隠す為に相手の胸元を利用する。
その様子に神様は満足すると、手元にある最後の一口に齧りついた。
❖ ❖ ❖
気がつくと夕が訪れ暑さが薄れる。
別の熱を帯びていた二人は縁側で、水を張った桶の中に数個だけ氷を落とす。落とされた氷は熱で溶け込み、冷気を纏う水が桃や梨などの果物を冷やしていた。……入り込んだのは果物だけではないらしい。桶の縁に、ちょこんと顎を乗せた蛇も居る。
果物と共に蛇が水の中で涼む。そんな光景を藤は眺め楽しんでいた。
(可愛い)
桶の縁にちょこんと頭を乗せた蛇が藤を和ませていく。さっきまで自分を組み敷いていた相手とは思えない。
(っ……)
さっきの味をふと思い出してしまった藤の熱が僅かに上昇してしまう。その僅かな熱を感じ取ったのか、蛇は顔を上げた。
上がった熱を冷ましているのにまた熱を得てしまう。藤は慌てて冷やしていた果物を手に取る。
「も、もう冷えたかな? ねぇ、食べてみる? 朽名」
奥底から湧きだした熱を冷ましながら、一つ果物の皮を剥こうとした時、
「では、次は藤が食べさせてくれ」
「……」
するすると綺麗に薄い皮が剥かれ、綺麗に切られた一片を一つとると、身を変えて藤の隣で待ち構えてた朽名の口元に差し出す。相手が差し出された果肉を食んだ時にはすでに藤の顔色は夕暮れの色と混ざり合っていた。
「お、おいしい?」
蛇がにっこりと微笑むと、美味いぞと返してくる。そしてすっと藤へと近づくと瞳の奥では次を望んでいた。
多分……これを食べ終わったら、次はきっと自分だ。
閑話2 「星合に浮かぶ光」
開け放たれ、戯れていた部屋から夏の終わりの庭を暑さで熱が上がった二人が盗み見る。寝るにはまだ少し早い気がして縁側に腰掛け、少し小腹を満たそうと沢山貰った夏みかんも持ってきた。
縁側近くに置いた笹と庭で舞う蛍を見ながら、まあるい夏みかんを剥く。
(沢山あるからお菓子でも作ってみようかな? ゼリーとか寒天とかならこの時期に合うかも)
未来の美味に少しワクワクしながら、ふと今日の事を思い出す。……ついでに剥いたのを朽名の口に運びながら。
朝に撒いた水は疾うに乾き、辺りが橙色に染まり始めた頃だった。からりと鳴る拝殿前の鈴の音に、藤は境内へと向かう。そこに居たのはそよぐ笹の葉が産むさらさらとした音を纏いながら、幽霊達と共に楽しそうな表情で此方へと手を振る二人だった。
トウアとルカと共に、なめらかで鮮やかな色合いの竹を設置する。その青々としている竹にトウアとルカ、そして小さな幽霊達とで飾りつけをしていった。
「えっと……なんだっけ……? 一年に一度しか会えない人達が居る話があって、それでなんでだったか笹を飾り付けてお願い事をするんだって聞いたんだけど」
「星合っていって、一年に一度だけ会える約束をしている二人が居るんだって。それで、その日に星の川が綺麗に夜空へ浮かぶととても良いんだって」
トウアの説明にルカが補足している。
こうしてして装飾をするのは、どうやらとある世界に竹に飾りつけをして願い事をする日があるらしいと図書館で知ってみんなでやってみたくなり、竹を取りに一度植物園に寄ってから藤達にも声をかけてみようと向かっていたら、その道中で他の幽霊達もついてきたらしい。幽霊達は結構行事や楽しい事が好きな者が多く、季節や日ごとに楽しそうに集まっているのを見かけたりもする。
そうして好奇心を携えて訪れた幽霊達に視線を移す。笹を彩る為の飾りを作る者も居れば、庭の小さな池を覗き込んで天青色の身を水面に映しては眺めている者もいた。
そしてルカの頭上を見て笑みが浮かぶ。
(あの子達、少しだけなら浮かべるはずなんだけど)
トウアよりも少し背の低いルカが、高い場所へ作った飾りを付けようとしている。そのルカの頭の上に乗る丸いふよふよとした小さな幽霊も一生懸命背伸びをしており、可愛らしくて心がほころぶ。
「今日ムツキはどうしたの?」
朽名が見かね、彼(正確には彼等)の身を持ち上げて高い場所の飾りつけを手助けしている様子を眺めながら、竹を上手に設置出来て満足げにしているもう一人の人物へとそういえばと気になり尋ねてみた。
ムツキはトウアと共に植物園で暮らし、花屋として花や木を育てている。一見細身に見えるが軽々と重い土や鉢を運んでしまうので、今日は率先して荷物を配達に行っているのかもしれない。
「図書館に寄ったら本屋に捕まってたから、置いて来ちゃった」
……いや、ただ置いて行かれただけらしい。
好奇心を発揮して走り出すトウアを止めている姿をよく見かけるので、しっかりとしたイメージではあるが彼も結構マイペースだったりする。朝に弱く、用事がある日は眠そうにしているのを引っ張っていく事もあるとトウアが話ていた。
恐らく図書館の管理人であるダリオンに本の整理を頼まれたのだろう。本屋自身も別の方向でマイペースな人物である。
花屋に本屋、そして此処に来る為に鍵をくれた鍵屋。物を直すのを始めてから自分達は修繕屋と呼ばれる事も儘ある。しかし此処は特別貨幣を稼ぐ必要もないので、みんな自身がしたいと思う事をしているだけだった。あまり貨幣を使わずに、或いは一切使わずに自給自足をしている者も多い。自分達も大きく貨幣を使った事は殆どなかった。そして其々の箱の管理者はあれど、政治家や上層階級などといった支配者も居ないので、他世界で稀に見かける税金というものもない。
この隠世では感覚や技術、思考力や記憶などといった〝自分自身〟が大事であり、他の世界の様に貨幣は絶対的な価値を持たない。というよりそんな事は当たり前なのだが、「お金=全ての価値」と思っている人々が他の世界では一定数存在しているらしく、此方で使う事もある金貨や銀貨等とは違い、そうした人達はなぜか紙で出来たお金を大事そうにしていた。
その紙の為に生きる時間を対価にしたり、命や自身の大切なものよりも紙を優先する事もあると。天地に還るだけの死さえもその紙が必要らしく、生も死も紙に縛られていると言う。なぜ紙がそこまで大事なのかはよく理解は出来なかったが、その人達の中ではそういうものらしい。
自分は幸福で裕福で優秀なのだと語るその世界の、心配になるくらい疲れが見えてどこかやつれた顔の人々の話を聞きながら、全ての価値がお金しかなく「お金に縛られているのは幸福なのだろうか……?」と、朽名と二人で首を捻っていたのをよく覚えている。直接話を聞いた分けではなく、モニターというものに映し出されていた人々が話していた言葉だが。特に行き先を決めず、偶々遭遇した世界での話である。その後は淀みが浮かぶその世界の空気が合わず、少し見て別の世界を訪ねる為に再び扉を開いてその場所を後にした。
隠世に来る前にいた場所でもそうしたお金を優先した者達はいたのかもしれないが、やはり理解は出来なかった。大切な人達や自身、好きな風景や過ごしてきた時間の方が自分はとても大事に感じる。
そういえば前に、『私欲を振り回す略奪者や拝金主義者、そして階級や権力といったものを崇拝する者など、もしかしたら隠世の幾つかの〝仕組み〟が〝そうした者達〟に合わないのかもしれない』と、隠世の仕組みや暮らしている人達について話てくれた人から聞いた覚えがあった事をふと思い出す。
人も幽霊も妖も神も人とは違った者達も、様々な者達がこの世で暮らしているが、確かにそうした者達を見た事も無ければ自身がこの場所の仕組みで苦に感じた事も無かった。どういった過程でこの場所が生まれたのだろう。不思議な場所だけれど、自身の安らかな時間と誰かと過ごす時間をくれる大切な自分達の世界なのは変わらない。何かあったとしてもちゃんと考えるだけなのだ。自身のしたい事を見つめ、ついでに誰かの助けになるくらいでいい。今もこの先もみんなで廻している世界で、〝自分のペースで過ごせる場所〟なのだから。
此処へ来たばかりの頃、迷っていた自分に「藤も居たいように居ればいいんだよ」と教えてくれたトウアの言葉の通り、自分は今も変わらず〝在りたい自分〟で居続けている。
高い所へ上手く飾れたルカが朽名に礼を言うと、頭の上の幽霊も嬉しそうに手をぱたぱたとしている。すると自分の傍に居た幽霊が、手元で折っていた折紙をじっと見ていたのでそっと差し出してみた。ぱっと顔が輝くと、嬉しそうに手に取りぴょんと跳ねている。何だか此方も嬉しくなるし、少し懐かしくも感じた。
「あ、そうだ」
厨で待ち構えている黄色く甘酸っぱい果実の存在を思い出す。今朝、竜胆さんが箱を抱えて持ってきたものだった。
いくつか小分けて二人分の袋を持ってくる。
「竜胆さんから沢山貰って。これ、よければお土産に」
箱一杯に貰った夏みかんを訪れた二人にも御裾分けした。思わぬ手土産を手にした二人が甘酸っぱい果実に笑みを零す。一緒に来れなかったムツキへの良いお土産が出来たとトウアは話していた。
わいわいと飾りを作っていた幽霊達にも器一杯に夏みかんを置いてあげると嬉しそうに其処へ寄り、庭を散策していた幽霊達も何だなんだと見に来る。
皮を剥いて一粒差し出すと、「おおっ!」と粒を抱えてぱくりと食む。美味しかったのか、その味にふるふると体を震わせていた。幽霊達は食べ物も食べれるが、花を食べるのが好きなので果物も気に入ったのかもしれない。
綺麗に空になった器を見届けると、朽名が縁側に腰掛け、丁度その時にルカと話していたトウアもとたとたと二人の元へと来る。
「金平糖、二人にもこれあげるね」
手渡された綺麗な包み紙の中にはきらきらとした星粒のような形のお菓子が入っている。二人に手渡すと、今度は幽霊達に配ろうと渡しにいく。小さな星形をしたそれは、前の世界では星砂糖と呼ばれていた。此方の世界での名前は違うらしい。
星の欠片の様な金平糖を見る。
「懐かしい。出会ってから朽名が最初にくれたお菓子がこれだったね」
❖ ❖ ❖
藤が来たばかりの頃。
秋の始まりに賑わう路の中で、蛇は苦悶する。藤は何を好むのだろうかと。
帰路につく途中、これから冷えていくであろうからと思い、店が並ぶ通りまで出て幾つか見繕った後だった。小脇に抱えた荷の中には藤の衣服が入っている。何時まで藤が自分の所に居るかは分からないが、今後背も伸びるだろうと今よりも大きめのものも揃えてみた。それらを抱え、さて家に帰るかと思った時、華やかな菓子達が並んでいるのが目の端に留まる。
何か一つ手土産に藤へ渡したら喜ぶだろうかと思い、少しだけ店を覗く。……が、これまで自身が人間の食べるものに興味を持ってこなかったせいか、数ある菓子の中から何を選べばいいのか分からない。藤は何を好むのか……。
そうしてうむと思案する朽名の横を子供達が楽しそうに駆けていく。きゃっきゃっと路で話す会話に、「今日は星が綺麗らしいよ」「星が流れるんだって」とそんな会話が通り抜け、追いかける様に「お星さまに何をお願いするの?」と聞こえて来た。そうしてにぎやかな声は遊びの続きへと還っていった。
(今日は流星が流れるのか)
楽し気な会話からそういえばと思い出して辺りを見渡す。そんな日だからか、店主は星に似たそれを見つけやすい場所へ出していたらしい。声を掛けて用を済ませると、まだ夕を迎えてはいないが軽い足取りで早めに帰路を辿り始めた。
ガラリと玄関の戸を開くと何だか薄暗く感じる。
(まだ燈の灯りを付けてなかったか)
季節が移り始め、陽の長さが変化したのもあるのだろう。
だが、その薄暗さがなぜか寂し気に見えた。藤は何処にいるのだろうかと耳を張る。すると、何時もは聞かぬような音が厨の方から聞こえてきた。
入口からそっと中を覗く。そこには座り込み、声を抑えながら泣く藤が居た。何かあったのかと思わず動揺し、驚かせないようにと気を配るのを忘れてうずくまる藤へと声を掛けてしまう。
「どうした、藤」
静けさの中で突然掛けられた声に驚きで藤の肩が揺れ、咄嗟に泣き顔を隠そうとしている。だが、立とうとしたその横に自身がそっと座ると藤も座り直した。
「何かあったのか?」
聞いてはみるが首を横に振られる。
「大丈夫。……けど、ちょっとだけ」
そう言ったまま言い淀んでいく。どうしたものかと静かに待ってみると、ゆっくりと閉じていた口が開かれた。
「ちょっとだけ嬉しかったんだ」
その言葉に蛇が首を捻る。
「ずっと外へと出たくて、あの場所から出られるなら贄として死ぬことになってもいいって思ってたのに」
話し始める声が少し揺らいでいる。また瞳が潤み始めたのだろうか。心配になりながらもただ指摘せずに言葉の続きを待ち続けた。
「贄として少しだけでも外が見れて、やっと出られたんだってほっとして。朽名の前に来た時でさえ死だけしか見えてなかったのに」
潤む声で音が出なくならないように、唇を噛んでは大きく息を吸い込む。
「生きてて良かったって」
初めて料理を作ってみて、温かい美味しいものを誰かと食べて、知らなかった事を学んで、興味深いものを見つけて、やった事も無かった事をしてみて、自分が好きなものを見つけて、季節の移ろいを目にして、誰かと楽しく会話して、笑いあい、朝起きても寂しさを感じない。
朽名が帰る前に夕ご飯の下準備をしておこうと台の前に立ち、そうした事を思い出しながら手をつけていたら涙が零れていたのだと、ゆっくりと藤が言葉を紡いでいく。
朽名が死を反らして居場所をくれなかったらきっと、「自分は贄だから、このまま傍に居ても荷物にしかならないから食べてくれ」と死を願い続けていたかもしれない。やがて再び目の端からぽたりと粒が落ちると、頭をわしゃわしゃと撫でられていた。
突然の事に涙を溜めていた目が見開かれる。思わずその相手を見上げると困ったように顔をほころばせていた。
(これは、まずいな……)
藤が笑うと心がぎゅっと鳴る事には気づいていたが、泣いても心が音をたてていた。下手をしたら此方も粒を落としかねない。
涙を瞳に溜めて俯いていたが、今は此方を向いている。涙が浮かぶその顔を変えたくて手元にあった星に縋る事にした。
自身よりも小さい藤の手をそっと手に取る。藤の手に収まるほどの紙袋を乗せて開ける様に促すと、どうなるかと思ったが上手くいったようだ。
「……きれい」
渡された見た事のない菓子を輝く瞳で藤は見つめる。薄暗い室内できらきらと光るその表情から目が離せなくなった。瞳はまるで夜空に浮かぶ星の様だ。
「食べれるの!?」
じっと見たまま動かないので食べないのかと聞くと、これは食べ物なのかと驚かれてしまった。
菓子が入る瓶を持ち上げ、傾けて藤の手の上に幾つか取り出す。ころりと転がる一つを試しに食べてみせると、口の中にほんのりとした優しい甘さが広がった。
「美味いぞ、食べるか? 藤」
問われて藤がそっと星を拾い上げてみる。ぱくりと一口食べた藤はまた驚き瞳の輝きが増す。美味しいと呟き、星の欠片みたいだねと向けられたその表情はすっかり柔らかな笑みに変わっていた。
掌の瓶の中で、ころりと転がる残り僅かな小さな星達を未だ失う事のない輝きでじっと見つめていると、どうしたのかハッとしたように藤が口を開く。
「朽名のは?」
「? おまえの分だけだぞ」
なんでそんな事をと疑問に思っていると、自身の返答に藤があわあわとする。その様子に首を傾げていると、藤はころんと一つ星を取り出し――
「!」
朽名へと手を伸ばしてはむにっと星粒を口元に押し付けて来た。
「これ朽名の……。朽名も一緒に食べようよ」
今まで食べる事をして来なかった故に、自分の分も用意するという発想に至らなかった。藤がこうして言わなければずっと思いもしなかっただろう。
下心でも無ければ〝神頼み〟の返礼でもなく、ただ〝自身に対して〟渡してきた藤の行動に、そして己の言い知れぬ感情に、驚かされた瞳が今度は嬉しさできらりと光を帯びる。ぱくりと渡されるその手から菓子を食むと口の中へと消えていった。
「……星みたい」
自分より背の高い相手の瞳を見上げていた藤が呟く。
だが自身の事を言われたとは露にも思わず、流星の様に口の中へふっと消えていった菓子の事を言ったのだろうと思い込んだ蛇は笑みを零した。
微笑ましく思っていると、そういえばと麓の子供達が遊びながら話していた事を思い出す。
「知っていたか? 星に願うと願いが叶うらしいぞ」
「……お願い事……」
(このまま……一緒にいたいな……)
願ったら叶うのだろうか。
けれど自分が此処へ来たのは本来贄として役をまっとうする為なのだ。消極的な朽名に、麓から持ってきた〝神の役〟と奥底に渦巻いていた〝死を願う自分〟を押し付けた。それでも面倒事を持ってきた自分を食い殺すでも見棄てるでもなく居場所を与え、死だけを見ていた自分に生きる事をくれた。
(朽名に会えてよかった)
これ以上迷惑なんてかけたくない。せめて本来の役目を全うしたい。居場所をくれたこの神様の……朽名の願いを聞く贄でいたい。
「何か願いでもあるのか?」
「……」
ぐっと黙り込んでしまった相手を見つめる。
暫く答えを待ってみたが、藤は首を横に振ってしまった。
もし願いが知れたならば、涙を零していたと思ったら相手に何かを与えたこの少年の、目を魅かれるくらい輝く表情がまた見れるかもしれないと思ったが……。
「お菓子、ありがとう」
そんな間に、聞く事は叶わないかと息をついた自分へ向けられた柔らかな笑みで、再び自身の視線が奪われていく。
「ああ」
どうして他の者の礼とこの少年の礼では魅かれ方が違うのだろうか。今はそれが分からないまま目の前に浮かぶ輝きを何時の間にか目に焼き付けていた。
❖ ❖ ❖
やがて陽は落ち、夜空が点々と星を浮かべ始めた。「願い事は何にする?」と話し合う姿や星空を映しながら蛍が舞う小さな池の周りでぴょんぴょんと遊んでいる幽霊達、そして美味しいものをみんなでわいわいと囲みながら共有する楽しさに心が騒ぐ。
今度は境内で大きめの笹を置いてみるのもいいかもしれない。台も広げて美味しいものを摘みながらでも。それを提案すると、トウア達もやってみたいとわくわくしていた。
客人達が各々の家へと帰っていき、すっかり帳が落ちた中で少し物悲しさを含んで庭に佇むその竹を眺めながら、今日の思い出に藤が顔をほころばせる。
共に過ごすうち、今では疾うに気づいていた。
一緒に食べようと声を掛け、神としてではなく、〝自身に〟礼を告げてくる藤が嬉しかったのだ。〝素のまま〟に手を伸ばしてくれる藤が気に入ってしまっていた。
藤と出会えた事が嬉しい。
今度は自分の口へと藤が甘酸っぱい一粒を摘まんだ時、蛇は口を開いた。
「何か願わなくてもいいのか?」
「……」
じっと蛇を見つめていると、相手も遠慮するなと言わんばかりに此方を見つめてくる。互いに見合う形にふふっと思わず笑みを浮かべると、問いかけてきたその口に剥いたばかりの夏みかんをむにっと押し付けた。
「もう叶ったよ」
願わなくても直ぐ傍に「願い」が居る。
閑話3 「とある日の人々」
天を仰ぐと、陽が落ちるにはまだ余裕がある時間だった。
何時ものように里の者達からの〝頼み事〟を終らせた神様は、帰路に就く前に久しぶりに顔を出そうと里の外れを目指して歩を進める。
「おや、土地神様。お久しぶりですね」
庭で談笑していた夫婦が、顔を出した土地神に気づき声を掛ける。
縁側に座る女性の膝で微睡んでいた白い猫は、蛇が来たと驚き家の奥へと逃げ出してしまった。相変わらずだなと蛇が苦笑する。
「すみません、そろそろ慣れてもよさそうなのですが」
白猫の逃亡に主人から詫びを入れられた。
(……蛇に怖がるというより、子供が折り合いを付けられずに隠れるみたいだな)
藤が拾ってからまだ一年と経っていない。まだまだ学んでいる最中なのだろう。
(猫に嫉妬していた自分も大概だがな……)
自身の不甲斐なさに遠目でそんな事を思っていると、「どうですか?」と縁側に座る事を主人から勧められる。それに頷くと静かに腰を下ろした。
「此処に来る途中、あの時の贄はどうしたのだと聞いてくる者がいた」
「……それでなんと答えたんですか?」
「食ったと、それだけな」
その言葉に今度は男が苦笑する。
この土地神が今藤をどうしているかなんて疾うに知っていたからだ。
読み書きが上達した、また料理の腕が上がった、共に食べる食事が美味しい、何かを見つけては目を輝かせ笑みを浮かべる、ころころと変わる表情が愛らしい。
そんな他愛も無く、けれどこの神にとって大事な記憶を二人に話しに来るのは、何時の間にか藤と共に過ごす以外にもう一つの楽しみになっていた。
この目の前の男が〝幼かった藤に文字を教えた事がある者〟だと知らなければ、大事な者と過してきた思い出を誰かに共有する時間なんて生まれていなかっただろう。
藤が自身の元へきてから初めての冬を迎え、やがて雪も解け始めてそろそろと土筆や蕗の薹が芽吹くのではという頃、家屋の修繕を頼まれた際にこの男に聞かれた事がある。
とても不安気に恐る恐ると、そして心配の目を向けられて、「貴方の元へいった子はどうなされましたか?」と。どうしてそう聞くのかと問うと躊躇いながらも分けを語ってくれた。
藤の両親の死因が分からないままに弟夫婦が藤の両親の家を引き継いだ事、古くから其処で働く数少ない使用人から聞いた噂話、その家を継ぐはずだった幼い藤が隅へと追いやられて存在を世から隠されている事、其処に勤め始めた自分が幼い藤に少しだけ文字を教えていた事、文字を知り始めた事で更に追いやられた事、文字を教えていたのを知った弟夫婦に余計な知恵を付けさせるなと呼び出され、その際に厄介払いの為に藤を娼館へと売ると聞いて異を唱えたら辞めさせられた事、贄贈りの候補をその家から出す話を耳にして藤が出されるのだと悟ってしまった事、そしてその後藤がどうなったのかが長く心に引っかかっていた事。
語りながらも押し潰されそうなくらい不安に瞳を揺らす男が次第に不憫になってしまい、思わず言ってしまったのだ。
暇つぶしで置いておいたら惚れてしまったと。
最初は送り返そうとしたが藤が嫌がり、では会話が出来るのなら暇つぶしにでも置いておこうか思っていたら、思いのほか共に居るのが楽しくなってしまったのだと正直に自白した。
そう自白したら目の前の男はぽかんと口を開けて綺麗に目を見開いていた。自分は物を食べる必要もないと言ったら「えっ?」と返され更に驚かれてしまった。
恐らく他の者達もそう思い込んでいたから藤を寄越し、共に食物も置いていたのだろう。時折、礼だと言いながら顔を伺う様に渡してくるのも勘違いしたまままだからだ。だが、今はその思い込みが藤の助けになっているのだから怒る気など疾うにない。
浅はかな己の心情の気まぐれさと男の表情がおかしくて溜息を吐いたのを覚えている。……その弟夫婦に冷えた感情を抱いたのもよく覚えているが。
我を取り戻し、ほっと息ついた男は心底嬉しそうにしていた。その表情をよく覚えていたから、藤が白猫を拾った時に思い出し、再び訪れるきっかけも出来たのだった。
それ以来、時折訪ねては藤についての話に花を咲かす。幼いのに、藤は文字を覚えるのが早くて教えがいがあったと聞いた時は、「そうだろうそうだろう」と頷いてしまっていた。己はここまで馬鹿になったのか。
自身の知らない所で幼い頃を語られていると知ったら藤は赤面するかもしれない。藤の事を考えるとつい笑みを浮かべてしまう。それは話し相手である二人も同じ様で、過ごしてきた事を話すと顔がほころんでいる事が多い。
藤は今どうしているのか。
今日も藤について話ながら、今も家で待つ藤の事を想う。早くその顔をみたくなってしまった神は、そろそろ帰路に就く事を二人に告げた。
「これを持って行ってください」
男の妻に差し出されたのは重みのある箱だった。
「また家の畑で取れたので。御裾分けです、よければお二人でお食べください」
その箱の中には沢山の野菜や果物が詰まっていた。それを受け取るであろう相手を想うとまた顔が緩んでしまう。
夫婦はこうして藤へと物をくれる事が多かった。藤が甘味を好きなのをよく知っている二人は果物を多く持たせてくれる事も多い。楽しそうに料理をする姿や、甘いものが好きな藤の笑顔が目に浮かんだのだ。
「また何れ、あの子の話を聞かせて下さい」
「ああ、礼をいう」
すると帰り際、隠れていた白猫がひょこりと顔を見せると、にゃっと一鳴きしてまたすぐに奥へと引っ込んでいった。そんな猫の様子にふっと息を零すと、夫婦に見送られながら神様はまた歩を進めた。
❖ ❖ ❖
昨日、早めに帰って来た朽名から沢山の野菜や果物を貰った。この時期だからか、色とりどりと種類が揃っているのが見ているだけで楽しく、そして果物が沢山あるのが嬉しい。何よりもその美味しさを朽名と共に味わえると思うと心がわくわくと弾んでいく。
此処に来てから一年程の時間が過ぎていた。
過ごしてきた時間は出られなかったあの場所よりも少ないはずなのに、今出られないこの場所の時間の方が余程大事な宝物になっていた。
あの頃は明るい内は物置の窓から偶に通る人の様子を見てみたり、僅かに浮かぶ両親の面影は無いかとひっそり家の中を探してみたりしていた。そして日の終りに誰もいない厨を訪ね、何かお腹に入れられる物は無いかと探すのが寝る前の通例で。
見つかるものは前の夕飯で使った野菜の破片や僅かに残った穀物等の残り物が主だった。まだ真新しい食物に手をつけると使用人の中には黙っていてくれる者も多いが、以前〝この家の主達〟に知られた時は物置まで押し込まれ、酷い時は引っ叩かれた事もある。見つかると手伝いの人達にも管理が甘いと主達から嫌味が飛ばされると知って、あまり迷惑はかけられないと思い訪れる回数を少なくし、短い時間で食べるようにしていた。
だが稀に、余った白米で作ったおにぎり等の手軽に持っていけるものを、隙を見て残しておいてくれる人も中には居たのだ。「夜食用に置いたものが余ってしまいました。ご自由にどうぞ」と。毎日それをするとやはり消費していく量で気づかれてしまうらしく、申し訳なさそうにしているのを覗き見た事もある。
薄暗い厨の台の下に背を預けて、座り込んでは野菜くずや残り物、時々手にするおにぎりを黙々とお腹に詰め込んでいく。そして食べ終わると水を少し飲んで何時もの場所まで戻っていくのがその日の終りの出来事だった。
だが幼い頃、短い期間だけれど文字を教えてくれる人が居たのを覚えている。顔はもう霞んで覚えていないけれど、その人からこっそりと教えて貰う時間は、知らなかった事を知れた時間は心が躍り、眠りにつく前の楽しみになっていた。
暗い厨の中で、燈の灯りだけに照らされて、台に置かれた紙に文字が綴られていくのが奇跡や魔法みたいでわくわくと気分が弾んでいた。
教わった後、最初は書いた紙を残さない為にとその人が流し台の中で蝋に灯された火を使いそっと紙を焼こうとしていく。けれど、綺麗に綴られた文字が焼かれてしまうのは勿体なくて、「やいちゃうの……?」と尋ねたら男は困った表情で逡巡していて。
今でこそ朽名の元へ来てからやっと自由に枝を伸ばし始めたが、その時は成長の伸びが今よりも遅く、他よりも低い背で流しの縁から視線を覗かせていたのを、爪先も使って目一杯その中を覗き込んでいた。
傾けられていた蝋燭が戻されて灯が揺らめいていく。
灰になろうとしていた紙はくるくると筒状にまかれていき、そして藤の手の中にすとんと着陸した。しーっと男の口元に苦笑しながら指があてられるのを見上げては見つめ、二人だけの秘密を守る為に、自分も真似をして口に指をあてていたのを思い出す。そうして日ごとに教わる文字が増える度に、一枚、また一枚と宝物が増えていった。それを他の〝小さな宝物達〟が眠る箱へそっと隠しては悲しい時や苦しくなった時に取り出して眺めたりして。
けれど、そんな時間はあっという間で、ふとしたらその人は見当たらなくなってしまっていた。別れも言えないままでいたのが酷く悲しかったのをよく覚えている。そんな悲しさよりも、文字を教えてくれたその人の顔の方が覚えていたかった。燈の灯に僅かに照られされた顔は、今はもう霞がかかっていてよく思い出せない。
貴方が文字を教えてくれたから、この場所で〝温かいものの味〟をまた思い出せたのだとお礼が言いたい。
自分は両親の顔さえ覚えていない。共に食べてくれる人も居なかった。あの場所に一人居た時では得られなかった幸福感を藤が心で噛みしめる。
そう思いながら縁側に座り、掃除後の空気の入れ替えをしつつも煮詰めたり漬けたり調理したりと、貰った食材をどう料理に使おうかとわくわくとした気分を携えて本を読んでいる時だった。
ふと庭の隅に目を向けると一匹の身の細い狐が此方を伺っている。そろそろ冬に向けて木の実や果物も探しながら蓄える時期の筈。だが、上手く見つけられないのか食べ物が少ないのかは分からないがその狐は飢えているようで弱々しく、けれど生きる事を諦めようとはしていない眼で此方を伺っていた。じっと狐を観察するが、一向にその場を去ろうとはしない。やがてぱたりとその場に蹲った。
その様子が心配になり、本を置いて立ち上がると、今日食べる予定だった魚の切り身があったはずと急ぎ足で取りに向かった。
- 了 -