十月三十一日『ハロウィン』
部屋に漂う、鼻腔を擽る香ばしい匂い。マスターである藤丸立香は深く椅子に腰掛けて、その匂いと慣れた苦い味を楽しむ。朝からこの部屋を訪れてコーヒーを運んでくる人物は変わらず一人しかいない。立香は深緑のカップを口元に運びながら、もう一つの椅子に腰掛ける人物へ視線を向けた。濃紫の外套に貴族のような派手な服と黒い鎧。緩く纏められた長い髪、その毛先は毒と称する黒炎によって染まっている。
彼は責務を果たして退去したものの、本人曰く誤算で召喚された巌窟王モンテ・クリスト。巌窟王エドモン・ダンテスの別霊基だ。永劫の復讐者故、サーヴァントの忘却呪いから外れている彼の立ち振る舞いはカルデアにいた前の彼とそう変わらない。
今も前の彼から習慣を引き継いで、こうやって立香にコーヒーを淹れているのだ。
彼がいることの些細な嬉しさ。自然と口の端が上がっていくのを感じながら立香は再びカップを口元へ運ぶ。
視線に気付いた巌窟王が、伏せていた瞼を上げて立香を見つめた。
「飲んだのならば早く指令室に向かえ。おまえを心配したサーヴァントに扉を破壊される前にな。バレンタイン同様、今日はおまえにとって有意義な日となるだろうよ」
「そういえば、今日はハロウィンか……」
ハロウィンという言葉に肩を落としながら立香はモニターに視線を移した。地球の白紙化が起きても尚、カウントされている日付には今日が十月三十一日、ハロウィンであることを表示している。楽しめと言われても、とんでもない記憶しかなく、立香はコーヒーを口に含み、唸りたくなるのを我慢した。ハロウィンの惨劇を逃げ切っているサーヴァントに、微笑んで余裕を見せている男に、立香はふと思いつく。
「トリック・オア・トリート!」
ハロウィンお決まりの台詞を言いながら立香は手を伸ばして強請った。勿論、意地悪な笑みを作ることも忘れない。暫く視線を彷徨わせた後、確認するように「私か?」と訊いてきたので立香は頷いた。彼は何か言いたげな顔をしていたが、無視して手を更に前へ伸ばす。
「この私……霊基は暗きに過ぎると言ったはずだが?」
「でも、パーティーは好きでしょ。デ・ボンボン・オ・アン・ソー?」
フランス語で言い直せば、巌窟王は片眉を上げて「ほう」と、息を漏らした。立香は歯を見せて笑い、今度は外套の裾を指先で軽く摘んで引っ張る。
「これでキミは逃れられないから」
立香はにやける口元を手の甲で隠しながら反応を楽しんだ。自分より大人である彼の困った顔を見るのは、子供に戻ったかのように立香の心を弾ませた。始めは狼狽えていたが、立香の意図を察したのだろうか。巌窟王は「ああ、そうだな」と答え、椅子から立ち上がり、微笑みながら外套を掴む立香の指を解いていく。
「その言葉で言われたのであれば仕方あるまい。甘んじておまえの呪いを、この運命を受け入れよう我がマスター」
柔らかい、甘い声で言葉を紡ぐ彼。十字架を秘めた赫い瞳が、伏せた瞼と緩く横に流された前髪に隠される。巌窟王は立香の手を奪い取ると、腰を折って令呪へ忠誠のキスを落とした。熱くなっていく手と彼の期待に満ちた瞳に、立香は思わず苦笑いして自分の手を引き寄せようとするが、指を絡ませられて動かせなかった。
「いや、呪いって普通に悪戯するだけだから」
「どちらも本質は変わらん」
「やっぱりお菓子の代わりに甘い言葉を貰った、ということにして悪戯をやめようかな」
「自分の言葉に責任を持て」
「ただの悪戯なのに? んもう、わかったよ」
急に態度を変えて引かなくなった彼に、立香は渋りながら行動に移す。彼に目を閉じるように促し、それに巌窟王は応える。
立香はペンを手に持つと端正な顔に、青白い肌に容赦なく悪戯を施していく。シンプルだが彼の性格に似合わないものを。他のサーヴァントが目にしたら信じられないものを見たかのように、二度見するものを選んだ。賑やかな光景を想像して立香は口の端が緩んでいく。チェストから手鏡を取り出して「目を開けて」と促した。
巌窟王は鏡に映った自分の顔に眉を顰め、立香はその隣でにやにやと笑いながら彼の片頬を突っつく。頬には六本の線が引かれていた。
「キミの顔に猫のひげを書いてみました」
これが思い付いた悪戯だ。彼にしては意外で可愛らしく、一目で悪戯されたとわかるもの。
「ほら、キミって猫っぽいところあるじゃん。宝具名も虎だったし」
「それは前にカルデアにいた私の────」
暗い顔をして小言を言い始めた巌窟王に立香は「はいはい」と受け流した。
「ひげは悪戯、今日が終わるまでキミがこのままでいるのはオレからの呪いってことで。霊体化もダメだよ」
手鏡を取り出す際、チェストから一緒に取り出しておいた、煙草に似たパッケージのそれを彼の手に押し付ける。今は無くなってしまった昔の駄菓子を魔術で復元したものだ。巌窟王は目を丸くさせていた。
「悪戯はしちゃったし、お菓子も今あげたから」
復讐されないように、呪文を言わせないように「先手必勝」と、立香は片目を瞑った。
「コーヒーありがとう。あと、それ煙草じゃなくてチョコレートだからね」
そう付け足して立香は彼の背中を押し、「今から着替えるから」と、部屋から追い出していく。彼は未だ手元のお菓子に視線を奪われていた。
「成長とは、恐ろしいものだ……」
唸りながらそんなことを呟いていたが、立香は容赦なく彼を部屋から追い出した。
彼の言う通り、今日はハロウィンだ。忙しい一日が始まる。
十一月一日『諸聖人の日』
無事に毎年恒例のハロウィンが終わり、いつものように司令室で会議を済ませた後のことだった。
「藤丸君、ちょっと相談があるんだけどいいかい?」
マスターである藤丸立香は少女、ダ・ヴィンチに呼び止められる。天才でお茶目な彼女が言い辛そうにしていたので、立香は言葉よりも先に頷いた。
「大丈夫だよ、ダ・ヴィンチちゃん。どうかした?」
「伯爵……モンテ・クリスト伯爵の方ね。彼のことなんだけど、珍しくシミュレーターを借りにきたんだよねぇ。一日だけだったら私も気にしなかったけど、二日も借りたいらしいから」
「巌窟王が? 珍しいね」
ダ・ヴィンチは「でしょ?」と困ったように笑う。彼女の言葉を受けて立香は昨日の彼を思い出すが、そのような素振りはなかったので苦笑して肩を竦めた。
「念の為に確認してもらえるかい? 私も迷ったんだけど、コトがコトだから頼むよ」
暫くお互いに首を傾げ合ったが、結局変に勘繰るよりも本人に訊いた方が早いとなり、次の予定もあったので立香は手を振った彼女を見送ってお開きになったのである。
予定と予定の僅かな時間。
立香は確認すべく起動されたシミュレーターへ足を踏み入れた。
現実が仮想現実へ────。
白で無機質な場所は設定された記録の色に染まっていく。漂白された今を塗り潰してまだ見ぬ過去を造り上げた。
立香は目を慣らす為に瞬きをし、この世界を認識する。
欧州文化に乏しい立香でもわかる豪華な礼拝堂。だが、建物内部には所々に戦果の傷跡のようなものが残っている。
そこで彼は、巌窟王モンテ・クリストは聖なる者の前で祈りを捧げていた。立香の知らない言葉で、悲しみを含んだ声で。
今まで見ることのなかった、隠されていた一面に思わず彼の名前が零れる。吐息のような小さな声であったが、彼の耳には届いたらしい。巌窟王は「来たか」と立香を背中越しに一瞥する。
「キミが珍しくここを使うって聞いたから気になって。昨日はそんな様子なかったから」
「……気の迷いに過ぎない」
立香が礼拝堂の奥へ足を進めれば、彼は淡々と答えて外套を翻した。振り返ったその姿には迷いなど感じさせない。立香は胸を撫で下ろして話を続けた。
「昔のハロウィンってさ、日本でいうお盆なんだってね。だから祈りを?」
目を伏せて彼は「そうだ」と答える。
「死者が死者を送るのは滑稽なことだろうよ」
「そんなことはないと思う」
彼が抱いた負の感情を否定すれば、口の端を上げて小さく笑った。だが、すぐにその表情は消え去って深い溜息を吐くかのように口を開く。
「父と家族へ祈りを捧げていた」
答えを、想いを立香に告げた。
父と家族。立香は自分の記憶から彼の物語を掘り起こした。彼の言う父、それはルイ・ダンテスとファリア神父だろう。彼の人生を形成する二人の父。最も家族というべき存在だが、わざと分けられて使われた言葉達。物語をなぞるならば他にも家族に該当する者はいる。
エデ無き彼が、試練を課した彼が言った家族。これは────。
「巌窟王、ありがとう」
立香にとっては自然と零れた言葉であったが、彼にとっては容易に受け取れる言葉ではなかったらしい。目を見開いて顔に影を落とす。
「未練と決意、二つの霊基に別れたし俺…………否、これは私が背負うべきもの。おまえが背負うべきものではない。故に礼など要らぬ。この私にするな」
「それでも、ありがとう」
逃げようとする外套を掴んで引き止めれば、気まずそうに彼は顔を逸らした。言葉を探すように視線を彷徨わせ、逃れられないと悟った彼は鼻で笑う。
「カルデアにまともな聖職者がいれば懺悔はしただろうよ」
「ジャンヌや天草はちゃんと聞いてくれそうな気はするけど?」
「あれらはまともではない。片や鉄壁、もう片や強欲。どちらも度が過ぎる聖職者だ。おまえもわかっている筈」
眉を顰めて真面目に諭してくる巌窟王に、立香が軽く吹き出してしまえば眉間の皺が深くなる。そして、話を変えろと言わんばかりの視線を向けてきたので、立香は苦笑いして要望に答えることにした。
「ダ・ヴィンチちゃんから聞いたんだけどさ、この場所ってキミの記憶から?」
「些か再現に苦労したが、私の故郷にあった礼拝堂だ」
立香の問いに彼は視線を壁に、その向こう側に向ける。
彼の故郷──マルセイユ。辞書を引くように地名を思い出した立香は、扉へ駆け寄って飛び出した。
そして、目の前に広がった美しい青に息を呑む。日本で目にする青。それとはまた違う青に心を奪われ、我に返ってこの場所を思い出す。丘に聳え立つ城塞、その上に建てられた礼拝堂。
「もしかして、マルセイユのノートル・ダム・ド・ラ・ガルド寺院?」
少しばかり街並みが違うものの、資料で確認した彼の故郷に似ていたのだ。返事が待ち切れずに振り返れば、ゆったりとした足並みで追い掛けてきた巌窟王が「ああ」と小さく微笑んでいた。太陽の光を受けて煌めく海が眩しかったのか、それとも過去を思い出した懐かしさからか、彼は目を細める。
「私が生きた時代はまだおまえの時代のような寺院は建ってはいなかった。あったのはこの礼拝堂だ」
エドモン・ダンテスとしての過去を語る男に、立香は金色でも赤色でもない、彼の失った色を見たような気がした。
「俺も海に出る際は祈りを────よそう、過去の事だ」
立香は興味津々な眼差しを彼に向けていたが、それはすぐに気付かれる。耐え切れなくなった彼が頬を少しだけ赤く染めてあからさまに視線を逸らすと、話を切ってしまった。
「もっと聞きたい」
そう駄々をこねた立香に巌窟王は「終わりだ」と告げる。
「ミーティングの時間だろう。後輩の元に早く行ってやれ」
苦笑しながら促してきた彼に、立香が口を尖らせながら渋々頷けば、同時に世界が崩れていく。過去の色は解かれて白い現実へ。
いつものシミュレーター室に戻り、立香は改めて彼を真っ直ぐ見る。
「邪魔したらいけないかなって思ったけど、ここを見れて良かった。キミを知れて良かったよ。また今度、続きを聞かせて」
いつも立香自身のことばかりで、彼のことを知る機会は少ない。少しだけでも知れて嬉しかった、と今できる精一杯の笑みと言葉で彼に返す。
「それじゃあ、オレ行くよ」
手を振って部屋から去ろうとすれば、「マスター」と呼び止められ、立香はもう一度彼を見た。表情から読み取れたのは迷いと緊張。立香は思わず息を呑む。
「明日はおまえに望みたいことがある」
重い息を吐き出すように、そう願った彼の瞳にはどこか悲しみの色を含んでいた。断る理由などなく、立香は告げられた時と場所に頷いた。
十一月二日『死者の日』
約束された時間。立香は巌窟王が再現した世界へと足を踏み入れる。
そして────。
視界に広がったのは底知れぬ闇。
鼻腔を掠めたのは潮の匂い。
鼓膜を震わせたのは波の音。
肌で感じたのは冷たい夜風。
ここが、彼が選んだ世界だった。
立香は襲ってきた孤独に体を震わせた。足が竦んでしまうが引き返すわけにはいかない。幸いにもこの世界は完全な闇ではなく、目を凝らせば僅かに光を捉えた。
暫くすれば目は闇に慣れて、今いる世界の輪郭を形作る。確認できる範囲は僅かではあったが、城のような建物が傍にあることだけはわかり、立香は更に周囲を見渡しながら彼を、巌窟王を探した。
すると、奥の方で黒に黒を重ねたようなものだが微かに揺らぎが見えた。それは間違いなく炎。闇に支配されず呑み込まれることなく燃え盛る復讐の炎だった。彼だと確信した立香は炎を、唯一の光を頼りに闇の中を覚束ない足取りで歩いていく。途中、小石に躓きながらもひたすら彼を目指し続けた。
足を進めていけば揺らぎは大きくなり、身を焦がすような熱が肌に伝わってくる。
「巌窟王!」
これ以上近付けないと思った立香は彼の名前を叫んだ。
目の前で振り向くように炎の中で影が動いた。だが、彼の姿を確認する前に炎は消え、影の輪郭は闇に溶けてしまう。熱は消えたものの姿と気配さえも消え去ってしまい、どうすればいいのかと戸惑っていれば、首筋に感じた熱い吐息に立香は肩を跳ねさせた。
「立香、待っていた」
「キミとの大事な約束だから」
「……そうか。此方だ」
影の輪郭と衣擦れの音から手を差し伸べられたことはわかり、立香は暗闇の孤独から逃れようと、縋るようにその手を掴んだ。彼なりに抑えてはいるのだろうが、立香の冷え切っていた指先を一瞬で熱くさせてしまうほどその手は熱かった。
彼に導かれるがまま、足を進めていけば崖の手前で止まる。先程よりも大きく聞こえてくる波の音、足元で感じる波の飛沫。
立香は自分が海の前に立っていることを理解した。昼間のように全てを見ることはできないが、地から足を離してしまえば音を吸収してしまう、孤独な海が目の前に広がっているのだ。
「怯えた顔をするな。案ずることはない、私がいる。この身が燃え尽きるその時まで、私はおまえの炎だと言った筈だ」
暗闇のせいで目が利かない立香とは違い、巌窟王の眼は全て見えているようで、それが悔しくて、虚しくて、むかついた立香は口を尖らせる。
「オレの炎なら暖めてよ。寒いんだ」
その甘えは「子供だな」と笑われ、外套の中に引き寄せられる。子供扱いする巌窟王に、立香は反抗して彼の腹を肘で小突いてみるが鎧に阻まれ、更に笑われてしまった。仕方なく肩の掛けられた外套の重みを受け入れる。
「キミが詳しく教えてくれていたら、ちゃんと準備した」
「……悪かった。何せ思いつきだ」
内側に籠った熱さが心地良く、熱を求めて立香は擦り寄った。隣の体が少し跳ねたような気がしたがお構いなしに体を密着させる。
「それでキミの願いって何?」
眠りを誘うような暖かさに抗いつつ、彼が昨日言った願いについて訊けば「手を出せ」と、言われて立香は大人しく従った。
手の平を上に向ければソレを乗せられ、予想外の重さに落としそうになり、慌てて持ち直す。ソレは片手に収まる大きさではあるが重みのあるもの。肌に当たっている底は奇妙な形をしていた。
何を乗せたのかと、何をさせるつもりなのかと、彼を見上げてみるが反応は無く、まだ何も言う気はないらしい。
立香は小さく溜息を吐くと、慎重にもう片方の手でその形を確かめていく。上は全体的に丸みがあって半球に近い。下へと手を進めれば横に並んだ二つの大きな穴、その下には三角形に似た穴もある。穴の下へと触れれば小さな凸凹が横に二列続いていた。
これらの情報からある答えに辿り着き、立香は血の気が引いていく。
彼が立香に行った紛れもない事実に手が微かに震え始めた。問いただせねばと思い、乱れ始めていた呼吸を無理矢理整え、恐る恐る口を開く。
「これって頭蓋骨?」
「所詮、魔力で作り出した紛い物に過ぎん」
緊張から息を呑み、立香は落とさないように両手で抱え直した。わかってはいたことだが、改めて告げられると動揺を隠せない。
「オレはこの頭蓋骨をどうすればいいの?」
何故渡してきたのか考え、わからず、答えを求めれば彼は穏やかな声で話し始める。
「此処にはおまえが想像する墓などない。海底こそが墓だ。故に、その頭蓋骨をおまえの手で葬れ、投げ捨てろ」
願いと言いつつもそれは命令に近く、立香は彼の願いに言葉を失って躊躇った。いくら彼の願いといえど、簡単にできることではない。
「……先程も言ったが紛い物だ。おまえがそれに罪悪感を覚えることはない」
気を使って付け足すように言われた言葉は懇願。彼は真意、言葉の奥に潜む感情を隠していた。
それを崩すべく、立香は手元にある頭蓋骨をもう一度、確かめていく。指でこめかみの凹凸を、鼻筋を、本来であれば唇がある場所を触れながら目を閉じて、隣へと神経を集中させた。
彼は────息を殺している、感情を殺している。言葉はなくとも、暗闇であろうと、長年時を過ごしてきていた経験からわかることがあった。立香は深く息を吐いて瞼を上げる。
「この頭蓋骨、キミのでしょ?」
「何故、そう思う?」
尋ね返してきた声はやけに落ち着いていた。動揺を、本当の感情を悟らせまいと繕っているかのように。
「ハロウィンの時、キミが使った呪いって言葉が気になって皆に聞いたんだ。今日は死者の日、死者を迎え称え送る。だけど、キミだったら迎えず称えず、だけど送ってほしいんじゃないかなって思った」
口を閉ざして巌窟王は身動ぎする様子すらない。立香が言葉を選んで「あの時もそうだった」と小さく呟けば、彼は僅かに呻いた。
「それから……今のキミが、キミ自身を送るならシャトー・ディフを選ぶかなって。だって、ここはキミの始まりの場所だから」
闇の中だろうと構わずに、目を逸らさず真っ直ぐ見つめれば、彼は皮肉げに笑う。
「やはり、おまえには敵わんな。そうだ、そうだとも……此処は無知で愚かなるほど純粋だった男が死に、私という復讐鬼が生まれた場所だ」
己を嘲笑う復讐鬼に立香は「巌窟王」と呼び掛ける。エドモン・ダンテスでもない、モンテ・クリストでもない彼の名前。それに対して言葉が返ってくることはなかったが、立香は諦めずに続けた。
「回りくどいことをしなくても、オレはキミに祈りを捧げた」
ここまで抱いた感情を言葉として吐き出せば復讐鬼は息を呑む。
二人の間で時が止まった。
鼓動さえも止まってしまったような沈黙が世界を支配する。
暫くして、まるで告白のようだと思い至った立香が恥ずかしくなり、それを誤魔化すように笑って「少し悪趣味だよ」と付け足せば、隣にある体が少しばかり跳ねて微かに震え始めた。同時に、焦がすような熱が徐々に戻っていく。
「────クッ」
巌窟の王たる彼の哄笑。それはかつて己を閉じ込めていた夜の海に響かせ、隣にいた立香の鼓膜を震わせた。
「どうやら私が間違っていたようだ!」
高々と巌窟王は叫び、立香の手から頭蓋骨を奪い取ると炎で燃やし尽くした。
火のついた灰は空に散らばり、立香は顔を上げて追い掛けるが闇に溶けて消えていく。
「いいの?」
立香が尋ねれば肩から重みが消えて、傍にあった熱が離れた。
「構わぬ。おまえがあってこその願い故に」
目の前が明るくなったかと思えば、足元から黒炎が舞い上がり、襲ってきた熱風に立香は腕で咄嗟に顔を覆い隠した。腕の間から炎の中に佇んでいる彼を見つめる。
炎に包まれた巌窟王の姿が変わり、霊基破損した姿でも、伯爵としての姿でもない────火の王としての姿へ。
「この願いは全てが終わった後、再びおまえに望もう! 聖杯などという願望機では叶えることはできぬ、おまえだけが叶えられる私の願いだ!」
彼は歓喜の声を上げて凶悪ともとれる笑みを浮かべる。瞳の奥に隠された十字架が、禍々しくも神聖にも見える瞳が立香を見下ろしていた。それに臆することなく、目を離すことなく立香は強く頷いた。
「わかったよ、アヴェンジャ―。その時が来たら、オレは誰も知らないキミの最期に祈りを捧げるよ」
立香は戦いでぼろぼろになった手と彼を繋ぎ止めている令呪に視線を落としてあの日を思い出す。
「だからキミは、最後までオレが灯さなかった、選ばなかった炎で在り続けて」
ノウム・カルデアのマスターである藤丸立香は空のような青い瞳に復讐鬼を映しながらそう微笑んだ。