無題 ねぇ、貴方かわいそうにね。
ずっとずっと昔、今よりもずっと髪の色が黒かったころ。村に住んでいた年上の少女から、急にそんなことを言われたことを覚えている。
貴方はベータだから、運命がいないのよ。
そう言って、冷めた顔で笑う。彼女のことが、自分は少し怖かった。その頃の自分はいまよりも幼くて、覚えたてのポケモンバトルに熱中してのめり込んでいた。あと少しで、冒険に出ることが赦される。そんな年に、出会ったのが彼女だった気がする。───、今思えば分かる、あれは生まれて初めて人から向けられた羨望だったのだ。人口の少ない村では、根も葉もないうわさがいつも飛び交っていて。その話題の一つには、周囲から腫れもの扱いされていた彼女がいた。
噂が流れる前までは、共に遊んでいた気がする。パートナーのキモリと共に、冒険に出るのだと夢を語っていた。けれど、いつからか、彼女は同年代から遠巻きにされるようになっていた。
そう、村で唯一の、オメガと言われたその子……。
12歳になった時、村を出るトレーナーの中に彼女の姿はなかった。
その希少性と、危険性から、冒険に出ることを禁じられてしまった。
彼女は泣いたという、怒り、不平不満を大人にぶつけたと。それでも、彼女は、泣く泣く冒険をあきらめた。
オメガには、常に危険が付きまとう。
オメガである彼女を、まだ育っていないか弱い手持ちがどう護ることができるだろう。
それからだ、彼女がおかしくなったのは。夜に家を飛び出したり、目に見えない空想の友人と遊んだりするようになった。
誰かが言った、彼女は壊れてしまったのだと。
どんなに隠しても、封鎖的な村ではすぐに噂が流れてしまう。彼女がオメガということは、村の大人たちがみんな知るところで、彼女と仲の良かった子どももまた、なんとなくその話を知っていた。
だから、なんとなく、仲の良かった子も、彼女を遠巻きにした。オメガであることがわかってから、彼女はすこし近寄りがたかったし、そして未知のものが恐ろしかった。きゃらきゃらと笑いながら軽やかに走る、彼女からあまり香りがすると言い出す者さえいた。
自分が彼女と森の中で会ったのは、
手持ちのガーディと一緒にポケモンバトルの真似事をしている時、傍の茂みから飛び出してきたのが彼女だった。手持ちのキモリと追いかけっこをするかのように、きゃらきゃらと笑いながら走る彼女と、自分はタイミングが悪くぶつかってしまった。
もつれあい、もんどりうって転がる……。その時、自分は彼女の下敷きになった。手足を投げ出し、倒れる自分の上で彼女が呻き声を上げる。この時、上に載っているはずなのに、彼女はとても軽くて、それがとても不気味だった。
木漏れ日の中、逆光で彼女の表情は見えない。けれど、爛々と輝く目だけは分かった。
「ねぇ、分かる?」
自分の上で、彼女は唐突にそう言った。──、何か、期待されているようだった。
伸し掛かったまま、彼女はしきりに手をパタパタと動かした。傍で、ガーディが吠えている、そんな声も聞こえないようで、彼女はしきりに……、何か、匂いを届けようとしているようだった。
自分は、噂を思い出した。彼女からは、甘い香りがするという……。自分は、その匂いが分からなかった。
「───、なぁんだ」
首を横に振れば、彼女はつまらなさそうに呟いた。そして、言われたのが……。
ねぇ、貴方かわいそうにね。
まるで鋭い刃のように、一生背筋に染み付く……。いたいけな子どもの、無邪気な侮辱だった。
貴方はベータだから、運命がいないのよ。
何も知らなかった、何もわからなかった、あの頃。ただの子どもだった自分に、暗い影のように落ちてきた女の子の言葉。
あの響きを、ボクは今でも覚えている。
この世に存在する、運命という、抗えない何かを知らずに生きるボクに。僅かな翳りと、負い目を与えるような、あの日の女の子の言葉は。
運命を呪い、自暴自棄になった人間から、無知で自由だったボクに与えられた【呪い】だったのだと──、今でもそう思っている。
ポケットモンスター、縮めてポケモン。この星で共存する人ならざる彼らをパートナーとして生活する人間たちには、男や女である以前に、第二性と呼ばれる性別が存在している。何時の頃からか、アルファ、ベータ、オメガと名付けられ、世界共通語となった特殊な性。これらは、人類とポケモンがより深く通じ合っていた頃の名残であるとも言われている。
アルファとは、特に支配者階級や、優れた能力を持った人物の中に現れやすいと言われている性である。著名な科学者や大企業の社長は軒並みこのアルファであるし、遺跡から出土された支配者層の墓を解析してみても、アルファの痕跡が見つけられている。すなわち、生まれもっての才人、それがアルファであり、彼らは他の第二性を屈服させることが出来るフェロモンをその身から発することが出来る。
ベータとは、最も数が多いとされる、第二性の持ち主達だ。彼らは身体的特徴も一般的で普通の人間であり、アルファや、オメガの発するフェロモンの影響を受けにくい。
そして、オメガとは。───、他の二つの性の一番最下層に位置する、差別主義者たちが孕み腹と謗る性を持つ人々の事だった。その謗りの通り、オメガと呼ばれる性の人々は、例え男であってもヒートと呼ばれる発情期の期間にアルファやベータから性交をされれば子を宿すことが出来る。彼らは、人口的に見るとアルファより数が少なく。人々の中には、必ず子を宿す彼らを神聖な物として扱うこともあったそうだが。
歴史的に見てみると、オメガに対する扱いは総じて厳しいものばかりだ。
オメガは、子を宿す道具として、奴隷じみた扱いを受ける事が少なくなかった。人権を与えられず、アルファの権力者達のアクセサリーのように扱われることが多かったし、それこそがオメガの幸せであるという倒錯的な思想が今でも存在する。オメガ達は生きる上で必要な生活や住居、仕事に対する不当な差別も完全に消えたわけではない。
どの地方においても、オメガに対する地位向上の運動が起こるようになり、オメガ保護法が施行されはしたものの……。
それでも未だに多くの人々の中に、オメガに対する差別は残っていると言っていい。
そう。それは、パシオにおいても。
呼吸と同じように吐き出される、差別の目は残っている。
それを、意識させたのは……。発端は、ある夏の一日。
一人のベータに対して、禁薬とされた【オメガ転化薬】が使われたことに始まる。
それは、熱る頬を冷ましながらの、友と別れた帰り道のことだった。
カブにとってのパシオの友とは、パルデア地方のアオキのことを指す。二人の仲の良さは、パシオのトレーナーたちにも知られるようになっていて。特にカブと昔から交流のあるガラルのメンバーからは、ソイツとばっかり!!と不満そうにされるほどだった。
カブ自身、なぜこんなにもアオキと会うのが楽しいのだろうかと思う。ライヤーが開催した若手との交流会の中でアオキと出会い、バトルや日常に対する正反対ともいえるそのスタンスを聞いた。もしかすれば、彼との交流はそこで終わりになっていたかもしれない。
けれど、カブは、アオキの普通を好む正反対な在り方を面白いと思ってしまった。
何に対しても、リスペクトしようとするのがカブの在り方だからかもしれない。けれど、アオキの在り方……、あの平凡普通を愛しながらも、鍛え上げられたポケモンたちの様子に感銘を受けたという部分もある。
そう、アオキは強いのだ。仮面のトレーナーたちを相手に、ピンチに陥ったカブを助けてくれたアオキとノココッチは、パルデア四天王であることを疑いようのない強さを放っていた。
アオキは強い、普通という言葉で包み隠した非凡さがまぶしいほどに。一度マイナーリーグ落ちを経験したことのあるカブとは違い、彼のバトルスタイルは勝ちを貫いてきたのだろうという確信が持てる。
きっと、そんなことをアオキに伝えても……。
「はぁ……、普通に戦っているだけですが」
と、なんのことでもないようにそう言うのだろうが。彼の言葉からうかがえる『ふつう』は、「普通に戦って、勝っただけ」というよりも「普通に戦って、そちらが負けただけ」というより相手に辛酸を嘗めさせる表現なのだろうが。
カブは、そんなアオキのことを好ましく思うのだ。
そんなアオキとの関係は、彼のホウエン好きという所がとっかかりになり、交友が続いていると言える。出会って数日にして、一緒に温泉にまで行ったのだから、カブにしてはなかなかの大胆さだったのではないかと思う。
そも、常々から誰かと温泉に行きたいと思っていたのだ。もちろんカブにはガラル地方の友人たちがたくさんいるのだが、風呂文化のないガラルの面々を誘うのは少し気が引けたし。ピオニーあたりは、きっと喜んでついてくるだろうが、あの男に風呂の作法を教えるのは正直骨が折れると思った。
そんな中で、アオキは得難い存在だったのだ。歳も近く、若いガラルの面々よりも、アオキは話しやすい存在であった。もちろん、友情に優劣はないものの……。
「アオキくんと話すと、楽しいね、」
「自分もです」
カブがそう言えば、アオキは黒い目を細めて仄かに笑う。その柔らかい表情は、カブの心を少しだけくすぐったくさせる。
迷惑をかけていないかと、一度、彼の同郷のトレーナーから問いかけられたことがある。チリという,颯爽とした女性、彼女が語るアオキは、少し難儀な性格をしているように思えた。
正直……、それはカブが知らないアオキだった。アオキは、カブがおすすめのトレーニングを伝えれば「やってみる」と言ってくれるし。カブが望めばポケモンバトルもしてくれた。何より、カブとの会話を楽しんでくれているようだった。
だから、チリの言う、難儀で、融通の利かない男は、カブの知らない存在だった。
チリの言葉を反芻し、どうしてアオキはカブに対して甘いのだろうと思う。スマホロトムを操って、当然のようにカブの予定を押さえていく。次の予定を語るその横顔を見ながら、カブはついアオキに問いかけてしまったのだ。
「アオキくんは、どうしてボクに優しいんだい?」
ホウエン料理が楽しめる居酒屋の個室……、少し酒も進んでいたかもしれない。酒精は舌を軽くして、気になっていることをぽろりと零した。
当然、若干の間が落ちる……。カブが自分の問いに気まずさを感じる前の数秒ほど。
「それは……、自分が、カブさんのことを好いているからですね、」
それほどの間のあとに、アオキはまるでなんてことないようにカブに対してそんなことを言った。
「え、……?」
「自分は、貴方に恋愛感情を抱いています」
「……、えぇっ、」
当然、カブはその言葉に驚いた。──、驚いて、彼は酔っているのかもしれないとも思った。けれど、アオキの頬に酒気は無く、その真剣なまなざしに思わず魅入ってしまう。
心臓が、どきりと跳ねた。恋をしたことのないカブにとって、アオキの言葉はあまりにも情熱的だった。
目を覚まさせてやらないと、とも思った。こんな自分に、彼はもったいのない……、アルファだ。
そう、アオキがアルファであることは、その恵まれた体格や強さから考えて当然のことだった。この世には第二性というものが存在する、研究が発展したガラルを拠点にしているカブは、その性をよく理解していた。そして、すこしの、固定観念のようなものもあった。
「ボク……、ベータだよ? 君はたぶん、アルファだよね。こんな、おじさんの、ただのベータに、」
「ただの、ベータじゃありません、」
アルファの恋は、アルファ、もしくはオメガと。ベータは、ベータ同士が惹かれ合うことが多い。───、研究が進んだガラルであっても、それを信じている者が多い。
だから、どもりながら、気の迷いを正そうとしたカブの言葉を、アオキが強く遮ったことは意外だった。
「貴方は、この世にただ一人だから、」
カブの手を握って、アオキはひどくあたりまえのことをそう言った。その言葉は本当にシンプルで、だからこそ、カブの心に強く響いた。
それからのことは、少しうろ覚えである。
アオキは、カブに交際を迫るようなことはしなかった。終始、言葉で、カブに想いを伝えてくれた。たとえ、フェロモンを発していたとしても、カブにはそれを感じる能力がないのだから当たり前なのだが。
『貴方との日々が、自分にとって特別だ』
『赦されるならば、貴方と恋愛関係になりたい』
『友情で終わらせるには、自分は貴方に恋している』
そんな、情熱的な言葉を紡ぎながらも。
『諦めろというなら、諦めます』
『無理強いはしない』
そう言って、アオキは決して、カブに選択を強いることをしなかった。どこまでも真摯に、カブの意思を尊重してくれたのだ。そう、この時のアオキを、カブはこれっぽっちも怖いとは思わなかった。強さに差はあるが、アルファという存在は威圧感を放つ。ガラルリーグのアルファたちと交流があるカブは、身をもってそのことを知っていた。
「考えさせてほしい……、」
アオキが、まったく怖くなかったから、カブは素直に言葉を口にすることができた。
そんなカブの態度を、アオキは決して非難することなく。ただ、優しく笑って。
「わかりました」
そう、言ってくれたのだ。……、お店を出て、分かれるその時まで、アオキはカブに優しかった。それだけで、どうにかなってしまいそうだった。
どきどきと、心臓が高鳴っている。
彼と別れた帰り道、天には煌々と月が照ってカブを見下ろしていた。夏の夜風は生ぬるく、カブの肌を嬲っていく。跳ねる心臓が不快だった、汗ばんでも香ることのない身体がときめいていることが歪に思えた。
「どうしよう、」
どうしても熱る頬を押さえながら、カブは夜道に一度立ち尽くした。周囲には人影はなく、どんな奇行をしてもきっと誰も見ていない。そんな静かな夜の世界で、浮かれていることがとても愚かに思えて。
心臓を蝕む、過去の影が低い声で囁いた。
『ねぇ、貴方かわいそうにね』
ひゅっと──、息をのむ。そう、あの日も、暑かった。
頭の片隅に巣食った声が、何も感じない自分を嗤っている。お前は運命を知ることがないのだと、せせら笑う少女の亡霊が。
嗚呼、ダメだと思った……。アルファの隣には、美しいオメガが相応しい。
そう、あんなに熱い愛を宿す彼には、同じだけの恋を返せるオメガが相応しいのだ。
「……、うん、そうだ、」
水をかぶったように、浮かれていた心臓が凪いでいった。年甲斐無く、なにをはしゃいでいたんだろうか。ぽっかりと胸に空いた穴を感じながら、それを喪失と気づくことなくゆっくりと歩き出す。
次に会った時、はっきりと断ろう。
そんな決意をしながら、ポケモンもつれずに歩く夜道──、それが、いけなかった。
突然、仮面をかぶった集団がカブの前に現れた。
それは、ブレイク団がつけているものに似せた、けれどもいっそう悪趣味な仮面で。それを被った男たちに囲まれた時、カブはすぐに反応することができなかった。
「カブ選手ですね、」
「っ、マルヤクデ」
彼らはそう言って、カブが返事をする前に、カブの太ももに向けて何かを撃った。ポケモンバトルであれば、良かったのかもしれない。カブがモンスターボールを投げて、ボールの中からマルヤクデが登場する僅か数秒。その僅かな時間を狙った彼らには、ポケモンではなく、カブに対する悪意が滲み出ていた。
「ぐっ、」
カブの足の太もも、そこに走った激痛に、視線を向ける。そこには、妙な注射器が突き刺さっていた。中身の薬剤が、既に注入されたのだろう。
小さな小さな、小型ポケモンに使うような小さな注射器。
───、けれども、効果はすぐに表れた。
「っ、ぐっ、……ぁが、ぁ、あ!!!」
内臓がひっくり返るような、焼けつくような痛みに耐えきれず地面に崩れ落ちる。カブからの指示を待っていたマルヤクデは、苦悶の表情を浮かべるカブを振り返り、その身体にとぐろを巻きつけながら仮面の集団に向けてカチカチと牙を鳴らした。
ベテラントレーナーの、鍛え上げられたマルヤクデの威嚇に、仮面の集団は特に反応を示さない。それどころか、ねっとりとした視線を苦しむカブに向けている。
彼らの視線にも気づかないほど、激痛に苦しむカブの額には脂汗が噴出していた。その、尋常ならざる姿に、マルヤクデはカブから離れることができない。仮面の人間たちを睨みつけたまま、身体を大きく見せて威嚇を続ける。
「ぃ……、、、!!!」
そのうちに、カブの悲鳴が少しだけ変わってきた。その身体を包むのは、燃えるようない熱さ……。内臓をかきまぜられる激痛と、焼け焦げそうな熱さにのたうちまわる。
そんな、苦しむカブを見る……。仮面の人物たちのスマホロトムが鳴った。
「おぉ、5分……、生き延びた」
「すばらしい、適応した」
「嗚呼、まさしく神の御業」
「オメガになるぞ、」
「オメガになるぞ、」
「オメガになるぞ、」
仮面越しでもわかる、嬉々とした気配が広がる。それは、祭りの熱狂にも似た、狂気で……。
くつくつ、くつくつ、喉を鳴らしながら、不意にモンスターボールから次々にオーベムを取り出した。この状況下で、どこか不吉な意図を帯びたそのポケモンたち……。仮面の存在が、マルヤクデに向けてそれを、繰り出そうとした時だった。
「……、………!」
誰かが、カブと仮面の集団の間に割って入った。帽子をかぶったその人物は、リザードンを繰り出し、その鍛え上げられた竜は赤い炎を纏って男たちをけん制した。
戦わずとも分かる、圧倒的な実力に仮面の集団が初めて動揺を見せる。睨み合うこと数秒、暫くして、仮面の人物が言葉を発した。
「……、良い、また機会はある」
どこか機械的な声で、それらは喜びながら闇の中へと姿を消していく。テレポート、オーベムの技で姿を消していく彼らを追いかけることはできない。
帽子のトレーナーは、リザードンを出したまま、マルヤクデに守られたカブへと近づいた。トレーナーは無言だったが、マルヤクデはその青年が敵でないことを感じ取ったのだろう。そっと、カブから離れて、もはや声も上げずにぐったりしているカブを見つめている。
「……、………!」
帽子のトレーナーは、カブに触れ、その身体のあまりの熱さに驚いたようだった。すぐにカブを仰向けにしようとして、その時、何かに気づいたように顔を歪める。
そう、この世界には第二性が存在する……。言葉はなくとも、圧倒的カリスマ性を放つ青年がアルファであることは間違いなく。そして、ベータであるはずの、カブの身体からは。
ほのかに、舌に蕩けるような、ほろ苦くも甘い香りが立ち上っていた。
みたいな、所からはじまる、アオカブのオメガバが書きてぇ_(:3」∠)_