チョコと妬心 アオキにとって、バレンタインとは、海外で風変りにねじ曲がった風習が逆輸入された、チャンプルタウンの物珍しいイベントでしかなかった。
本来パルデアでは、バレンタインは愛する人に贈り物をするという、恋人同士のイベントという意味合いが強いのだが。こと、チャンプルタウンにおいては、チョコレートを贈りあうという奇妙な催しが行われる日というイメージだ。
それは、他の街よりも店舗数の多い、商魂たくましい飲食店の猛者のなかで。ホウエン帰りの宝食堂の店主の、『あっちのバレンタインはチョコレートを贈りあうんですよ』という言葉にインスピレーションを受けた者たちが『だったら自分たちの街でもやろう』と沸き立った結果なのだが。
「アオキさん、これ、義理で~~す」
そういったイベントから縁遠いアオキにとっては、バレンタインは義理という名目で美味しいお菓子を御相伴に預かれるラッキーな催しであり。顔出しNGではあるものの、ジムリーダーとして、そこそこ知名度のあるアオキに対し、公然とささやかな贈り物ができる都合のいい日としてチャンプルタウンの人々には定着してはいたのだった。
お返しの心配もなく、お菓子を貰える日でしかなかったバレンタイン。カントーやジョウト、ホウエンで育まれたお菓子文化が、ことパシオにおいても逆輸入されているとは……。
「アオキさんも、どうぞ」
いつものように、パシオ内にあるパルデアリーグのオフィスに出社したアオキに対し、顔見知りの事務職員が小さな包みを差し出してきたのだ。それは、ラッピングされたピンク色の箱で、見れば彼女の手には大きな紙袋が下げられていて、彼女が手渡してきた小箱と同じものが紙袋の中に入っているのが分かった。
「これは……?」
「ジョウトのバレンタインだそうです。クッキーですが、いっぱい作ったので、もしよければ」
「はぁ、」
どうも、と言いつつ。特に抵抗なく、アオキはその小箱を受け取る。手作りクッキーが入っているのだという、ピンク色の小さな包みを、アオキは無感動にしげしげと見た。
なるほど、今日はバレンタインであるらしい。目の前のこの女性はパルデアの出身だそうなのだが、多文化が交わるパシオで異国の文化に触発されたらしい。
なるほど、パシオでも、ジョウトのバレンタインが流行っているのか。
日は美味しい甘味が売られているかもしれないと、そんなことを考えていると、再び女性から声を掛けられる。
「チャンプルタウンでは、以前から取り入れられていたとか……、」
「まぁ、そうですね……、」
「ふふ、知りませんでした。次のバレンタインでは、チャンプルタウンに行ってみますね」
そう言い残すと、女性は機嫌良さそうに去っていく。アオキは特にそちらに視線を向けることなく、再びデスクの方に向き直った。特に感慨もなく、手元に残されたクッキーの小箱を鞄の中に落としながら。パソコンを立ち上げて、カタカタと書類仕事に励み始める……。
恋人たちのイベントという、つい最近まで最も縁遠い存在でしかなかったバレンタインを。アオキはさして、自分事としてとらえることは無かった……。恋人がいるにも関わらず、だ。
そういった情緒に乏しいアオキにとって、恋人のイベントなのだと諭されても、自分がバレンタインになにかを贈るというふうに意識が向かない。むしろ、齢のいったおじさんである自分たちが、そういった催しに興じるのは、少しばかり気後れするかもしれないと思った。
自分が、というより、むしろ相手の方が……。ことあるごとに、おじさんであることを口にする彼だ。
チョコレートも、薔薇の花も、アオキの心に響いたことがないから。だから、バレンタインの贈り物は、アオキにとって自分事ではなかった。
「(せめて、良いワインでも買って帰りますか……)」
そんなことを考えながら、アオキは仕事に勤しむ。夜になれば、定時になれば、パシオに居る恋人に会えるのだ。自分よりもずっと真面目に、パシオで仕事に励む彼だ。早く帰って、彼の話を聞きたい……。彼の話を聞きながら、穏やかに過ごす夜に浸りたい。
そんなことを考えながら、今日のノルマをこなすアオキは、職員から貰ったバレンタインのプレゼントのことなどすっかり忘れていた。
広い庭つきの一軒家は、恋人が自分の手持ちたちのために用意したパシオでの居場所だ。
スーツの上にチェスターコートを羽織り、購入したワインを片手に呼び鈴を鳴らせば、少しの間を開けて目の前の扉が開いた。
帰宅してシャワーまで済ませたのだろう、ラフな格好をした恋人が、三白眼ぎみの目を大きく開いてアオキを見つめる。
「お帰り、アオキくん!」
そう言って、両手を開けた恋人を、アオキは宝物のように片手で胸の中に抱き込んだ。
「ただいまです、カブさん」
自分より年上の男、アオキにとっては小柄で凛とした恋人を抱きすくめ、服越しにその温かい温度を甘受する。玄関で暫く抱きしめあったあと、名残惜しそうにアオキはカブを開放した。
「んっ、何買ってきたんだい?」
「ワインを。……、バレンタインなので、」
「わぁ、嬉しい」
左手で手にした細長い包みに興味を示すカブに対し、アオキはほのかに目元を細めながらそう告げる。バレンタイン、と口にしたのは。アオキなりの、恋人に対してのアピールだった。もちろん、成熟した大人であるカブは、すぐにアオキのささやかな愛情に気付いてくれる。
「ありがとう、」
するりと、ワインを受けとったカブが、嬉しそうにはにかむ。そんな恋人の頬に口づけをすれば、カブからもお返しのように接吻を去れた。
「今日がバレンタインなんて、気づいていたのかい?」
「職場で話題になってましたので」
カブの問いかけに答えながら、アオキはコートを脱いでハンガーにかける。鞄を置き、ネクタイを緩める間に、カブがキッチンから栓抜きをとってきた。
「デリでいろいろ買ってきたけど、足りそうかい?」
「……、はい」
今日は外食ではなく、先に仕事が終わるカブの家でデリを食べる約束になっていて、ローテーブルには、サンドイッチやキッシュなどの、腹持ちの良さそうなものや、ローストビーフなどが並んでいた。
それらを見たアオキの腹が、ぐぅっと鳴る。その音に気付いたカブは少し笑って、アオキをテーブルに誘った。
ワインの栓を手慣れた手つきで抜いたのはアオキで、深い赤色のワインをカブのグラスに注ぐ……。
食事をしながら、主にしゃべるのはカブの方だ。今日あったこと、ポケモンたちのコンディション、どれだけトレーニングができたか。カブの言葉に対し、アオキはさして反応をかえすことはなく、もくもくと食事を頬張る。それでも、カブは楽しいらしい。
ヨクバリスのように頬を膨らませながら、サンドイッチを頬張るアオキを見上げながら。
「このワイン、美味しいね」
グラスを転がして、ワインを一口。こくりと嚥下して、柔らかな表情で微笑むカブをしげしげと見ながら、アオキもワインを傾ける。
「お口に合ったようでよかったです」
「それは、もう……、」
ぼそりとそう言ったアオキを、小首を傾げたカブが上気した貌で見上げた。
「アオキくんからの、プレゼントだもの」
そう言って、うっとりとグラスに視線を落とし。
「それだけで、ぼくは嬉しいです」
そう言って、再びアオキの方に潤んだ視線を向ける。間接照明で照らされた、橙色に染まる空間で、影を帯びているのに。カブの頬が、仄かに色づいているのが見て取れた。
嬉々とした様子のカブに対して、アオキはぺろりと唇を舐めながら。
「それは良かったです」
そう言って、アーマーガーの羽根のように黒い目を、カブのために買ったワインに向けた。
「自分は、そういうものに疎いので、」
悪びれるわけでもなく、ただ事実としてそう言葉を紡ぐ。アオキが見つめるワインのボトルは、パルデア産のものだ。ホウエン産があれば、それがよかったが。あいにく、みつからなかったため、もっとも身に馴染むパルデア産のものを選んだ。
恋人に飲ませるならば、美味しいワインを。情緒に乏しいアオキの、なけなしの感性を、それでもカブは喜んでくれる。
「今日がバレンタインだということも、あいにく、同僚に言われて気づいたので」
「ふ~~ん、………、ん、同僚くん?」
淡々と紡がれるアオキの言葉を、カブは柔らかな表情で聞いていたのだが……。同僚というその二文字に対してだけは、ひっかかりを覚えたように眉を寄せた。
「どちらかといえば、さん、ですかね」
「………、ん?」
同僚くん、という。カブらしい表現を、アオキが訂正したのは特に意図があるわけではなかった。けれど、怪訝そうな表情をしていたカブが、その言葉を聞いた途端にどこか厳しい剣呑とした顔になる。それは、感情の機微に疎いアオキでも分かる程……。
「もしかして──、」
すっと、グラスから手を離し、顔の前で両手を握り合わせたカブ。
「女性から、何か貰ったりした?」
「……、はい」
どこか、固い表情の恋人からの問いかけに、アオキは困惑しながらもこくんと頷く。
「クッキーの小箱を、………、カブさん?」
カブの問いかけに素直に答えたアオキは、カブから向けられた怒気に思わずたじろいだ。この優しい恋人を、自分の何が怒らせたのか。情緒的な面で欠落のあるアオキではあるものの、四天王とジムリーダーと営業部の三足の草鞋を熟す能力はある。カブとのやりとりを思い返し、バレンタインで女性からクッキーを貰ったことが、カブの機嫌を損ねる原因になったのではないかと気づいて。
アオキは、少しだけ驚いた。
瞬きをして、アオキはまじまじとカブの表情を見つめる。対して、カブは明らかに不機嫌そうな、不服そうな表情を浮かべていて。きゅうっと、カブの三白眼が細められる。
それは、きっと、ファンも誰も知らない……。機嫌を損ねた、苛立った表情。
「───、それ、捨てて」
アオキが言葉を発するより前に、カブは唇をつんと尖らせてそう言った。
「君は、ぼく以外いらないでしょう?」
じっとアオキの目を見つめてそう言った後、不満そうにふいっと顔を横に向ける。
不機嫌を露わにした恋人の態度に、アオキは無言で立ち上がった。
足早に、カブの背後へと移動し、背後から強い力で抱きしめる……。
「すみません、カブさん」
カブの座る椅子が、ぎいっと音を立てた。
「捨てますから、赦してください」
小箱を贈った職員に対し、何の良心の呵責もなく。合理的な、冷徹さで。人として欠落のある人間らしい、カブに対する好意だけを天秤に残した男の言葉に対して。
人格者であるはずのカブが、どこかほっと肩の力を抜いたのが印象的だった。
「───、うん、」
ややあって、頷いたカブが。そっと頬をアオキの身体に寄せる。
「君のことだから、きっと他意はないんだろうけど」
ぽつりと呟いた、その言葉にだけは、アオキにプレゼントを贈った誰かに対する呵責がすこしだけあって。
「ぼくだけを見ていて」
次に言葉が紡がれた時には、ただアオキに対する執着がそこにあった。
「ぼく以外から、何も貰わないで。ぼく以外には不誠実なアオキくんでいて」
紡ぐ言葉には、嫉妬と執着が滲んでいて……。願う内容も、燃える男らしくはないけれど。それでも、カブの表情は本気だった。
背後から抱きしめるアオキに、その貌はみえなかったけれども。
「ぼくはおじさんだけど、それでも、恋人のことでは妬いてしまうんです」
その言葉を紡がれたとき、アオキは喉が渇くような、腹が減るような……。なんともいえない心地になって、ただごくりと喉を鳴らした。
無言のアオキの、力強い抱擁に対して。カブは嬉しそうにわらいながら、アオキの腕をぽんっと叩いて、自分の横に傅かせる。
「わかったね、アオキくん?」
「はい、カブさん」
カブが、嬉しそうに眉を下げる。そこにいるのは、ジムリーダーでも、燃える男でもない、年下の自分だけの恋人の躾をする、小悪魔のような人物がいた。
鞄の中の小箱は、開けられることがないまま。───、ゴミ箱の奥深くへと。
老いらくの恋に燃える恋人たちは、葡萄酒色のキスをした。