Two of us4
まるで、夢から醒めたような感覚だった。
水道の水をなみなみとコップに注ぎ、固い錠剤をいくつも喉の奥に流し込む。脳はまだ夢を見ているようで、けれども噛み砕いた薬の苦さと、包帯が巻かれた手の甲に走る鈍い痛みがここが現実なのだとそう訴える。
鞄に忍ばせていた常備薬を全て使い切って、込みあげる吐き気ごと残滓まで飲み込んだ。久々のオーバードーズは気分が悪い、きっと明日は使い物にならないだろう。──、それでも、今この瞬間の理性を繋ぎ留めたい。
夢であればよかった、夢であってほしかった。
我が身をさいなむ動悸が、目覚めを惜しむようなとびきりの吉夢の余韻であったのならばよかった。……、いいや、それでも良くない。あれは悪夢であるべきだ、あんな、自分を見失うような経験は……。
鼻孔に染み付いた芳しい香りがある、それは少しほろ苦く焦げた砂糖のようなもの。
その香りを嗅いだとき、自分はもう正気ではいられなかった。
ただの香りでありながら、気づいてしまえばもう、感情の全てを飲み込まれてしまう。求めたくなる、恋しくなる、愛したくなる……、生まれて初めて知った、その衝動があまりにも恐ろしい。
その狂わんばかりの衝動を、運命なのだと片付けられて。
自分たちは、いったいどうやって生きていけばいいのか。
「っく……、ぅ、」
込みあげる薬の不快感に嘔気を覚えながら、男はずるずると壁に背を預ける。思考がだんだんと冷えていく中で、思い出すのははらはらと涙を流して眠っていた人のこと。
いくつもの管に繋がれて、ぐったりとしていたその横顔が、己の腕の中で薔薇色に染まり息を吹き返したことも覚えている。その首筋に、己の血で接吻の痕を描いたことも。それでもなお、とめどなく溢れる涙を不思議になり、指先で拭ってやろうとしたことも……。
そこで、ボールから飛び出したカラミンゴから、横面をひっぱたかれなければ、男はきっと絶えぬ涙の味を知ることになっていたことだろう。
男は……、アオキは……。
ぐっと、喉が渇いた気がして、アオキはよろよろと立ち上がると、コップに再び水を注いでごくごくと飲み干した。
「っ、」
がくりと、膝から力が抜けてシンクに突っ伏す。胸が圧迫されていっそう吐き気が込みあげたが、己の苦しみなどあの人に与えられたはずの辛苦に比べたらずっとマシなはずだ。
「……、っ、くっ、」
思わず、シンクの淵を握る手に力が篭る。沸騰した頭が醒めていく中で、あの人が医師たちの処置を受けている姿を茫然と見ていた。
それは愛しい人だった、生まれて初めて恋した人であるはずだった。心を通い合わせることができるなら。それならば、貴方と愛し合いたいと。アルファの本能ではなく、一人の人間として貴方を愛しているのだと。
そう、第二性という呪いではなく、恋したはずのその人から……。
厭うていたはずの、オメガの香りがする……。
そしてその香りは、今まで嗅いだことが無いほどの、えも知れぬ甘美な香りで……。
その暴力的な、ほろ苦く溶けた砂糖のような香りは、アオキがずっと眠らせていたアルファ性を引きずり出させた。
剝き出しになったアルファ性、今までの積み上げてきた価値観がボロボロに崩されて、ただただ凶暴な獣になったその状態。完全にトリップした思考で、アオキが感じたのは【運命】という言葉だった。
運命……、運命、──、そう、運命。
アオキが、アルファである己を厭うと共に忌避していた、オメガとの間にできる特殊な関係性……。
アルファとオメガ、その間に結ばれるというバース性の呪い。
それは、アオキの望んで得た凡庸な世界を壊すもの。
平凡と普通を積み重ねてきたはずのアオキの世界を壊すのは、生まれて初めて心の底から愛することができたベータであったはずの人だった。
胃の中でのたうち回っていた感情が、いっそう強い吐き気へと変わった。
「っ……、カハッ、」
食道を熱いものが駆け上がり、そのままどろどろとした液体となってシンクに広がった。溶けきれなかった錠剤が広がる、黄色と白いまだらが気持ち悪い。混ざり合えなかった個体と液体が、そのまま今の心のありようを表しているようだ。
「………、っ、カブさん、」
誰にも聞かせられないような、弱弱しい声で名前を呼んでいた。あの涙が見える、眠りながらはらはらと涙を零していた、あの人の姿で頭の中がいっぱいになる……。
なぜ、こんなことになったのか。なぜ、泣いていたのか。なぜ、オメガになってしまったのか。オメガに対する忌避感はあっても、心に積もった貴方への恋しさは変わらないのに。
そう、アオキはカブを愛している。
───、二人並んで歩いた、黄昏色の帰り道。傍らを歩く彼に抱いた、温かな安堵のような恋しさを覚えている。
ただ、その愛しさを、運命という呪いが蝕んでいくのだ……。
本能ではない恋がしたかった。
気の迷いでは決してなく、ベータである彼を愛していた……。アオキは、カブを。間違いなく、ベータに恋したアルファは存在していたのに……。
運命だから、愛していたのだろうか。本能的に、カブに運命を感じ取っていたのだろうか。
所詮、自分もバース性の奴隷だったのか。この恋もまた……、………。
堂々巡りになる思考回路の中で、不意に何かが鳴った。
───、ロトムだった。億劫だったが、通話に出た。
『……、アオキ、』
声の主は、オモダカだった。パルデアのトップであり、絶対的強者であるアルファの彼女の声は、いつも冷静で濁りがない。
『貴方、何をやっているんですか、』
その問いかけに、アオキはどの口がそういうんだと思った。彼女が、アオキにカブの状態を伝えたことでこんなことになったのに。理不尽に怒りの矛先を向けながら、アオキは何も答える気にならずにただ無言を貫く。
『貴方が壊したガラスは、経費で落とさせて差し上げました』
「……、はぁ、」
『そのかわり、ちゃんと、責任をとりなさい』
から返事をするアオキに対し、オモダカの口調はどこまでも淡々としている。アオキ一人の心情ではなく、俯瞰的に全体をみることに秀でた彼女が意味することを、アオキは残念ながら理解することができた。───、だから、言わないで欲しいとも思った。
けれど、彼女は逃避を許さない。だって、この人が、アオキの心情を慮ったことなど、一度もないのだから。
『話は聞いています。状態が不安定になるオメガ化で、アルファの存在は必要不可欠です。ちゃんと、ケアをしてあげなさい。この際、貴方の感情は二の次です、ガラルとパルデアの友好関係にも関わります』
それは実に理に適った、パルデアリーグ委員長の指摘であった。
「───、────、はい、」
だから、アオキも、あらゆる感情を飲み込んで頷いた。シンクに吐き出した感情も、全身に噴き出した冷汗も全てなかったことにするために。───、上司命令のほうが、感情を区切りやすかったから。
「承知しました」
そう言って、アオキは通話を切り。……、そのまま、横に倒れた。すでに薬が効果を表していて視界はぐるぐると回っていた。気持ちが悪い、全てが夢ならばよかったのに。
けれど、舌に残った薬の苦さと、包帯が巻かれた手の甲に走る鈍い痛みがここが現実なのだとそう訴える。
鼻孔に染み付いた芳しい香りがある、それは少しほろ苦く焦げた砂糖のようなもの。
「カブさん、」
あの人への愛しさはそのままに、その香りだけを忘れることができればいいのに。けれども、一度本能に結びついてしまった匂いはもう、きっと忘れることができないのだ……。
薬が必要だと、アオキはそう思った。────、仕事をするために。
オメガ化してしまった、あの人を助けるために。
きっと、一番苦しむのは、オメガにされてしまった彼なのだから。
分かっている、頭では分かっている。ただ、我が身の忌まわしい第二性が邪魔をする。
だから、薬が必要だ。
それは、自分自身のため。ベータでなくなった彼の前で、今まで通りに振舞うため。
美しい思い出を殺すような、本能に呑まれるようなことが二度とないように。
───、そう。
己のアルファ性を殺しつくして、そしてようやく、今まで通りあの人に笑いかけることができるはずなのだ。
清潔な白い壁、カーテン越しの太陽の日差し。目に眩しい白の背景……。
鉄格子が嵌められた窓、点滴の痕が残る腕、内鍵がない扉。
その部屋を語られるとき、陰と陽の二つの特徴が確かにあった。その部屋を担当する看護師は言う、どうも夢に魘されているようだと。穏やかな時間はとても理知的なのだが、一度何かにとりつかれると食事が喉を通らず怯えたようになると。
彼が、なにに怯えているかは分からない。ただ、ごめんなさいという言葉を譫言のように紡ぐ。きっと、転化の不安定が引き起こしている事象であるのだろうけれど、とてもじゃないが普通の病室には入れられなかった。
カブが入れられていた病棟は、鉄の扉によって入り口が閉ざされた場所だった。
白で統一された空間のあらゆる場所に、自殺を示唆する要素とそれを予防する防犯設備がいくつもある。
カブがアオキと面会を果たしたのは、医者から処方されたいくつかの薬を飲んだ後のことだった。
「ごめんね、みっともなくて、」
そう言って、ぎこちなく微笑む、カブの表情には疲労の色が濃い。それもそうだろう、彼の前ではおくびにも出さないが、アオキが訪ねてくると知った時のカブはそれはもう酷く憔悴したのだから。
運命の番と出会うはずなのに……。カブを担当する看護師はそう言って、彼を宥めようとして、いっそうその顔面を蒼白にさせた。オペ中、窮地に陥ったオメガの状態を回復させたのは、アルファである運命のフェロモンである。その話は、噂好きの者たちの手によって病棟のスタッフたちの間には広まっている出来事であったから。
オメガが、運命に怯えるわけがないと。スタッフたちの善意の先入観により、蒼白になったカブにはただ安定剤が与えられて。面会の日時は、とんとん拍子の間に決まっていった。
「(ぼくが、奪った……、アオキくんの、運命を、)」
二日後の、正午過ぎ……。断罪の時のような意味合いがあるその時刻に向けて、カブは何度も何度も彼女が笑う夢を見た。幼き日の、12歳だったはずの少女は、なぜか麗しい女性に姿を変えている。
彼女が、ベータであったカブを嗤うほどに、ベータで無くなったカブはこのまま消えたくなるのだ。
───、アオキが。
どれほど、カブの運命と言われようと、カブの心はベータのままだ。心と身体が乖離している。偽りのオメガを、過去の記憶が嗤っている。
「(ぼくが、運命のはずがない)」
何故なら、自分はベータであるはずだから。
だってアオキは、ベータである自分を恋しいと言ってくれたのに。
そういえばと、カブは思い出す。そういえば、己はアオキから告白されていたのだったと。薬の影響か、ふわふわとした意識では思考がまばらだ。告白を思い出して、極端に悲しくなることもあれば、極端に心が高揚する時もある。
断らなければいけないと思うのは、ベータとして積み上げてきた記憶があるから。けれど、受け入れたいという喜びが浮かぶのは、これは自分がオメガになってしまったからだろうか?
自分ではなにも決断できなくて……、傍にポケモンがいれば、もう少しマシかもしれないが、残念ながら手持ちたちはセンターに預けられていて傍にいない。たった今、ポケモントレーナーと名乗れない事実は、カブという人生が積み上げてきた尊厳を悉く破壊する。
マイナーリーグ時代のように、心はどこか凍えていて。そして、不安定だったのだ。
「(アオキ君に会ったら、ぼくはどうなってしまうのだろう)」
ともすれば、かつての不甲斐ない自分を呪った時のように、自らを傷つけてしまうのだろうか。
───、けれど。
いよいよ、アオキが訪れる時間となったとき……。カブ自身の予想に反して、その精神は妙に安らいでいた。それは、オメガとなった身体が、なにかしらの脳内物質を放っていたのかもしれない。すくなくとも、カブは、控えめに扉を叩く音を聞いたとき。
逃げたい、とは思わなかった。
だから、ぎこちなくも、アオキに微笑むことができたのだ。
2日ぶりのアオキを見た時、カブはもう何年も会っていなかったような気持ちになった。身体の奥からふつふつと湧き上がる、会いたかったという感情もオメガの性が生み出しているのだろうか。───、それも、わからない。
ただ、少し見ない間に、何故かアオキの顔色が悪くなっている気がした。
「わぁ、アオキくん、大丈夫?」
彼を案じる言葉は、自然と口を突いて出た。それに対して、アオキは少しだけ目をしばたかせて、こくんっとひとつ頷いてみせる。
「自分は……、寝不足なだけです」
「そ、そう」
「それより、カブさんの方が、大変でしょう」
寝不足、と言うくらいだから、きっといつも愚痴に出す上司に、なにか厄介ごとを言いつけられていたに違いない。そう思うと、いっそう彼を案じる気持ちになる。
「座っても?」
カブが何か言う前に、アオキはベッドのそばの椅子を指して訪ねてきた。
「もちろんだよ」
頷けば、アオキはいつものようにすらりと椅子に腰かける。アオキは背が高いから、座られた椅子はいつだって小さく見える……。変わらないな、とそう思った時。
いつも通りのアオキがいることに、ほっと安堵する自分に気づいた。
アオキは変わらない、変わった様子がない……、アルファが放つというフェロモンも、自分は今まったく感じていない。そういえば、自分も今、オメガのフェロモンというものを放っているのだろうか……。
「アオキ君、大丈夫?」
再び、彼を案じる言葉が零れ落ちた。それは、無意識にでた、オメガがアルファを気遣う意図を含んだものだったのだけれど。明確な意味を含ませなかった文章は、正確な意味でもってアオキに届くことはなく。
「……、はい?」
不思議そうに、アオキは尋ね返しただけだった。そのことに、カブはぼんやりと、このままで居たいと思ってしまった。それは、怯えだったのかもしれない。アルファも、オメガも、関係のない所で、今まで通りにアオキに接してもらいたかったのかも。
「うぅん、なんでもない、」
「そうですか、」
無意識の怯えが、カブを逃げさせた。そして、アオキも、それ以上を追求することはなかった。
「カブさん、大変でしたね、」
そして、アオキは、カブを案じる……。いつものように、ベータだった時のように。
その目は、カブの腕の注射痕を案じるだけで、首につけられた明確な差異には向けられていない。アオキは、驚くほどに【アオキ】のままだ。この病院に居る誰もが、カブをオメガとして恐々と扱うのに。
夢だったのかもしれないと、カブは思う……。もしかして、自分は、ベータのままなのではないかと。
夢だったのかもしれないと、カブは思う……。医者に見せられた映像に映るアオキは、あまりにも圧倒的なアルファであったから。
「うん、でも、アオキくんに会えて調子がいいや」
だから、何のためらいもなく。今度こそ、いつもの笑顔で……。カブは、アオキに対してそう伝えることができた。すると、アオキはいつものように、仄かに微笑んで。
「それは、よかったです」
そう、カブに対して、言ってくれた……。
「───、うん、」
救い、だと。──、カブは思った。
この時、マイナーリーグ時代のように凍えていた、助けなんてないと思っていた心が仄かに溶けて。氷が解けたような心の雫は、そのまま涙となってカブの目元を伝う。
「───、あれ、」
ぽたぽたと、溢れてくる。ぽろぽろと、頬を伝い落ちていく……。
「っ、……、……。───、カブさん、」
年甲斐無く泣くカブに、アオキは息をのんだようだった。彼は少し慌てた様子で、バックからハンカチを取り出すと、そっとカブの手にそれを差し出してくれた。
手が、触れ合う……。
この時、ふわりと何かの良い香りがした気がしたものの、カブはそれをハンカチが含んだ柔軟剤の香りだと思った。
「アオキくん……、ありがとう」
泣き笑いの顔で、カブはそうアオキに伝える。大切に大切に、柔らかな香りがするハンカチを握りしめて。温かな日差しに照らされた病室で、ほんの数日前と変わらぬ姿で振舞うアオキに感謝を伝える。
アオキは、少し困ったように、目尻を下げて。
「自分は、なにもしてませんよ」
そう言って、仄かに微笑んだ。寝不足で、疲れの色は深く肌に刻まれていたけれど。そうやって微笑むアオキは、やはりいつも通りのアオキだ。
カブはもう、たまらなくなった。
「ねぇ、アオキくん、此処から出たいよ……、」
ぽろぽろと、言葉は涙と共に伝い零れ落ちる。
鉄格子が嵌められた窓、点滴の痕が残る腕、内鍵がない扉。終わらない投薬と、オメガとして見つめてくる人間の眼差し。毎晩のように見る夢と、逃げることができない現実。全てが、もう嫌だった……。
「うちに帰りたい、ポケモンくん達に会いたい……、君と一緒にご飯を食べたい」
喘ぐように、カブがずっと意識しないようにしてきた、薬で誤魔化してきた願いを口にした時。誰が見ても、限界なのだと分かる精神状態を見せつけられたとき。ひとは、どうすることが正解なのだろうか。今にも過呼吸を起こしそうに、苦し気に胸を押さえた姿に。アオキはそっと手を伸ばし、その背を撫ではじめる……。
「そうしましょう、」
アオキは、穏やかな口調でそう言った。この時、俯いたカブからはアオキの表情は見えなくて、だからカブは、アオキがその声に相応しい優しい顔をしているのだと信じた。
「自分が、かけあいます……。パシオの家に帰りましょう……、カブさんの、ポケモンくんたちを迎えに行きましょう」
「でも、そんなこと、」
カブが、不安そうに顔を上げる。彼が紡いだ言葉は暖かくて、そして心がじわりと温まる。けれど、なぜそんなことができるのか、自分は■■■だから、此処にいないといけないのに。
「できますよ……。自分は───、」
この時、アオキは不自然に言葉を区切った。何を紡ごうとしたのか、カブにはそれを気にする余裕はなくて。
「自分は、パルデアリーグ四天王ですから。委員長にかけあって、なんとかしてもらいます」
だから、少し間を開けて、アオキが言った言葉に、カブは心底安堵した。
「あはっ、そうだね!」
思わず、くふくふと笑う。……。ここにいるのは、どうあがいてもアルファとオメガで……。この部屋からオメガを救える理由など、本当は一つしか無くて。
けれど、今はそんなことは忘れている。顔を動かせばちゃりちゃりと鳴る首輪も、もはやカブの意識の外にあった……。
「アオキくんが、ありがとう」
カブは笑う、久々に笑う……、心から。ハンカチで涙を拭おうとして、何故かそれが惜しくて手の甲で涙を拭い去る。
「アオキ君は、優しいねぇ」
「そうでしょうか?」
せっかく褒めたのに、とぼけたような返事をするものだから。カブはいっそう面白くなって笑った。明るい声が病室に木霊すのは初めてだ、きっとスタッフはみんなびっくりするはずだ。カブは僅かに頬を染めて、目を細めてアオキを見つめる。
「そうだよ、だって、ベータのぼくに優しいし、」
「……、当然です」
アオキは、穏やかな表情のままだった。カブの背に当てていた手を、そっと動かしてハンカチを握るカブの手に重ねた。
「世界に貴方は、一人だけだから、」
心臓が、ひとつどきりと跳ねたけれど、その理由はおぼろげに消えていく。アオキが紡いだ言葉、隠した言葉……。ほんの数日前に、向けられたはずの言葉。その言葉に紐づいた悪夢も、夢の森も今は遠くにあった。きゃらきゃらという笑い声は、ふわふわとした幸福感にの中で息を潜めている……。
カブの退院は、それからトントン拍子で決まっていった。というより、カブが少しうとうととしている間に、アオキが医師と話をして全てを終わらせていてくれた。
カブが、パシオで借りている家に帰ると、手持ちのポケモンたちが既に居て歓迎してくれる。カブのことをぺろぺろと舐めたり、身体を擦り付けたりして。
「けっして、一人で出歩かないでください」
ただ、家を去るときの、アオキの言葉が少し引っかかったけれど。ボール遊びを求めるウィンディに急かされて、追及することはできなかった。
そうやって、いつもの日常が、戻ってきたのなら───、良かった。