これからのおれたちは(後)【三. 対等であること】
寝ぼけまなこを擦るカリムの跳ねた髪にミストをかける。細い髪に櫛を通せば、朝の柔らかな日差しを受けたパールグレイがきらきらと光って見える。
あの屋敷で寝起きするカリムには毎朝数人の使用人がついて身支度を整えていた。ミドルスクールに進学した頃から従者見習いとして一通りの仕事をやらされていたジャミルは、カリムのベッドのシーツを替え、寝巻を回収し、部屋の掃除を担当していた時期があった。ぼんやりとしたまま黙って肌着を着せられるカリムを横目に眺めていると、ジャミルとカリムはまるで別の生き物だと、そんな風に感じたものである。ただ、ジャミルが朝、仕事のために部屋に入るたび、カリムが朝食をとるため部屋を出ていくたび、おはよう、また後で、とジャミルだけに視線を向けていつもの笑顔を浮かべるものだから、ジャミルは使用人として頭を下げるべきか、友人として笑みを返すべきか、どっちつかずの心地でいつも目を伏せ頷いたのだった。
先日、十八の誕生日を迎え、法律上は成人となったカリムではあったが、覚醒しきれずにぽやぽやとまばたきをする顔は、あの頃と同じように見える。成人にもなって、威厳の欠片も見当たらないその顔を使用人らに晒すことになるのはいかがなものか。
「あ、ジャミル、今日は誕生日にもらったアイシャドウを使いたいんだ」
カリムが指さしたのは、熱砂の国にいる妹君から誕生祝に贈られた最高級のブランド品だ。決して日常使いしていいような代物ではないが、今日はリリアとケイトと過ごす最後の部活動の日なのだと聞いていたので、わかった、と頷きオレンジ色の単色シャドウに合うよう他のアイテムを揃えていく。
先日、三年生の二人の壮行会と題して行われたライブは小さな会場で開催されたが、ジャミルが想像していた以上に人が集まっていて驚いた。相変わらず方向性の定まらない選曲に個性的なパフォーマンスではあったが、ライブは成功、と言って差し支えないほどには盛り上がっていた。最後のMCで二人にエールを送りながら、感極まって泣き出してしまったカリムの頭をぐしゃぐしゃに撫でる先輩たちの姿。ステージ上にいるカリムは、ありふれた一人の学生に見えた。
入学したての頃、やってみた、と言って自分で化粧を施したカリムの顔は、とても人前に出せる状態ではなかった。だけどいつの間にか、カリムは自分でアイラインが引けるようになっていた。部活で先輩たちが教えてくれるのだと、嬉しそうに何本ものアイラインをそのまま鞄に突っ込むのを、細身のポーチにまとめてやったこともある。スカラビア寮生のくせに、頬に赤いダイヤのスートをつけて帰ってきたこともあった。
ジャミルが並べた化粧品を左から順に手に取っていくカリムを、シーツを丸めながらなんとなしに眺める。先月、「誕生日だから」という謎の理由で一人で起き出し、寝起きそのままの姿で寮生たちが朝の支度をする洗面室へと乗り込んで以来、休みの日は自分でやってみるんだ、と言って化粧品を使う順番を教えてくれと乞われた。毎朝手に取っているくせ、こいつはそんなことすら覚えてないのか、と呆れたが、仕方ないとも思うのだ。
物心ついた頃からずっとカリムは、身の回りのことを人にやってもらうのが当たり前の環境で育ってきた。これからもそれは変わらない。カリムの身支度を仕事とし、それで給金をもらっている人間がいるのだから、変える必要もない、むしろ、仕事を奪われて困るのは使用人たちの方だ。カリムもそれを理解しているからか、あるいは単なる習慣ゆえか、帰省している間はずっと、学園では自分でやっていることも、黙って使用人たちに任せている。
一人で起きて、身支度をする。普通の人間にとっては当たり前のことを、カリムは誕生日という特別な日を選んでわざわざ実行した。そういうところを見ると、やはり、ジャミルはカリムのことを、別の生き物のように思ってしまう。できるようになるのは悪いことじゃない。例えばカリムの父である当主のように、あちこちに出向くことが多くなった時、身支度を自分ですることができれば供の数を減らすことができる。そう思ったジャミルはカリムに乞われるまま、身支度の仕方を教えてやっている。
ジャミルは、お前は賢い子だと言われながら、一方で凡庸な従者たれと言い含められて育ってきた。あるいは無茶な主人の願いを言われるがままに叶えながらくすぶる苛立ちを押し隠し、本人の前でだけは友人のように振舞ってきた。そうするほかないのだと思い込み、ジャミルと違って何の制約もなく心のままに振る舞えるカリムが憎らしくて、憎らしくて、たまらなかった。
それがどうだ。いつも無責任に押し付けられていた寮長の仕事、提出直前に泣きつかれ付き合ってやっていた課題、ジャミルが準備を整えることを前提とした宴を勝手に決めてしまうこと。いつもいつもうんざりしながらやっていたカリムの『頼み』を『友人』として断ってやると、気分がひどくすっきりした。両親も、他の使用人たちも、そんな学園内でのジャミルとカリムの振る舞いを誰も知りやしないのだ。どうしてもと思うのならば、ひと言『命令』すればいいだけだ。
マンカラで勝ち越したって、舞台の上でジャミルの方が目立ったって、カリムは機嫌を損ねたりしない。オレンジのアイシャドウをブラシにとり、目尻の方からまぶたに色をのせていくカリムは、人形のように着せ替えられている時よりよほど活き活きとしている。
「ジャミルー、見てくれよ。ラメが派手でいい感じじゃないか」
化粧を終えた顔をこちらに向けて、ラメを見せているつもりなのだろう、首を捻って動かしてみせるカリムに近づく。流石は貴重な魔法石がふんだんに使われたアイシャドウだ。わずかな魔法の力が込められたアイシャドウは神秘的にきらきらと輝くも、もとより宝石のような色彩を持つカリムの顔の上で変に浮くこともなくなじんでいる。
「いいんじゃないか。さあ、ターバンを巻くぞ」
カリムの頭にターバンを巻いて、巻き込まれた毛束をバランスよく外に引っ張り出して整える。サマーホリデーが始まる前にカットした方がいいかもしれない。向こうで切らせた方が手間は少ないが、そろそろバランスが崩れてしまう。
「二人とも喜んでくれるといいな」
鏡越しにカリムの視線を追うと、鞄の横に置かれた紙袋が目に入った。
「あの人たちなら本心はどうであれ、嫌な顔は見せずに受け取ってくれるだろう」
「な、なんでちょっと不安になるようなこと言うんだよ~」
「フッ、食えない先輩方だからな。まあ、実際嫌がりはしないだろ」
紙袋の中にはヘッドフォンが三つ入っている。有名メーカーのハイクラスなモデルにオーダーメイドでパーツに彩色したヘッドフォンは、いち学生がぽんと渡すにはかなり高価なものではあるが、目が飛び出るほど、というほどでもない。頓着のなさそうなリリアはもちろん、ケイトもカリムからと思えば引け目なく受け取れるギリギリのラインだろう。カリムは白、ケイトは赤、リリアのものにはマゼンタの彩色が施され、ヘッドバンドの裏側には軽音部のロゴが刻印されている。カリムが自分で選んで用意したお揃いのプレゼントだ。いいセンスだとジャミルも認めている。
「そろそろ行かないと朝食を急いで食べなきゃならなくなるぞ」
「おっと、もうこんな時間か。行こう」
カリムは左手に腕輪を嵌めて立ち上がった。廊下に出ると、朝の忙しない足音があちらこちらで響いている。寮の食堂はほどほどに埋まっており、自炊派の生徒たちが朝食を食べている。校舎の食堂を使う生徒も多いため、朝にこの食堂が埋まることはまずもってない。だからジャミルも遠慮なく、いつも定位置に二人分の食事を用意し、つまらない悪戯をされないように魔法陣を張っていた。
「そういえば、昨日とーちゃんと電話してさ」
パンにたっぷりのバターを塗りながら、カリムが切り出す。
「今度の宴の料理はみんなとおんなじようにするから、ジャミルは気にせずゲストとして楽しんでくれよ」
「……は? うちが主催の、コース料理の予定だろう? 気にせずって、毒見はどうするつもりだ」
「その辺はとーちゃんとザーヒルが準備してくれるって。これはいつもお世話になってる屋敷のみんなや、絹の街の人たちへの感謝のための宴だからさ」
思いもしなかった事態に、ジャミルはつい手を止めてカリムを凝視してしまった。サマーホリデーが始まってすぐに予定されているカリムの成人を祝した宴。詳細は追って知らせると侍従長であるザーヒルから使用人にあてたメールを目にしてから三週間、やけに連絡が遅いと思っていたところで、そろそろ父に探りを入れるつもりだったのだ。
アジーム家主催の宴では、普段の食事と同じく、カリムの料理は原則ジャミルが担当する。数年前、食事に盛られた毒によってカリムが二週間の昏睡に陥って以来、暗黙の了解として受け入れられてきたことだった。ジャミルの目の届かない場所で作られた料理を口にする際はジャミルが毒見係として検査を行う手筈がこの五年は守られてきたはずなのに、どうして今さら他の人間を付けるのか。
「しかし……」
「いいんだ、ジャミル。オレが無事に成人できたのはジャミルのおかげでもあるからさ。せめて祝いの宴でくらい、思いっ切り楽しんでくれよな。もうしばらくはお願いすることになっちまうけど……いつまでもジャミルが作った料理だけ食べていく、って訳にもいかないだろ」
ジャミルが動けないでいると、「どうしたんだ? 食べないのか?」とカリムが首を傾げてパンをかじる。ジャミルは皿に視線を落とした。昨日焼いて、温め直したパン。スープ。ひよこ豆のトマト煮をかけたオムレツ。くし形に切ったオレンジ。いつも通りの出来栄えの朝食を、無理やり口に詰め込む。スープを一口飲む。味がよくわからない。
「……承知した」
当主様と侍従長の間で話が進んでいるのなら、ジャミルが否を唱えようもなかった。カリムはオムレツを口にして、これ美味いな、といつも通りに笑った。
その顔に、なんだか無性に腹が立った。
「いや、待て。今までずっと俺がやってきたことを、どうして俺に相談もなしに変えるんだ」
そう、そうだ、せめて段取りを決める際に、ジャミルに相談があってよかったはずだ。この様子だと、カリムは前々から知っていたはずだ。むしろ、カリムから担当を変えるよう、当主に持ち掛けた可能性が高い。
「だいたい見知った顔が並ぶ場だからこそ、気を抜いて確認を怠る場合もある。次期当主が成人を迎えた節目だからこそ、その座を狙う連中が何を仕掛けてくるかわかったもんじゃない。いつも通りにした方がいい、俺は構わない」
「…………」
カリムは眉尻を下げ、困ったように視線をさ迷わせた。しかし、ふと眼差しの色を変え、ジャミルの顔をまっしぐらに見つめる。それからスープを一口飲んで、ゆっくりとそれを飲み込み、口を開いた。
「白身は鯛、だしに、なんて名前だっけ……あ、スズキだ、スズキの骨も使ってる。玉ねぎ、トマト、じゃがいも、にんじん。バター。塩と胡椒と、ローリエ、パセリ……ディルも入ってる。あとちょっとレモンの汁も入れてるな」
ジャミルは驚きに目を見開いた。カリムは正確に、スープの材料をすべて言い当てた。そんなジャミルの顔を見て、カリムはにっと得意げに笑う。
「ナイトレイブンカレッジに入る前から一つだけ、オレがかーちゃんに魔法を習ってたの、知ってるだろ? 味覚と嗅覚を鋭くする感覚拡張の魔法。いろんなもんが混ざってるのをいっこずつばらばらにして感じ取るのが難しいんだけどさ、マスターシェフを受講してからコツを掴んだみたいなんだ」
ここまでできるなんて、知らなかった。握った手のひらの内側に汗が滲む。
「うーん、相談しなかったのはごめん、次から気をつけるな。そういうことだから、毒の心配はしなくて大丈夫! ただ、毎日これやりながら飯を食うのはまだ疲れちまうからさぁ……学園にいる間は、まだジャミルに飯を作ってほしいんだ」
そう言って、カリムはジャミルの様子をそっとうかがった。この頃、よく見る顔だった。なんでもかんでも叶えてもらえると信じ切った顔ではなくて、断られることを知っている顔だ。いつもなら、その顔を見ると胸がすいた。いつもジャミルを振り回すばかりだったカリムが、ジャミルの返事一つ、態度一つで振り回されるのを見るのは気分がよかった。嫌だと言ったらどんな顔をするのだろう。もちろん本気ではない。ジャミルはカリムの毒見係に任命され、加えて料理版を任されて以来、一度もカリムに毒を食ませてこなかったことを、密かに誇りに思っている。嫌だと言って落ち込むカリムの顔を見てから、嘘だよ、と言ってやれば、少しはこのもやついた気分もマシになるかもしれない。
けれど。もしも、もしもあっさり、そっか、なら仕方ないな、なんて言って諦められてしまったら。食事の手を止め、じっとジャミルの返事を待つカリムから、ジャミルはやっとの思いで視線を逸らした。
「当たり前だろ。……わかった、次は相談しろよ」
「よかった、ありがとう!」
カリムは安心したように笑って、止めていた食事を再開する。ジャミルも努めていつも通りの表情を保ち、味のしない食事を口に詰め込んだ。
『カリムのように直感で飛び出していく奴は、どう化けるか分からねぇぞ』
不意に、嘆きの島で投げつけられたレオナの言葉を思い出す。
ついこの間までジャミルに頼りきりだったカリム。思いつけばすぐに駆け出してしまう後ろ姿をいつも追いかけては振り回される日々だった。
それがどうだ。無為に追いかけることをやめ、言葉で巧みにそそのかすことで手のひらの上で転がしていたはずのカリムは、気付けばジャミルの与り知らぬところで飛び出し、勝手に走り出している。
カリムはこういうヤツなのだ。かねてより望んでいた『対等な関係』が思い描いていたようなものでなくとも、あの悪夢の中でいまだジャミルの中に潜む毒を目にしようとも、裏切り者を側に置き続けるばかりか、自らが変わろうと進み続ける。
「(ほんと、お前のそういうところが……)」
最後のオムレツの欠片を飲み込んだカリムは、満足そうな顔でフォークを置いた。ジャミルもスープを流し込み、息を吐いて席を立った。
【四. 自分で道を選ぶこと】
ピィー、と高らかにホイッスルが鳴る。終了の合図だ。ジャミルは二呼吸で軽く息を整えてから声を張り上げた。
「各自ストレッチ!」
三年生が引退し、いよいよ明日からサマーホリデーが始まる。新入生の勧誘が始まってしまえば、ひと月前より広々とした空間もあっという間に人で溢れてしまうだろう。ジャミルも足を伸ばそうとしたところで、不穏な気配を感じさっと身体を捻って腕を構える。パスッ、と音を立てて手のひらに収まったバスケットボールを手のひらの中でくるりと返して腕に収め、まったく、とため息を吐いた。
「フロイド、ふざけるな」
「アハ、腑抜けてると思ったら、ちゃんと見てるじゃ~ん」
「うわぁ、さっすがジャミル部長、よく止められましたね~」
「エース……お前も気付いてたなら止めろ」
「無理無理! てかフロイド先輩ノーモーションで急に投げんだもん、声上げる暇すらないですって」
フロイドは満足したのか、急にぺたんと地面に座り、開脚してストレッチを始めた。相変わらず読めないヤツだと思いながら、ジャミルもボールを置いて今度こそ伸脚を始める。
「てかジャミル先輩が大声で指示出すの、なんかまだ慣れねーかも」
「ウミヘビくんはぁ、部長断ると思ってた~」
「まぁ、柄じゃないのはわかってるさ」
「いやいや、今の代でこのメンツまとめられるのはジャミル先輩しかいませんって! オレはジャミル先輩が引き受けてくれてよかったなーって思ってますよ。でもほら、ジャミル先輩って声張るタイプじゃないってゆーか、前の部長みたいに熱いタイプじゃなくてクールなタイプのリーダーじゃん? 雰囲気違うのが新鮮だなーって」
「そのうち嫌でも慣れるさ。ほら、無駄口叩いてないで、ストレッチが終わったらボール拾えよ一年生」
「はーい」
半年前のジャミルなら、カリムの世話と副寮長の仕事に加え、部活の長なんてやっていられないと断っていたかもしれない。実際、冬に先輩に探りを入れられた時は、やんわりとその気がないことを仄めかすようにしていた。けれどいざ引継ぎの時期となり、先輩から改めて打診を受けた瞬間、やってみてもいいかもしれないと思った。たかが学生の部活の長なんて面倒ごとの方が大いに決まっている、ただでさえフロイドの扱いを任されている節があり、苦労しているというのに。ただ、結局はそうして面倒ごとの一部を引き受けてしまうのならば、トップに立って堂々と指揮をとる立場に行ってもいいのではないか。そんな考えが頭に浮かんだ直後、ジャミルはその場で時期部長の役割を引き受けることに決めたのだった。
「そういえばジャミル先輩とフロイド先輩は、インターン先のこととか考えてたりするんですか?」
二の腕の外側を伸ばしながら、エースが新たな話題を振ってくる。
「昨日談話室で、リドル寮長が先輩たちと話してたんですよね。選択授業も将来に影響してくるから、一年生のオレたちもちゃんと考えて決めないとってこっちまで飛び火してさぁ~……。そんな急に言われても、二年後のことまで考えられないですって」
「オレは気にしてなーい、そんなんその時の気分で決めるしかなくね? そういえばアズールはぶつぶつ言いながらインターン先の一覧表と時間割見てた気がするけど……カニちゃんの言った通り、来年オレがなにしたいかなんてわかんねーもん」
「確かに、やりたいことが明確にあるならそれを踏まえて計画的に授業を選択するのがいいと思うが、これという目標がないなら自分の得意なことや興味のあるものを選べばいい。そうしたら自ずと自分の興味のある分野が見えてくるだろう」
「ですよね!? デュースなんか寮長の言葉を真に受けちゃって、昨日の夜もずーっと来年度の時間割表とにらめっこしててさぁ。てか、アイツは選択授業以前に、必修の方の成績をどうにかする方が絶対先でしょ」
三年生のインターン先が決まる年度末のこの時期になると、至るところでその話題になるのは去年も同じだった。インターン、進学の有無、将来のこと。ジャミルはかねてよりアジーム商社に就職をするつもりだった。幼い頃より屋敷で使用人としての経験を積み、大人と同じように働ける年になったら商社に就職するのは従者の家系では一般的なルートである。ジャミルも同じ道をたどり、ゆくゆくは第一秘書、あるいはアジームの一家が暮らす家であり国有数の重要な社交場でもある屋敷の運営を担う侍従長の座を目指すつもりだ。幼い頃からずっと変わらずカリムの同年代の従者であり続け、優秀な働きを見せてきたジャミルは、周囲からもその最たる候補として期待されているはずだ。
ただ。せっかく魔法士養成学校の中でも有数の名門校であるナイトレイブンカレッジへの進学がかなったのだ。もっと魔法を学びたい、魔法士として自分の実力がどれだけ世界に通用するのか試してみたい、ジャミルの胸にはそんな思いが芽生え始めている。例えば熱砂の国では昼夜の気温差が大きく、水が少ない環境の下で果実にたっぷり甘みを蓄えることのできる果実の品種を作り出すため、魔法を用いたバイオテクノロジーの技術が盛んに研究されている。また、かの砂漠の魔術師を始めとした偉大な魔術師たちが生み出した魔法道具や、強い魔法の痕跡が残る遺跡についていまだ多くの謎が残されており、その解明に向けた研究が連綿と受け継がれてきた。そんな熱砂の国は高い技術を駆使した古代魔法道具の再現においても名を馳せており、その最たる例が魔法の絨毯のレプリカだ。
「エース、サボってないでそろそろボール拾え」
「ちぇっ、バレた。はいはい、下っ端は働きますよっと」
無駄に時間をかけてストレッチをしていたエースを促し、ジャミルも着替えようと立ち上がる。
「ウミヘビくんはどうすんの? またラッコちゃんについてくわけ?」
軟体動物のようにべったりと身体を二つに折りたたんだまま、珍しくフロイドが問いかけてくる。
「まさか。カリム本人が好きにしろと言ったんだ、そうするさ」
カリムの言葉を反芻する。
『……いつまでもジャミルが作った料理だけ食べていく、って訳にもいかないだろ』
カリムの側を離れるということは、そういうことだ。カリムがどうするのかはまだ決めていないようだけれど、同じ場所を選ぶことはないだろう。
「あっそ」
自分で聞いたくせ、フロイドはまるで興味なさそうにそう言うと、「飽きた、とっととかーえろ」と言ってのっそり立ち上がった。
「(さて、寮に戻ったらまたひと仕事だ)」
今日中に部屋のものを片付けて、明日は朝から部屋替えだ。まずは空になった三年生の部屋に二年生が荷物を転移させ、続いて一年生の転移魔法を上級生がサポートする。重い荷物の転移は下手を打つと大きな事故に繋がりかねないので、一度に転移していい荷物の重さとサイズに制限を設け、何回かに分けて引っ越しを行う。ようやく一人部屋が手に入ると、ジャミルの心も浮き立っていた。
「(カリムの引っ越しがないのは助かるな。去年、寮長室に移る時は大変だった……そもそも、四人部屋の頃は苦労したな……)」
朝起きた瞬間から夜眠る直前までカリムと顔を突き合わせながら暮らす日々。常識はずれなカリムの行動の数々をフォローするのに精いっぱいで、苛立ちばかりが膨らんでいった。耐えて、耐えて、そうして突き付けられた副寮長の座。ジャミルはどこまでいってもカリムの陰に甘んじるしかないのだと思い詰め、あの策略を練り始めた。
「(あの時、監督生に声をかけてさえいなければ、カリムはここにいなかったかもしれない)」
カリムのいない学園生活が、喉から手が出るほど欲しかった。その気持ちだけは今でも痛いほど理解できる。でもその後は? ストレスの源を排除して、たかだか二年間寮のトップに君臨したところで、いったい何になったというのだろう。己の視野の狭さをつくづく思い知った今となっては、黒歴史にほかならない。
更衣室に入り、タオルで汗を拭いてから髪を解く。さっと魔法で制服に着替え、今日の当番に戸締りは任せたと声をかける。
外はまだ明るいけれど、夏至を通り過ぎたこの頃、少しずつ日暮れの時間が早くなっている。カリムはきっと今ごろ、引っ越し前の寮の掃除を指揮していることだろう。早く寮に戻ろうと、ジャミルは速足で鏡舎を目指した。
【五. 自分の足で進むこと】
「それでは皆さま、歌って、踊って、腹いっぱい食べて、心ゆくまで楽しんでってくれ!」
壇上のカリムに向かって拍手が鳴り響く。ジャミルも周囲の人間に合わせて手を鳴らし、運ばれてくる料理に手をつけた。カリムは壇上から降りると、母親である第一夫人が座る席へ向かって歩いていった。
カリムの成人祝いと題したささやかな宴。本来ならカリムの誕生日である六月に開催されるのが習わしではあるが、遠い地で寮生活を送っていたこと、加えて、今年はカリムが寮長として学園対抗競技会に出場する選手である事情に鑑み、少し遅れてサマーホリデーの時期に宴が催されることが決まっていた。
大きな円状の敷物がいくつも敷かれ、見知った人間と共に料理を囲む。今回、ジャミルのような比較的若い世代の使用人たちはみな仕事を外れ、めいめいの席で豪勢な料理に舌鼓を打っている。ジャミルはどうしてもカリムのいる方向に視線を引かれたが、「なあジャミル!」と正面から名を呼ばれれば気を向けない訳にもいかなかった。ひとつ年上の使用人である男が、好奇心をたっぷり含んだ目でジャミルを見詰めている。
「あのマレウス・ドラコニアが引き起こした魔法災害に巻き込まれて、そんでもってお前もマレウス王子と戦ったんだろ!? ほんっとすげーよ、あの生中継の映像やばかったよな。まさか生きてるうちに魔法災害が起きるなんて!」
「どうやって倒したんだよ、お得意の火魔法かー? あの虫にビビってたジャミルがな~」
「その話はやめろ……俺ごときの火魔法がマレウス王子に通用するはずないだろう、相手はドラゴンだぞ。詳しいことは箝口令があるから言えないんだ、悪いな」
「ちょっとくらいなんかあるだろ? そういやお前はどんな夢を見たんだよ。巻き込まれた連中はみんな、幸せな夢を見てたらしいってSNSで見たぜ」
「さあ……眠っていた間のことは覚えていないな。俺はただ、たまたまS.T.Y.X.の隊員によって起こされ、たまたま助力を乞われたってだけだ」
「つまんねーな、おい、ジャミルにどんどん飲ませようぜ! こうなりゃ酔わせて吐かせるしかねぇ!」
「おい調子に乗るな、お前、もう酔っ払ってるのか?」
この席にいる連中はみな数年以内に成人を迎えたばかりの使用人たちだ。熱砂の国では十八を超えれば飲酒が認められているため、飲み放題ともなれば面倒な絡まれ方をするのは目に見えている。
酒だ酒だと騒ぎ出した連中を横に、ジャミルの視線はつい会場の中を泳ぎ回る。カリムは酒瓶を片手に、バザールを取り仕切る組合員たちの輪へと加わっていた。白を基調とした豪奢な衣装をものともせずにひらりとあぐらを組み、骨董市の店主に酒を注いでいる。
「ジャ、ジャミル」
名を呼ばれて横を見ると、気付けばあれだけ騒いでいた連中がやけに大人しくなっている。みなが同じ方向へ視線を向けていることに気付いたジャミルが首を回すと、その理由はすぐにわかった。こちらに向かってまっすぐ歩いてくるその姿に、ジャミルは慌てて立ち上がる。
「やあ、みんな楽しんでいるかい」
「旦那様! もちろんです。この度はどうも――」
「はっはっは、堅苦しい挨拶はなしだ! 今日の私はただのカリムの父親さ。君たちもどうか楽にしてくれ。ジャミル、少しだけ話せるかい」
「もちろんです」
「悪いね、すぐに返すよ」
最後の一言はカチコチに固まっている使用人の子どもらに向けて、当主はくるりと踵を返した。半歩下がってジャミルがその後を追えば、当主は飾られた織物を掻き分け、夜風のそよぐバルコニーに出た。高台にあるこの屋敷から街を見下ろすと、窓から漏れる明かりや夜の市を彩るランプが星のようにまたたいている。当主についていた護衛は織物の向こう側で足を止め、ジャミルは一人で当主と相対することとなった。
「学園生活はどうだい? 春の魔法災害にこの間の学園対抗競技会と、いろいろ大変だっただろう」
「そうですね、俺も、それにカリム様も、確かに大変ではありました。けれどカリム様は伝統ある学園の寮長として、いずれも立派に役目をこなされています」
「そう堅くならないでおくれ、ジャミル。君自身はどうなんだい、学園生活は楽しいかい?」
「俺は――」
カリムによく似た顔立ちの当主。しかしその色彩は黒目に黒髪であり、威厳の刻まれた顔には逆らい難い何かがあった。カリムの色彩も、当主に比べてやわらかな表情も、母親譲りのものだ。
「――はい。楽しいことだけじゃありません、自分の未熟さを痛感することもたくさんありました。けれど、あの学園でカリム様と……カリムと共に学ぶことができてよかったと、今はそう思っています」
「……そうか」
当主の目尻の皺が深くなる。「そうか」ともう一度当主は呟いて、会場の方を振り返った。
「あの子と話をしているとね、我が子ながら、短い間にずいぶんと成長したなぁと、この頃特にそう感じるんだよ。ジャミルも、昔からそこらの大人よりよほどしっかりとした子だったけれど……若者の成長は本当に侮れないね。二人とも、立派に成長している」
幼い頃からのジャミルを知る当主にそう言われるとどうにも胸がむずがゆい。冷たい夜風が火照った耳を早く冷やしてくれることを願いながら、ジャミルは「……恐縮です」と顔を伏せた。
「すまない、年寄りの感傷に突き合わせてしまったね。私はただ、あの子の父親として礼を言いたかったんだ。いつもあの子の側にいてくれてありがとう。カリムは私より妻に似てとても朗らかな子だろう。……君も知ってると思うけど、私は三男坊だ。私が今のあの子くらいの頃にはまだ兄がいた。一番目の兄は心を病んでしまい、二番目の兄は当主就任を目前にして暗殺されてしまった。情けないことだが、私はただただ恐ろしかった。あの子みたいに、誰の前でも朗らかに笑うことができなかった」
ジャミルが思わず顔を上げると、織物の向こう側にぼんやりと視線をやる当主の横顔が目に映る。布の隙間から漏れ出る明かりが、黒い瞳をほのぼのと浮き上がらせていた。
「それはあの子の天性の才でもあり、あの子なりの努力の賜物でもあるけれど……きっと、心を許せる人間が側にいたからこそ、今のあの子があるのだろうね。本当にありがとう、ジャミル。どうか今日は楽しんでいっておくれ」
当主はそう言うとジャミルに向かって微かに微笑み、織物をまくってバルコニーを後にした。ジャミルはしばらく動けないまま立ち尽くしていたが、やがて己の肩が強張ったままであることに気付くと、大きく息を吐いてバルコニーの柵に手をついた。
「(……あの当主様でさえ、恐ろしかったのか)」
かつて当主に兄がいたことは、この街に住む者ならきっと誰もが知っている。それを当主本人の口から聞いたのは、これが初めてのことだった。
アジーム家は代々この街に大きな富をもたらしてきた一方、内部では家督争いの絶えない、血なまぐさい歴史を持つ家でもあった。だからこそジャミルは毒見の役を買って出たのだし、料理番の真似事もしてきた。厳しい護衛の訓練に耐え、防衛魔法の腕を磨いた。それも全部カリムのため。どん、と大きな音が鳴る。ジャミルははっと目を見開くとして会場の中に飛び込んだ。
どん、どどん。鳴り響くのは大太鼓の音。リズムが素早く跳ねていくのに合わせ、ダラブッカの演奏隊が加わる。大きく開けた会場の中心で伝統衣装を身に着けたカリムが力強くステップを踏み、剣を構えた右手を頭上に掲げ、引いた肘をぴたりと止めた。
太鼓のリズムに合わせて誰かが手拍子を始め、やがて大波のように会場を呑み込む。白い衣装をひらめかせながら、カリムは剣士になりきって踊っていた。手拍子に加わることもせず、ジャミルは遠くからカリムを眺めていた。相手のない剣舞はどこか孤独で、誰とぶつかることもない剣はただの装飾品としてきらびやかに飾り立てられている。
どん。最後の太鼓が鳴り響き、ぴたり、とカリムは動きを止めた。途端に会場は拍手で溢れ、肩で息をしながらカリムは優雅に礼をする。間もなく始まった次の曲は、打って変わって男女がペアとなって踊る熱砂の国お馴染みの舞踊曲だった。カリムは人の輪に飛び込むと、誰かの手を取って中心に戻る。一番上のカリムの妹は恥ずかしそうにはにかみながらもしゃんと背筋を伸ばして腕を上げた。カリムの呼びかけに応え、人々が中心へと進み出て踊りの輪に加わっていく。
ふとカリムの視線が揺れ、踊る人々の間を泳ぐ。探している。カリムはジャミルを探している。カリムから目線を逸らすことができずに、ジャミルはただ立ち尽くしていた。気付け、ここだ。俺はここにいる。輪から外れたカリムがきょろきょろと首を巡らせる。何度目か、見回すカリムの視線が、会場の端にいるジャミルを捉えた。カリムの動きが一瞬止まり、花が咲くように破顔した。
『ジャ・ミ・ル』
大きく動いたカリムの口がジャミルの名を呼んでいる。こっちに来いよ、一緒に踊ろうぜ。そんな声が聞こえた気がした。ぐ、と手のひらを握り締める。心臓が跳ねるように脈打っている。やがてカリムが輪から外れたことに気付いた妹の一人がカリムの手を引いて引っ張り込む。どんちゃん騒ぎの中、カリムの姿はたくさんの人に紛れて見えなくなる。
音楽が変わる。ジャミルはやっと足を動かし、会場の中心へと進み出る。決まったリズムでステップを踏みながら代わる代わるターンをする簡単なダンスだ。大きな人の輪に加わると、料理と香、それから酒の入り混じりったにおいがむっと鼻をつく。誰も彼も楽しそうだ。ジャミルはステップを踏みながらカリムの姿を探す。ターンをして大きく一歩進み出ると、白い衣装が目に映った。ガーネットの瞳がひたりとジャミルを捉える。ぱっと笑ったカリムはくるりとターンをして、ジャミルの方に一歩踏み出した。
カリムに届くかと思った手は、しかし酔っ払った果物屋の親父にひったくられる。カリムはおかしそうに笑って紅茶屋の店主の手をとった。紅茶屋の店主は頬を上気させ、軽やかな足取りでステップを踏む。酒臭さに眉をひそめながら、ジャミルはふらふらと足取りの覚束ない親父の足を踏まないようにステップを踏んでターンをした。視線を向けた先に今度こそカリムの姿を捉えたが、ふらついた親父の背に押されてたたらを踏む。
「おっと、大丈夫か?」
「悪い、この酔っ払い親父め……」
踊り通しのカリムは頬をすっかり上気させ、軽い動きでステップを踏んでいる。
「やっとジャミルと踊れた! どうだ、楽しんでるか?」
「まあな。飯は美味いし、たまには気楽でいい」
「よかった!」
コブラのピアスが跳ね踊り、興奮でうるんだ目が会場の明かりに照らしてぴかぴかと光っている。握った手は熱かった。
「最後まで楽しんでいってくれよ、また後で踊ろう!」
この手を離したくない。胸を突いた衝動のまま、ジャミルはくるりと回ったカリムの腰を掴んで強引に互いの位置を入れ替えた。
「うぇっ!? ジャミル?」
カリムは目をぱちくりさせてジャミルを見上げた。その場に留まったままの二人を気にすることなく周囲の人々は踊り続ける。ジャミルがそのままステップを踏むと、カリムはジャミルを見上げたまま対になって動き続ける。
「びっくりした、どうかしたか?」
「……別に。また酔っ払いが見えたんだ。もう一回付き合え」
衝動のままの行動に、カリム以上に驚いたのはジャミルの方だった。あっさりとジャミルの手を離そうとするカリムに込み上げた衝動の名を、ジャミルはたった今知ってしまった。
「あはは、気付いたらまたジャミルが前にいてびっくりしたぜ」
――ベッドの上で握った手のひら。何度だって挑まれたマンカラ。両親に言われて敬語でカリムに接しようとしたジャミルに、嫌だ、嫌だと大泣きしたこと。ちっともわからないと広げられた宿題を解説してやると、ジャミルは頭がいいな、すごいなと、まっしぐらな賛辞を口にしながら一生懸命に鉛筆を走らせていたこと。誘拐先から逃げ出して、ジャミルが魔法で熾した火を布の下に隠しながら身を寄せ合って暖をとった。震える身体を抱き締めながら、守ってやらなきゃと思ったこと。すっかり食の細くなったカリムが、ジャミルの作る料理だけは、残さずきれいに食べるようになったこと。
――誰よりも、何よりも、一番にジャミルを信じるカリムの目。どんなにカリムが憎らしくとも、ジャミルだけを頼りに手を伸ばされるのがこそばゆくて、その手を振り払うことができなかった。
さびしい。ずっと肩に寄りかかっていたものがなくなった分、ジャミルは身軽になったけれど、同時にそのあたたかさも手放したのだ。
「隙だらけだったぞ」
カリムはまたおかしそうに笑ってジャミルの手を離す。ぴったりおなじタイミングでターンをする。肩より先に巡る視線。カリムと確かに、目が合った。けれども今度はちゃんと前を向いて、別の相手の手をとった。
宴は夜更けまで続いた。歌に、踊りに、料理に酒。最後まで祝いの場に留まったジャミルは、ふわふわとした足取りで帰路に就いた。
宴は滞りなく終わった。ことが発覚したのは日が昇った後だった。
第一夫人が目覚めない。父からもたらされたその報せに、ジャミルは家を飛び出した。
【六. 心を許したっていいこと】
扉が静かに開く。ジャミルはもたれていた壁から背を離してカリムの前に進み出る。落としていた視線を上げたカリムは、「ジャミル」とだけ呟いて薄い笑みを浮かべた。
「奥様のご様子は」
「今は落ち着いてる。ゆっくり、回復を待つしかないって」
三日前、いつもの時間を過ぎても目覚める気配のない第一夫人の様子に違和感を覚えた侍従が医者を呼ぶと、脈がひどく弱っていることが判明した。急ぎ処置を施し血液を調べたところ、夫人の身体から毒物が検出された。急ぎ昨夜の宴の参加者たち、特に夫人と同じ席についていた夫人の親戚と子供らの状態を確認したものの、毒に蝕まれたのは夫人ただ一人。さらに調査を進めたところ、眠る前に夫人がいつも飲んでいる錠剤の瓶から、同じ毒が検出された。
夫人はもともと身体が弱く、成人祝いの宴も早い時間に抜け出して部屋で休んでいたという。宴の最中は会場以外の屋敷の警備が手薄になっていた。数年前から敷地に出入りするようになった庭師が一人、行方知れずになっているらしい。
夫人は丸一日眠り続けたが、翌日の昼には意識が回復した。摂取した毒自体は致死量に満たなかったが、もとより弱っている身体が回復するのには時間がかかるとの見立てだった。しばらくは安静にするよう言い渡され、一日のほとんどを眠って過ごしていると聞かされた。
「……お前は。ちゃんと飯は食べているのか」
昨日までほとんど全ての使用人は屋敷に入ることを禁じられていた。父の話を聞くや否や飛び出したジャミルも追い返され、前日とは打って変わって物々しい気配の屋敷を眺めることしかできなかった。一通りの調査が落ち着き、やっと屋敷の門をくぐることを許されたジャミルは真っ先にカリムの姿を探したが、カリムは時間の許す限り、ずっと母親の部屋にいると聞かされ、こうして部屋の外でカリムが出てくるのを待っていたのだ。
「ダリアがかーちゃんの分と一緒に用意してくれたから、へーき」
カリムの顔は笑っていたが、その声はちっとも平気そうに聞こえなかった。それに、食べているのか、と問うたジャミルの言葉に、きちんと返事をしていない。きっと、ほとんど食べていないのだろう。
「今日の分は、俺が作るから。奥様の部屋で食べるなら、あまりにおいがしないものの方がいいな」
「うん、そうだな。ありがとう」
二人の間に沈黙が落ちる。ジャミルはカリムが手にしているものに視線を向けた。見覚えのあるファイルの中にプリントが透けて見える。
「……それは?」
「ん? ああ、課題のプリント。かーちゃんほとんど寝てるから、その間に進めてるんだ。わかんないとこがあったから、教科書を取りに行こうと思って」
胸の高さまで持ち上げられたプリントには、きちんと回答欄に書き込みがされている。去年の夏の終わり、カリムに泣きつかれて夜まで付き合ってやったことが、昨日のことのように思い出される。
「起きてるときに学園の話や魔法のことを話すと楽しそうにしてくれるんだ。ちょうどコップ一杯の水をユニーク魔法で出してみせたら、すごく喜んでくれた」
カリムはファイルを腰の高さで持ち直すと、「じゃあオレ、もう行くな」と言ってジャミルの横を通り過ぎた。振り返ったジャミルは口を開きかけたが、結局音にしないまま口を閉じる。毒に侵された母の隣で、一人黙々とブリントに視線を落とすカリムの姿を想像すると、胸の真ん中が冷たくなるような心地がした。泣き言ひとつこぼさなかったカリムを前に、いったいジャミルに何が言えるというのだろう。
ジャミルは第一夫人の部屋への入室は許されていないので、夫人付きの侍女であるダリアにカリムの食事を運んでもらった。返された食器の中身が空になっているのを目にするまで、ジャミルはずっと落ち着かない気分のままだった。夜も同じように食事を作り、ダリアに託したところで、屋敷に留まる意味を失った。あれから一度もカリムと顔を合わせぬまま、ジャミルは帰途についた。
夜番の母とすれ違い、用意されていた食事を温めてジャミルの後から帰宅したナジュマと食卓を囲った。父からは遅くなると連絡があった。ナジュマはいつも通りに振る舞っていたが、アジームの敷地全体を覆う物々しい空気に心配と不安を抱えているのがなんとなしにうかがえた。ジャミルは努めてなんでもないようにカリムと夫人の様子を伝え、父が帰るまで二人で音楽番組を眺めていた。早朝から家を出ていた父は疲れた様子で帰宅し、食事を終えると早々に自室へと引き上げていった。
夜中に母が戻る音を耳にした後も、ジャミルの目は冴えたままだった。みなが寝静まった家の中、風の音を聞きながら開いたままにしておいたカーテンの外を眺める。東の空から昇った満月が、そろそろ窓枠の外へ消えようとしていた。
薄雲が満月を覆うと、闇が一段深くなる。仰向けに寝転びながら、ジャミルは決して窓から視線を外さなかった。薄雲が通り過ぎると、煌々と照る月が顔を出す。
その中を、小さな影が横切った。
「っ!」
ジャミルは枕元に置いていたマジカルペンを掴むと、音を立てないよう注意しながら窓を開けた。
ゆらりとカーテンが揺れたかと思えば、次の瞬間にはまっしぐらに月影を目指す一つの影が夜空を走り抜けていた。
箒の柄を握り締め、ジャミルは冷たい夜風を切り裂きながら視界に捉えた影を見失わぬよう、またたきひとつをもどかしく思いながら全力で箒を飛ばした。折り悪く現れた雲の向こうに隠れてしまった影を追いかけながら目を凝らす。こんなに必死でカリムを追いかけるのはいつぶりだろうか。そんな状況ではないはずなのに、なんだかおかしくなって口元が引き攣る。
結局、ジャミルにとってカリムとはなんなのだろう。どうしてこんなにも必死になってしまうのだろう。ぽつり、頬に冷たいものがぶつかる。やっと追いついた背中に向かって、ジャミルは大きく口を開いた。
「カリム!!」
振り返ったカリムの目から、月明かりにきらめく水滴が散るのが目に映った。絨毯は心得ているとでも言うように速度を落とし、箒で飛ぶジャミルの横に自ら近づいてくる。絨毯の上に着地すると、心臓が煩いほど暴れ回っていた。耳がキンと鳴り、薄い空気の中で喘ぐ。
「ジャミル、だ、大丈夫か?」
「はぁ……はぁ……平気だ、少し飛ばし過ぎた……」
そっとジャミルの背に触れた腕。身を寄せると風の冷たさが遠ざかる。カリムが身体に巻き付けていたブランケットの端を広げると、ばさばさと大きな音がして風に煽られた絨毯がよろめく。ジャミルはすかさずブランケットを掴み、広がった布をぴったり巻き付けて膝に挟んだ。あたたかい。あたたかな体温が、ジャミルの左肩に触れている。
「なんでここにいるんだ?」
「お前が今夜、ここに来ると思ったから」
涙はすでに止まっていた。カリムの大きな瞳の中に、ジャミルは自身の影を見た。
「放っておけなかったんだ」
カリムはゆら、と視線を揺らし、迷子のような顔をして俯いた。
「なんだよそれ……なんで……」
「お前が、なんにも言わないから。誰にもなんにも言わずに、ここに来ると思ったから、待ってた」
「わかんねぇ、オレ、ジャミルがわかんねぇよ……! なんで、オレが一人になりたいときに、優しくしちゃうんだよぉ……!」
ブランケットの内側で、カリムの肩を引き寄せる。目尻の涙がわだかまって、二人の間に流れて落ちる。
「オレのせいだ、オレのせいでかーちゃんが倒れちまった」
ひっく、としゃくりあげるカリムの肩を、強く、強く引き寄せた。わああん、と声を上げて泣くカリムがジャミルの肩に額をつける。ジャミルはカリムの肩をゆっくりとしたリズムで撫でながら、震える吐息を受け止めた。
「……お前のせいじゃない」
「オレを産んだから、かーちゃんは身体が弱くなったっ、オレに毒を食わせられないからって、かーちゃんに嫌がらせしたんだ……っ! オレ、オレっ、自分のことばっかりで、かーちゃんのこと、ちゃんと、守れなかった……っ!」
死んじまうかもしれなかった。いっそう大きく背中を震わせながら吐き出すようにそう言ったカリムに、ジャミルは何も言えないで、ただ寄り添い続けた。美しいばかりの星空の下、ジャミルとカリムはこんなにもちっぽけで無力なままだ。
ジャミルがここに来なくとも、きっとカリムはからりと笑って日常に戻っていっただろう。カリムはそういうヤツだ。ジャミルが余計な手出しをしなくたって、前を向いて走っていけるのだ。
きっとこの先何度だって、カリムは一人で夜空を泳ぐのだろう。いつだって手の届く場所にいるとは限らない。そうして明るい太陽の下、あっけらかんと笑いながら前を向いて進むのだ。
腹が立つことは数知れず、顔を見たくない日だってきっとある。だけど、それでも、これまでずっと隣にあった温もりを、なかったことにはできない。こんな夜には余計な世話を焼いたっていいじゃないか。きっと何も変わらない。カリムはカリムで、ジャミルはジャミルで、自分で決めたように進み続けるしかないのだから。
声を上げて泣き続けたカリムに、ジャミルは空の端が白むまで付き合った。
「ありがとな、ジャミル」
窓から部屋に戻ったジャミルは、目元をパンパンに腫らしたカリムの顔を眺め回した。
「……今日は早めに行くから、部屋で待ってろ。できれば冷たいタオルで目元を冷やして寝た方がいい」
「あはは……なんとかなるかなぁ」
「手は尽くしてやる」
カリムは神妙な顔でまぶたを指先で撫でた。それから悪戯っぽく笑って絨毯の上であぐらを組む。
「じゃあ、頼りになる従者さんが起こしに来てくれるまで、部屋で待ってるな」
「それはそれは。昨夜はいったい何があったのかと、さぞ心配するでしょうね」
「意地悪だけどときどき優しい幼馴染が側にいてくれたから大丈夫だって、教えてやった方がいいかな」
ひとつ、呼吸を置いて、カリムは表情を変えないまま続けた。
「それとも、やっぱり優秀な従者さんが、友だちのふりしてくれてるだけだったのかな」
ぐぬ、と喉に何かがつかえる。お前、それを聞くのかよ。察しろよ。いっちょ前に不安なんか感じやがって。
幼馴染、そうか。それならまあ、いいかもしれない。腐れ縁のようなものだ。物心ついた頃からたまたまそこにいただけ。ずっと、ずっと、これからも。
「今は業務時間外だ。わかったらさっさと行け、おやすみ」
目を見開いたカリムの前で、シャ、と思い切りカーテンを引いた。ぼすん、とベッドに倒れ込む。ああ、もう、耳が熱い。叫び出したいような衝動を堪えながら、枕に顔を押し付けた。
やっぱりカリムが嫌いだ。十八年も嫌いだったんだから、これからもずっと嫌いだ。でも。
次の十八年ではきっと、もう少し上手くやれるだろう。