五条家のある日①「ナナミン〜、やだよぉ。おれもいくぅ〜〜、っけほ」
「ダメです。そうやって咳も出ているし熱もあるんです。残念ですが悠仁くんはお留守番です」
「う、うぇ、やだぁ〜」
いつも素直で聞き分けのいい悠仁が珍しく駄々を捏ねていた。そこはベッドの上。本日は幼稚園のお遊戯会があったのだが、熱を出してしまい欠席するように言い渡された結果だった。七海はいつもはキリッと上がっている眉を下げ、悠仁の背を撫でてやりながら困り顔だ。
「泣かないで下さい、熱が上がってしまう」
おでこに貼られた熱冷ましのシートの上に手を当てれば冷却目的のそれは既に温いように感じ、七海はさらに心配を募らせた。普段とは違う様子は熱にうかされて感情のコントロールが上手くいかず、不安をそのまま表にだしているのだろう。
「七海〜、そろそろ出ないとじゃない?」
声に振り返れば扉の前にはうつるから入らないようにと言われている恵と野薔薇が部屋を覗き込み、その後ろに五条が立っている。五条が言う通り家を出る時間は迫っていた。悠仁と同じ幼稚園に通う恵と野薔薇は既にスモックを来て肩から通園バックをかけていつでも出られる状態で、いつになく取り乱している悠仁を不安気に見つめている。
「そうですね……」
「ナナミン! やだ! げほっ、おいてかないで!」
「悠仁、ダメだよ。悠仁には僕がついててあげるから今日は留守番。そんな状態で行ったら先生も友達も困っちゃうよ」
「う、でも、こほっ。……じゃあ、ナナミンいっしょにいてよぉ」
涙でぐしゃしゃにしている顔を七海のシャツに押し付けて必死に縋り付く様に七海は服が汚れることもかまわずぎゅっとだきしめてやった。そしてこのまま付き添うべきかと思案する。
「五条さん……、やはり私が悠仁くんと」
「ダメ。前の参観日は七海行けなかったから今日は絶対行くって前から決めてたでしょ。恵や野薔薇とも見に行くって約束したよね?」
今日のお遊戯会はもちろん2人の晴れ舞台でもある。今日まで七海と一緒に練習をしてきた成果を見届けると約束していた。悠仁だけを優先するわけにはいかないと七海もわかっている。しかし普段あまりわがままを言わない悠仁のこの様子になかなか手を離させる気になれなかった。
「わたしはべつにいいけど? いたどりナナミンだいすきだし、ゆずってあげてもいいわよ」
「おれも。だいじょうぶです」
「お前たちが友達思いで優しいのは良い事だけど二人が我慢することじゃないよ」
五条は恵と野薔薇の頭を撫でてから悠仁と七海の元へ歩み寄る。七海と反対側に腰かけてそっと悠仁の頭に手を置いた。
「悠仁も七海に今日の劇見て欲しかっただろ? 恵と野薔薇も一緒だよ。出られなくなっちゃったら悲しいし、悠仁が七海独り占めしちゃったら二人とも寂しいんじゃない?」
五条の言葉に悠仁はゆっくりと顔を上げ、離れた場所で立っている二人に目を向けた。困ったような顔をしている二人を見て申し訳なくなるが、まだ七海から手を離す事が出来なかった。少し落ち着いたがグズグズと鼻を鳴らし、七海と離れたくない寂しさと二人を悲しませたくない気持ちが葛藤する。
「……、でも、おれ……どっちもやだよぉ」
七海が行ってしまう所を想像してじんわりと涙がまた浮かんでくる。
「悠仁くん……」
咳をしながら嗚咽を漏らす悠仁に七海も弱り果てた声を出す。涙のあとを拭ってやりながらどう答えたものか考えあぐねていた。その様子を見ながら五条は小さく溜息を漏らし、一番効くであろう言葉をなげかけた。
「悠仁、このままでいいの? 七海困ってるよ。恵と野薔薇との約束守れなかったら七海も悲しくなっちゃうんじゃない?」
「う? あ……、やだ、けほっ、けほっ。ナナミン、ゴメン、……こほんっ。ごめんなさいっ、ナナミン、もうわがままいわないから、ぐすっ、きらいにならないでぇ」
泣き声を大きくしはじめた悠仁を七海は慌てて抱きしめた。
「悠仁くん、大丈夫です。嫌いになったりしませんよ。大丈夫。……でも恵くんと野薔薇さんとの約束が守れないのは確かに悲しいです。悠仁くんには五条さんがずっとついていてくれます。二人と一緒に行ってきてもいいですか?」
七海は悠仁の顔をそっと包み込み視線を合わせてほほ笑みかける。悠仁がポロポロと涙を零しながらも小さく頷いたのを確認してようやく七海は安堵の息を吐いた。五条は七海から向けられた視線にうなずき返し、悠仁をゆっくりと抱き上げた。もう抵抗なく悠仁の手は離れ、五条の膝の上に抱き上げられる。くたりと五条にもたれながら涙を拭っている。
「悠仁もいい子だね。お薬飲んで寝てたらみんなすぐ帰ってくるよ。その間は僕が手を繋いでてあげるからそれで我慢してよ」
「……うん」
七海は悠仁の顔を覗き込んで頭を撫でる。
「二人の姿をしっかりカメラに収めて来ますから、帰ってきて熱が下がっていたらみんなで一緒に見ましょうね」
「うん」
「なにか欲しいものはありますか? 買って帰ってきますよ」
「アイス、たべたい。……でも、はやくかえってきて」
「分かりました。お遊戯会が終わったらアイスを買って出来るだけ早く帰ってきますね」
「うん」
「よし、じゃあここでいってらっしゃいしようか」
「めぐみ、のばら、……けほっ、がんばってね。いってらっしゃい」
熱が上がってきたのかぼんやりとした様子ながら、入口で待つ二人に手を振った。
「あんたのかわりはわたしたちがやってくるから、ね! だからちゃんとねてなさいよ」
「いや、おれたちでるところいっしょだからかわれない」
「やれなくてもやるの!」
「……かわれないけど、できるところはがんばってくる」
意気込む野薔薇と冷静な恵のやり取りが微笑ましい。グッと拳を出して気合いを表してみせる二人に悠仁はへにゃりと笑ってそのまま目を閉じた。息は荒いままだが眠ってしまったようだ。
「寝ちゃったみたいだね。じゃあ三人とも悠仁の分まで楽しんできなよ」
「せんせー、ちゃんとゆうじおせわしてあげてよね」
「分かってるよ。任せといて。安心して2人は舞台に集中! 頑張ってね」
「はい」
「まかせて!」
元気よく頷く二人に五条は笑顔で手を振った。
「さぁ、二人は靴を履いて待っていてくれますか。私は着替えてからすぐ行きますくから」
二人はバタバタと玄関へとかけて行った。それを見送って七海はジャケットを脱ぎながら五条を振り返る。
「ではあとはお任せします」
「OK。なんかあればすぐ連絡するけど、大丈夫でしょ。七海は心配しないでしっかりカメラマンしてきてよ」
五条は七海の持っていたビデオカメラを指さした。三人が来た時に買って以来毎回活躍するそれの扱いは慣れたものだ。
「ええ。楽しみに待っていてください」
「あ、僕今日はチョコレートの気分」
「はいはい。チョコレート系の物を選んできますよ。それでは行ってきます」
「七海、忘れ物」
五条はちょいちょいっと自身の唇をつつく。ともに暮らすようになってからの恒例だ。しかし、それは子供たちが居ない時のみ。
「ゆうじくんがいますよ」
「よく眠ってるんだから良いでしょう? お利口にお留守番する僕にご褒美」
ため息をついて七海はベッドへと舞い戻る。待ち構える五条を無視して七海は眠る悠仁の頬にキスをした。
「いってきます」
「おい」
五条がムッとほほを膨らませるので七海はふふっと笑う。そして今度こそチュッと音を立てるバードキス。
「いってきます」
「いってらっしゃい」