運がいい男(自認) 2025年8月13日午後8時19分、代表合宿中の牛島若利が大浴場から自室に戻ると、同室者である影山飛雄が牛島のベッドの上でタブレットを見つめていた。それ自体は特に珍しいことでもなかったが、常の彼とは違う箇所があったため、牛島は思わずといったふうに足を止めた。具体的に言うと、影山の艶やかな黒髪には赤い大きなリボンがついており、更に首にも同色の長いリボンが結ばれていた。首に巻かれたリボンは、結び目から腰元まで垂れていた。見慣れない光景に、牛島は戸惑った。
「あ、おかえりなさい、牛島さん」
牛島に気がついた影山が、タブレットから顔を上げた。牛島はそこでようやく、影山の頭につけられたリボンがカチューシャであることに気がついた。頭頂部に結び目がある、童話のヒロインがつけているようなものだ。見慣れぬ装飾品をしばし見つめていると、影山は不思議そうに首を傾げたあと「あ!」と声を上げて、その場に正座をした。
「お誕生日おめでとうございます、牛島さん。俺がプレゼントです」
影山は、声高らかにそう宣言した。
「誕生日のプレゼントなら、昼休みに貰ったが」
「追加? です」
「宮か」
「すげぇ、何でわかったんすか?」
「そんなことを思いつきそうなのは、今の面子の中では奴だけだからな」
洗濯物が入っていたバッグを定位置に戻して、影山が居座る自分のベッドに向かう。どっかりと腰を下ろすと、ベッドの上で正座をしていた影山が僅かに揺れた。
「概ね想像はつくが、宮に何を言われた?」
「はぁ。牛島さんが風呂行ってる間に侑さんが来て、牛島さんの誕生日に何あげたのか聞かれたんで、今年は姉からおすすめされたヘアケアセットにしましたって言ったら、つまらない、そんなもんじゃ牛島さんは喜ばないからってこの頭のやつとリボンつけられて、俺をプレゼントにしろって言われました」
「なるほど」
「ほんとは牛島さんが部屋に帰ってきたときはベッドに寝てないといけなかったんすけど、今日の練習の録画見てたら忘れちまって」
「なるほど」
ベッドに乗り上げ、影山と正面から向かいあった牛島は、腕を組んで頷いた。これはアレだ、宮侑のいつものイタズラでもあるが、同時に彼からの心のこもったバースデープレゼントと言っていいだろう。
「参考までに聞くが」
「うす」
「自分をプレゼントする、という行為の意味は理解しているか?」
「うす。やらしいことしてもいいって意味ですよね?」
「そうだ」
牛島は深く頷いた。なるほど、宮侑はきちんと『自分をプレゼントする』の意味も影山に教えていってくれたらしい。かたじけない──牛島は心の中で侑に礼を言った。ちなみに「かたじけない」などという古風な言い回しが出てきたのは、牛島が男子バレー界でずっと「武士」「サムライ」等と呼ばれてきたこととは特に関係がない。
それはさておき、なぜ牛島が宮侑に感謝の念を抱いたかといえば、もちろん牛島と影山が恋人同士だからである。牛島は、自分が2歳年下のセッターにベタ惚れだという自覚があった。
朴念仁とはいえ牛島も男であるから、惚れた相手とイチャイチャしたいという欲はある。だが相手はバレー以外はポンコツで名高い影山飛雄、情緒が小学生並みの彼には「私がプレゼントです♡」といった色気のある発想自体がそもそもないのだが、その影山に「私がプレゼント」を理解させ、やらせただけでも大したものだろう。さすがは宮侑、口から生まれたと豪語するだけはある。
なお、牛島若利と影山飛雄はシュヴァイデンアドラーズに在籍していた頃からの仲であるが、ふたりの関係を知っているのはごく僅かな身内のみで、日向翔陽には「影山から牛島さんの匂いがする……!!」と早々に勘づかれたものの(野生動物だろうか)、それ以外からは仲のよい先輩後輩と思われている。しかし昨年のパリ五輪での敗北の後、気が緩んでしまったのか、うっかりキスを交わしている場面を侑に見られてしまい、現在に至る。牛島も影山も「まあバレたら公表すればいいか」くらいの気持ちでいるので実害はないのだが、宮からはことあるごとに「恋バナしましょうや……」と絡まれるようになった。今までは適当にあしらっていたのだが、どうやらここに来て、大きな借りができてしまったようである。
「俺がやっても嬉しいもんですか、こういうの」
ベッドの上できょとんと首を傾げる影山の首元から垂れる赤いリボンを手に取って、牛島は「もちろんだ」と答えた。
「意中の相手から好きにしていいと言われて、喜ばない男はいないだろう」
影山はふぅん、と鼻を鳴らした。猫のような仕草であった。
「俺はそういうのあんまわかんねーけど、牛島さんがいいなら、まあ。あ、今はやらしいのはダメっすけど」
「大丈夫だ、言われなくてもわかっている」
影山の体に触れるかわりに長いリボンを指先で撫でながら、小さく笑みを浮かべる。今は代表合宿中、当然ながら影山の体に負担をかけるような行為は望ましくない。そうでなくとも、牛島はこの時期に影山に触れるつもりなど毛頭なかった。
今回は侑のおかげでこうなっているが、牛島と影山が合宿中や大会中に恋人らしい雰囲気になることは、基本的にあまりない。それはふたりにとって『一番はバレー』という共通項があるからだ。口に出すまでもない大前提だった。
たぶん、だからなのだろう。牛島が、影山と過ごすことを心地よいと感じるのは。
ふたりの間には、多くの共通項がある。それ故なのか、口に出さなくても通じ合うものがある。簡単な日常の過ごし方から、言葉で説明するのは難しい物事の感じ方まで、幅広く。
言葉を尽くして妥協点を探る努力を厭うわけではないし、必要なことはきちんと伝えるのは当然として──自分が想いを寄せた相手と、そういった特別な空気感を共有できることは、幸運と言っていいだろう。
牛島は影山の首に巻かれたリボンの端を指で弄りながら、「ところで影山、プレゼントの受け取り期間はどのくらい有効だ?」と尋ねた。「受け取り期間?」と、影山の頭上に疑問符が浮かぶ。
「せっかくのプレゼントだ、有効に使いたい」
「別に決まってねーけど……」
牛島はふむ、と一度、わざとらしく頷いた。
「それなら、おまえが現役を引退してから受け取ろう」
「はあ? 何年先の話だよ」
「何年先でもいい」
至極真面目な顔で答えれば、影山がぼそりと「俺、おっさんになってますけど」と呟いた。牛島はそれに「俺もおっさんだな」と返した。
「おっさんの俺と、やらしいことしたいんすか?」
「したい。というか、年齢は関係ない。現役の間は、どうしてもおまえのコンディションを考えるからな。だからおまえが現役を引退したら、抱き潰す、というやつをやってみたい」
「いや、潰れねーけど……」
牛島のド直球な物言いに、影山が僅かに頬を染める。彼はいつものように唇をム、と尖らせて、牛島の顔を見た。少し上目遣いになっているのが、とても可愛い。
「牛島さんって」
「うん?」
「結構スケベですよね」
「おまえ限定でな。今更、何を言っている。もっとわからせたほうがよかったか」
「いや、いいっす。エンリョします」
ぶんぶんと頭を左右に振ってから、影山は改めて正面から牛島を見た。コート上できらきらと輝く冬の夜空のような瞳が、真っ直ぐに牛島を射抜く。コートの中でも外でも、牛島はその瞬間がとても好きだった。
「俺、まだまだ現役続けますから、かなり先になりますけど。牛島さんが、それでいいなら」
「もちろんだ。俺もまだ現役を引退する気はない」
「そうじゃなきゃ困ります。牛島さんは、日本のエースですから」
言って、影山が不敵に笑う。牛島の胸を焦がす、バレーの化身の笑みだった。
一ヶ月後には世界バレーが、その後はすぐにクラブシーズンが始まる。クラブシーズンが終われば、来年はロス五輪の出場権を賭けたアジア選手権が、その2年後にはロス五輪がやってくる。まだヒリヒリするような勝負の世界に身を置いて、ただあのボールだけを追いかけていたい。
その瞬間、己が飛ぶコートの中に影山がいようといまいと、強く影山を感じ、繋がりを感じる。同じ世界で同じように生きる相手と出会えた奇跡を、一番強く感じる場所に──まだまだ居たいのだ。
影山飛雄とバレーボールは、決して切り離せない。
そして牛島若利とバレーボールもまた、決して切り離すことはできない。
牛島若利が影山飛雄というセッターと出会ったこと、同じ時代に生まれたことを、運命的と言わずして何と言おう。
牛島は己の運命のセッターの手を取って、そのうつくしい指先にキスをした。影山の体が、僅かに揺れる。大会前の合宿中ではあるが、誕生日という特別な日だ。このくらいは許されるだろう。
「……俺より牛島さんのが早く現役引退すんだから、牛島さんが先にヘバるんじゃないですか」
牛島に手を取られたまま、今や耳の端まで紅く染めた影山がそんなふうに言ったので、思わず笑ってしまった。来年には三十路に足を突っ込もうというのに、影山は今でも時折、こういった初々しい反応をする。
年齢的にもポジション的にも、影山よりも自分の引退が早いのは当然だろう。同年代には既に現役を引退した選手も多くいる。
しかし、勝負しか存在しないコートを去っても、その先の人生に変わらず彼がいると思うと、それも悪くないと思う。
「そうだな、おまえより先にヘバらないよう、引退しても体力作りと筋トレは続けることにする」
もう一度、彼の指先にキスを落として、遠くない未来に想いを馳せる。
今はまだ、うまく想像すらできない未来。
色々なものが変わって、今とは違う悩みや苦しみも存在するのであろう未来。
その中に、変わらずに自分を見つめる夜空のような瞳があることだけは、疑わない。
ああ、やはり──自分は、運がいい。
そう思って、牛島は笑った。