何も言わなくても.
修行を終えた悟飯とトランクスが並んで腰を下ろすと、気持ちのいい風が頬を撫でた。悟飯は竹で作った水筒をトランクスに手渡した。
「今日はよく頑張ったな、トランクス」
悟飯にそう褒められて嬉しいのは、武術の師匠だからだけではない。トランクスにとって悟飯は、それ以上の大切な存在だった。ついにやけてしまう口元に水筒を持っていくと、中には川で汲んだ水が入っていた。汗を沢山かいたトランクスの体が、今一番求めているものだ。
「ぷはっ……おいしい!」
「……」
「はい、悟飯さんも」
「……」
「悟飯さん?」
半分ほど残った水筒を、トランクスは悟飯に返そうとした。だが悟飯はじっとトランクスを見つめたまま動こうとしない。黒い目はトランクスを真っ直ぐに捉えていた。
(ど、どうしたんだろう、悟飯さん……怒ってる…わけじゃないよね……?)
確かに悟飯は武術の師匠としては厳しい。だが理由も言わずに黙り込むようなことはしない。指摘したいことがあるなら、はっきり言うはずだ。だからこそトランクスは困ってしまう。さらに、あることにトランクスは気付いてしまった。
(あれ、なんか……ちょっとずつ距離が……近づいてる…!?)
気のせいではないだろう。先程までは、悟飯の後ろに風景が見えていたのに、今はもうトランクスの視界は悟飯でいっぱいになっている。
(もしかして……キ、キス……?)
そんな可能性がトランクスの頭をよぎるのも無理は無かった。二人の現在の関係を説明するのに、幼なじみと師弟だけでは最早不十分になりつつあった。ごくり。トランクスは自分の喉が鳴るのを聞いた。でも逃げたいとは思わなかった。
(悟飯さん……)
そうするのが何となく自然に思えて、トランクスは瞼を下ろした。悟飯の顔が見えなくなるが、流石にこの至近距離で見つめられるのは少し照れる。
(悟飯さん、好き……大好き……)
13歳なりの覚悟を決めて、トランクスは人生初めての感触を待った。だが――いつまで経っても、唇に何かが触れる感覚はなかった。トランクスがそっと瞼を開くと、やはり悟飯の顔がすぐそこにあった。
「トランクス、君……本当にきれいな顔してるなあ……」
「……はい?」
「わかってたつもりだけど、こうして改めて見るとさ。そう思わずにいられないなって、うん」
そんな風にしみじみと言われても、トランクスはあまり嬉しくなかった。いや、好きな人から「きれいだ」と言われて嫌な気はしない。しないのだが――下手に別の期待してしまった分、素直に喜べないのだ。
「もう、いいですよ……」
「あれ、どうした?」
「どうもしませんっ」
がっかりやら恥ずかしいやらで、トランクスはこの場から逃げ出したい気分に駆られた。悟飯があと一秒動くのが遅ければ、実際トランクスは舞空術で飛び立っていたかもしれない。だがトランクスは、その一秒を何も出来ずに過ごした。
「……っ…」
今度は目を閉じる暇もなかった。それどころか、トランクスは大きく目を見開いていた。そしてその空色の瞳は、目の前にいる人物を映すだけで精一杯だった。
「……いや、だった?」
自分に触れたばかりの唇で悟飯にそう聞かれ、トランクスは「そんなことない」と言おうとした。だが動揺した唇が上手く動いてくれなくて、意味のない言葉しか出てこない。しかしその原因である張本人は、呑気にこんなことを言うのだ。
「トランクス、顔真っ赤だよ。大丈夫?」
大丈夫なわけないじゃないですか――と答える代わりに、トランクスは目の前の山吹色に思いっきり抱きついた。今の気持ちを伝えるのには、言葉よりこちらの方がきっと速い。