たった二年ぽっちの現世の生活でも、オモシレー出会いが山ほどあった。小野天子……、生きた人間たちとソイツらがつくウソのおもしろさは言うまでもねーが、食い物だってそうだ。
シガレッチョとの出会いはハッキリと思い出せる。煙草のような見た目をしているのに、実は白い砂糖でコーティングされたチョコレートだという。現世では菓子もウソをつくのか。地獄にこんなオモシレーものはない。
ウソが大好物のオレっちは、そんなウソツキな駄菓子に心を惹かれた。その場で買って一本ガリっと齧ってみれば、オトナのチョコレートとパッケージに銘打ってあるとおり、後味はほろ苦かった。
オレっちはそのシガレッチョという駄菓子をいたく気に入って、毎日のようにソイツで口寂しさを埋めていた。現世に通い始めてからずっと、平穏な一日も、大事件が起こった日も、いつもシガレッチョがそばにあった。
◇
八百小の卒業式の後、天子ちゃんとデートをした。慣れ親しんだ八百町の景色を、ずっと一緒に見て回って、思い出話に花を咲かせた。
そこで、いつも遊びに行っていた駄菓子屋の、まつしたやに寄ったときのこと。まつしたやのオバチャンに、ありがとな、と感謝の言葉を伝えるだけでは、足しげく通ったわりには別れの挨拶に少し物足りねぇ気がして、最後に思い出深いシガレッチョを一箱だけ買った。いつもの流れですぐにズボンのポケットに突っ込んで、箱を開けるタイミングがないまま、公園で天子ちゃんとお別れをして――。“ついウッカリ”、地獄まで持ってきてしまった。
現世からは何ひとつ持ち帰るつもりはなかったんだ、あの細工をしたシガレッチョ一本以外は。……神もこれぐらい餞別にするのは許してくれるだろ。
◇
地獄に戻ってからというもの、文字通り地獄のように慌ただしい日々が始まった。河のような大行列をなす死者の魂たちの罪を裁き、山のように積もった決裁待ちの書類を捌く。さらに邪仏との戦後処理のために天国や神とやりとりをする。夜中にも緊急の呼び出しがあるもんだから、あまり気が休まる心地もしない。長い間地獄を不在にしていて仕事を溜めたのは自業自得な上に、喪失感から気を紛らわすために、わざと自分で仕事を増やしている節はあるが。
仕事やらウソ暴きやらで、頭をフル回転させて疲れきったときにはシガレッチョを齧るに限る。頭を貫くような甘味が体中に染み渡って、力が湧いてくるから。
だが、天子ちゃんが口にした、あの特別な一本は、天子ちゃんが記憶を取り戻すまで、オレっちが噛み砕いて飲み込んでしまうわけにはいかない。それに、キセキやら魔力やらを練りこんであるから、オレっちが口に含めていても、まったく溶けないようになっている――すなわち味がしないのだ。
さすがのオレっちでも、疲れ果ててもう限界だ、と思ったタイミングで、まつしたやで買ったシガレッチョを箱から一本取りだして、ガリっと齧る。バリバリと砂糖のコーティングが砕ける音の心地よさを楽しみながら咀嚼して飲み込んで、口の中に残った苦味と甘いべたつきが消えるまでのわずかな時間だけ、現世を思い出して感傷に浸り、すぐに仕事に戻る。
そうやって一箱にたったの三本しか入っていないシガレッチョを、何日もかけて一本目、二本目と大事に消費していき……、名残惜しく思いつつも、我慢しきれずとうとう最後の三本目に手を出してしまった。空っぽになった箱も、なんだかすぐに捨てる気にはなれず、しばらく眺めてからポケットの中にしまい込んだ。
きょうの仕事が一段落したタイミングで、いつものようにポケットからシガレッチョの箱を取り出した。それが空っぽになっているのを忙しさですっかり忘れていて、蓋を開けて中身を探した。指が箱の厚紙だけをさらっていることに気付いた瞬間、ヒュッと呼吸が止まるような心地がした。
苦しい。ウソバテしたときのように息がぜいぜいと鳴る。禁断症状というやつか。あの駄菓子は、“現世の人間が作ったウソ”のひとつだったんだ。生きた人間のウソの美味しさを覚えちまったのに、今となってはもう、地獄の亡者たちの無味乾燥な嘘にしかありつけないなんて。考えただけで気が狂いそうになる。
現世での思い出以外は、なにもかも置いていく覚悟はしたつもりだったのに、“たかが駄菓子”ひとつにさえ、こうも囚われるとは。それだけ現世の生活でのささいな幸せが、オレっちの中で大きな存在になっていたのに、失ってから気付かされる。何千何万年と生きてきて、何もかも分かった気になっていた己を恥じた。
こんなことになるなら、もっと買い置いておくべきだったか。後悔して泣いてわめいても、無いモノは無い。どうにかしてもう一度あれを口にできないか。あれこれ策を思いめぐらせるうちに、いい考えが思いついて、ネクタイの通信機に手を伸ばした。
「バトラー!頼みがある。」
◆◇◆
わたしは、アスタロト族のバトラー。地獄王側近として、ゴクオーさまに長年お仕えしている。その仕事はゴクオーさまのサポート……地獄王としての仕事の補佐だけでなく、身の回りのお世話もする。
ゴクオーさまは、つい先日現世からお戻りになってから、随分と気落ちしていらっしゃる。表面上は気丈に振舞っておられるから、事情を知る側近や地獄長たち以外に、その胸の内はなかなか気付かれはしないのだけれど。
普段とは打って変わってマジメに仕事をしてくださるので、正直感涙にむせびそうなほど助かっているのだが、やはり空元気を振り絞っていらっしゃるご様子は、見ているだけでも痛ましく、わたしにできることであれば、少しでも力になってさしあげたかった。
◇
ゴクオーさまから緊急通信が入ったのは数刻前のこと。息を荒くするゴクオーさまの声を聞いて、いったい何があったのかと身構えていたら、
『シガレッチョがどうしても食べたい。おまえ、料理が得意だろう。頼む。作ってくれねぇか。』
とのことで、少し拍子抜けしてしまった。
シガレッチョは、ゴクオーさまが現世に通い始めたころからの一番お気に入りの菓子で、毎日のように喫食されていた。
わたしも一度だけ口にしたことがある。以前地獄で重大なトラブルが発生し、一日中ゴクオーさまと一緒に対処したときのこと。仕事の終わりにシガレッチョを煙草を勧めるように差し出された。
『今日はご苦労だったな。一本吸うか?』
わたしはそれを受け取って、たわむれに煙草を吹かす仕草をしてみた。するとゴクオーさまは目をまん丸にして、
『なんだ、お堅いおまえも冗談が分かるようになったのか。』
と言って、ケケケ、とからかうようにお笑いになるから、気恥ずかしさで顔から火が出る心地がして、やはり慣れないことはするものではないな、と思いながら、甘くてほろ苦いシガレッチョを、ぽりぽり……、と齧った。
――そんなことがあったと思い返す。
◇
さてと。確かにわたしは料理が好きで、普段からよく作っているから、自宅には一通り製菓用の調理器具もそろっている。
だが、レシピも手に入らない駄菓子を再現してみてくれなどと、まったく、ゴクオーさまはいつも無茶をおっしゃる。……それでも、期待されたからには応えたい。
シガレッチョ作りは、材料集めから少々骨が折れた。地獄は、生前に罪を犯した魂が罰を受ける場所という側面もあって、現世や天国では当たり前に手に入る嗜好品でも、なかなか手に入らないことが多い。甘味の類はその最たるものだ。
普段人間が食べているような質の良いものは、天国からの使者をもてなす際に特別に供されるぐらいで、飢餓地獄の外れにある食糧庫に厳重に保管されている。わたしは食糧庫を管理する地獄兵に掛け合って、シガレッチョ作りに必要な貴重な材料を持ち出した。
自室の厨房に立って、いよいよシガレッチョ作りに取り掛かる。
シガレッチョは、コーヒーの苦味が特徴の棒状のチョコレートに、パリパリとした白い糖衣がかかっており、まるで煙草のような形になっている。これをどうやって再現しようか、考えた方法を試してみる。
まずは型紙作りだ。クッキングシートを小さめに切り取って、煙草の太さにくるくると巻く。あとで糖衣をかけるから、その分の厚みだけ先端に向かって細くしておく。チョコレートが漏れ出さないように、筒の片側の端っこを、何重にか折り込んで閉じる。
地獄では貴重品のチョコレートを細かく刻んで、湯せんにかけて溶かす。溶けたチョコにインスタントコーヒーを加えて、よくかき混ぜたら、滑らかな口どけになるように、チョコの温度を慎重に調整してテンパリングをする。空気が入らないように型紙にチョコを流し込んで、立て掛けて冷やし固める。
チョコが十分固まったら、白い糖衣を作る。粉糖に、今朝採れた新鮮な怪鳥の卵の白身を少しずつ加えて、丁度いい固さになるまで練り込む。風味付けに、レモンと同じぐらい酸っぱい地獄産のフルーツの果汁を数滴混ぜる。
仕上げに、できた筒状のチョコレートに糖衣を薄く塗って、煙草の白い巻紙を再現する。ムラなくきれいに塗るのがなかなか難しい。糖衣がしっかり固まったら、これで完成だ。
少し形がいびつになってしまった一本を取って、味見をする。齧ると、しゃりっ、ぱき、と音がした。味は、少し砂糖の甘味が強いかもしれない。でも後味のコーヒーの苦味と香りもしっかり効いていて、悪くはない。悪くはないが……。味も食感も、本物のシガレッチョとはまったくの別物だ。
ゴクオーさまに召し上がっていただくのに、お皿に盛り付ける。思いのほか、結構な量ができたので、山盛りになった。果たして喜んでいただけるだろうか……。期待と不安が入り混じったソワソワとした心地で、ゴクオーさまのもとへと作ったシガレッチョを持って行った。
◇
「すげーな、タバコみたいだ。」
わたしの作ったシガレッチョを一目見て、開口一番、ゴクオーさまは目を輝かせてそうおっしゃった。
「やっぱり料理が上手いな、バトラーは。それでも、コイツを作るのに結構な手間がかかったんじゃねーのか?」
「普段ゴクオーさまがサボるおかげで、私に回される仕事をこなすのに比べたら、これはちょっとした息抜きみたいなものです。久しぶりにお菓子が作れて、楽しかったですよ。」
「ケケケ。そりゃあ良かったな。」
きょうの仕事が終わって気が緩んでいるせいもあって、軽口を叩きあう。
「それじゃあさっそく、いただくとすっか。」
ゴクオーさまがお皿からシガレッチョを一本取って、ぱき、と音を鳴らして齧るのを、少し緊張しながら見つめる。
「……ウマい」
「は……恐縮です。」
顔をほころばせながら、シガレッチョをもぐもくと召し上がっていくゴクオーさまのご様子を見て、ひと安心して心が軽くなった。
ゴクオーさまが、シガレッチョをもう何本か召しあがったとき。少し寂しそうに目を細めて、手に取ったシガレッチョをしげしげと眺める。
「コイツは本物よりもずいぶん甘くて、優しい味がするな。たまにおまえが作ってくれる菓子と同じで……。」
そう言ってハッとしたような顔をなさって、目を伏せて押し黙ってしまった。
わかっていたことだったが。ゴクオーさまが本当に食べたかったものは“煙草を模した手作りのチョコレート菓子”ではなくて、“現世での思い出がつまった、あのシガレッチョ”だったのだ。そのゴクオーさまの本心に二人とも気づいてしまって、重く気まずい空気が漂う。
「……お菓子作りは繊細な仕事です。わずかな条件の違いで、味も食感もまったくの別物になります。地獄では、手に入る材料も限られており、調理器具もシガレッチョの工場とは違います。レシピもなく、想像で作るしかありません。ご期待にお応えしたかったのですが、今のわたしにできるのは……これが限界です。」
なにも、食べる人が悲しむ姿を見たくて、お菓子作りをする者がいるものか。それでも、王の側近として、現実は直視させなければなるまい。
「差し出がましいことを申しますが……、ゴクオーさま。なにもかも、現世のものとそっくり同じの代替品にはなり得ません。ここは……地獄なのですから。」
「……ああ。そうだ。そうだったな。オレっちの居場所はココだ。地獄だ。オレっちは“地獄の閻魔大王のゴクオー”なんだからな。今までも、これからもずっとそうだ。」
ゴクオーさまはぐっと目をつぶって、自分に言い聞かせるように呟いた。そしてすぐニカっと笑顔を作って、こちらに顔を向ける。
「おまえが作ったシガレッチョも、気に入った。ありがとな。」
長い間ずっとお仕えしているはずなのに、その笑顔がどこまでホントウなのか、推し量ることができなくて、胸がぎゅうと詰まった。
ゴクオーさまは、用意したシガレッチョをぺろりと完食された。結構な量があったはずだが……。わたしは、このお方が食べ物を残すところを見たことがない。
「ごっそーさん。最近どうも頭が疲れやすくてな、コイツを仕事の合間につまみたい。明日も作ってくれるか。」
「仰せのままに、と申し上げたいところですが……。なにぶん、地獄ではチョコレートも砂糖も貴重でして、これ以上おいそれと消費するわけにはまいりません。どなたかお客様でもいらしたときのお茶請けにでも、特別に作ってさしあげましょう。」
「約束だぞ。ウソついたら針千本、だからな。」
ゴクオーさまはお腹がいっぱいになって眠くなったのか、ふぁ、とあくびをなさる。
「しょうがねぇ、シガレッチョはしばらくガマンか……。きょうもご苦労だったな、バトラー。おつかれさん。」
ゴクオーさまは、ばさりとマントをひるがえして、寝室へと戻っていく。お姿が見えなくなる前に、歯磨きを忘れないでくださいね、とお声がけすると、わーってるよ、と気だるげなお返事が返ってきた。
◆◇◆
それから数週間も経たないうちに、天子さまが8000000分の1のキセキを掴んで記憶を取り戻した。
ゴクオーさまと天子さま、そして現世の人間たちのお気持ちを思うと、これほど喜ばしいことはない。その知らせを聞いたとき、いくらなんでも早すぎるその再会に、嬉しさやら驚きやらで、わけがわからなくなるほど笑い泣きした。
ゴクオーさまが別れを受け入れるために、どうにかこうにかして必死に過ごしていた日々はいったい何だったのか、今となってはもう笑い話である。
ゴクオーさまは“本物の”シガレッチョを咥えながら、それはもう上機嫌で仕事をこなしていた。
仕事の合間合間に、久しぶりに行った現世で起きたことを喜々として報告するのを、隣で苦虫を嚙み潰したような顔をしながら聞いているサタンさまに、少しばかり同情する。
「いかがですか、久しぶりのシガレッチョのお味は。」
「最高だな。現世の食い物はやっぱりウマい。ここに牛乳があればもっと良いんだが」
「ふふ。これからはもう、私がシガレッチョを作らなくても大丈夫ですね」
「……何を言ってるんだ」
ゴクオーさまが、慌てたように私の顔を見上げて言うから、こちらの方が驚いてしまった。
「おい。また作ってくれると言ったのは、ウソだったのか?」
思いがけない鬼気迫る声音に、冷や汗をかく。
「ウソもなにも……これからはいつでも、本物の美味しいシガレッチョが手に入るではありませんか。天子さまと再会なさってから、毎日のように地獄を抜け出して、現世に通っていらっしゃるのですから。私の作る似ても似つかない模造品を、代わりにする必要なんて……、もうないでしょう。」
「そう卑下するな。おまえが作ったシガレッチョも気に入ったと言ったじゃねーか。アレは、おまえがオレっちのためだけに手間暇かけて作ってくれた、特別な菓子だ。」
つい、つまらない意地を張ってしまったのを、ゴクオーさまは窘めるようにおっしゃった。
「せっかく地獄で久しぶりにウマい食い物に出会えたと思ったのによ、おまえが作ってくれなきゃ、ソイツは二度と食べられねぇんだ。……そんなのはイヤだ。」
言われて、心がふわ、と浮き立つ。そんなにお気に召していたなんて。……この人たらしなお方は、照れもせず真っすぐな眼差しで、人の心の芯の部分を温めるようなことを言うから。おかげでいったいどれだけの人が狂わされたのか。
「ゴクオーさま。そのシガレッチョ、私にも一本ください」
「なんだ、珍しいな。オマエがねだってくるなんて。」
「本物の味を、もう一度確かめたくなったのです。気が変わりました、もうシガレッチョを作らないというのはウソです。次はこれに負けないぐらい、もっと美味しいのを作ってみせます」
「おい……。張り合うものでもないだろう、こういうのは」
「料理を嗜む者として、興味が湧いたのです。あなたさまの心をこれほど虜にさせたのが、いったい何なのか知りたい。自分の手で再現しようとして初めて、わかることもあるものです。」
差し出されたシガレッチョを一本取って、口に咥える。
「そういうものか。オレっちは料理を作ったりしないから、どうしてそこまで躍起になるのか良くわかんねぇが……。」
ゴクオーさまは、ケケケ、と笑って、シガレッチョの箱をひらひらと見せびらかせながら言う。
「おまえ、もしかして、嫉妬してんのか?これに」
図星だった。動揺して、自分の口からバキッとシガレッチョが割れる音がする。ゴクオーさまは人間と交流してから、感情の機微に敏くなった。ここでヘタな嘘をつけば、舌を抜かれてしまうかもしれない。慌ててシガレッチョを噛み砕いて飲み込んでから、答える。
「それはもう、悔しいに決まっているではありませんか!私が地獄でどれだけ心と力を尽くしていても、ゴクオーさまはずっと、現世のものに夢中なのですから……!」
「オ、オイ……。ずいぶんと明け透けな物言いをするな……。」
「だ、誰のせいだとお思いで……!」
…………はぁ。特大のため息が出る。ゴクオーさまも、ウソなしの本心をさらされて狼狽えるぐらいなら、この心は暴かないでほしかった。
「その、なんだ。おまえの仕事ぶりを信頼して、安心して地獄を任せられるから、オレっちは現世に行けるのであって……ウソなしで感謝している。いつもありがとな、バトラー。」
……恥も側近としての体面も捨てて、顔から火が出る思いで心のうちを正直にお伝えしたというのに、ままならないものだ。だが、側近というものは、主人の感謝の言葉ひとつで、どんな無茶だってできてしまうものなのだ。それに、ゴクオーさまは、わたしごときに止められるお方ではないことも、わかっている。だからせめて、わたしからのこれぐらいのお願いは聞いてもらう。
「それじゃあ、その感謝は、仕事で示してくださいよぉ……。まだ山のように溜まっている書類を、なんとかしてください……。」
「わかったよ。明日、ちゃちゃっと片付けてやる。任せておけ。」
◇
きょうも無事に地獄王側近としての一日を終える。おやすみなさいませ、と挨拶をして、お部屋に戻るゴクオーさまの背中を見送る。ゴクオーさまがお部屋の入り口の扉に手をかけたとき、ああそうだ、と何かを思い出したようにつぶやいて、ニカっと笑ってこちらに振り向いた。
「おまえの作るシガレッチョだが……、あの優しい味は、天子ちゃんも好きそうでな。ずっと食べさせてやりたいと思ってたんだ。今度地獄に連れてくるから、そのときにまた作ってくれ。頼んだぞ。」
「天子さまに……。光栄です!ぜひ、お任せください!」
ゴクオーさまがお部屋に入ったあと。踵を返して、ふわふわとした心地でしばらく歩いてから、ゴクオーさまの地獄耳に拾われないように、小さな声でつぶやく。
「まったく、ずるいひとですよ、あなたさまは」
苦くて辛くて酸っぱくて、ほんの少しだけ甘い地獄の日常は、現世のウソを隠し味にして、これからも続いていく。