2y8m8dヌビア学研究所、居住区。集合住宅の三階。
ある一室の前で、私は待つ。
彼女の帰りを、ただひたすら待つ。
「…………」
じっと動かずに、静かに待つ。
待つことは、苦手ではない。
体力なら無尽蔵にあるし、忍耐力も人より秀でていると思う。
まして、待ち人が彼女であるなら、2日や3日立ち続けるのだって苦ではないと思う。
「………………」
だから、私は待った。
後ろ手にした小箱を少しだけ強く握りしめて、ひたすら、彼女の帰りを待った。
その時、長い廊下に足音が響いた。
「誰…?」
訝しむような、小さな声。でも、私にはその声の持ち主がすぐに分かった。待ち人そのものだった。
可愛らしくも落ち着きのあるその声の主は、私の姿がよく見えていないらしい。誰だかわからない人間が、自分の部屋の前にいる。きっと、少し怖いのだろう。
だから、彼女は─────ダッ、と、駆け出した。彼女がスタートを切ったのとほぼ同時に、私は彼女の名前を呼ぶ。
「カステル」
「え、セーヌ?」
彼女はコンマ数秒の後には、私の目の前までやって来ていた。【スピード】の本領発揮といったところだろう。
彼女は急ブレーキをかける。若草色のつややかな髪が、慣性の法則に従って前にバサリと乱れた。
「びっくりしたな。誰かと思ったよ」
「ご、ごめんね。驚かせちゃって…」
「いや、おかげでまた眼鏡の度が合わなくなってきたのが分かったよ。セーヌと不審者の見分けがつかないんじゃあね」
カステルは、申し訳無さそうに丸みのある眉を下げる。肩を竦めて笑った。
「ところでセーヌ、何か用?」
「あ、うん、……うん、そ、そ、そ……の…」
私は、後ろ手に持っていた小箱を持ち直す。いざその場になると、少しドキドキする。
うまく言葉にできず、まごつく私を、カステルは静かに見上げて待っている。にっこりと、感じの良い爽やかな笑顔を浮かべて待ってくれている。
震えそうになるのをどうにか堪えて、無理矢理喉の奥から声を絞り出した。
「こ……………こ、れ。カ………カ、カステルに渡したくて………。お、お、お、お誕生日、おめ、おめ、おめでとう…………」
そう言いながら、私はカステルの前に小箱を突き出す。最後の方の声は、ほとんど消えていたと思う。それでも、カステルは、パアッと顔を明るくした。
「誕生日、覚えていてくれたの!嬉しいな」
直後、少しだけ申し訳無さそうな顔をする。
「でもアタシ、パーティの時にもセーヌからプレゼントを貰ったよ。悪い気がする」
私はぶんぶんと首を横に振った。申し訳なくなんてない、と叫ぶ代わりだった。
確かに先日、【カリスマ】双子さんによるカステルの誕生日パーティがあった。ただしそれは、7月末に行われた。というのも、【ヌビアの子】誕生日パーティの主催者であるアイールさんとテネレさんが、8月の夏季休暇に入ってしばらくは実家に戻りたいから、ということだった。当日にパーティが出来ないなら、と早めに開催していたのだ。もちろんその日にも、私はカステルにプレゼントを渡した。カステルが好きだと言っていた、メレンゲのお菓子。
けれど、私はどうしても『これ』を当日に渡したかった。だから、今日、カステルの帰りを待っていたのだ。
「も、も、もらってほしい……の。き、今日、カステルに、……お、お、お願い」
私は精一杯言葉を選ぶ。喉で引っかかる音を、無理矢理に押し出す。
カステルはきれいな若草色と笹色の瞳で私をじっと見上げる。レンズ越しのはずなのに、痛いほどに真っ直ぐだった。
しばしの沈黙が、辛い。この小箱を投げ捨てて逃げてしまいたい気持ちに襲われる。けれど、なんとか腕を突き出し続けた。
やがて、カステルは満面の笑みを浮かべる。
「………じゃあ、貰うよ。ありがとう」
そして、小箱はカステルの小さな手へと受け渡されていく。自分の口元が緩むのを自覚した。
「あ……うう、ん……こちらこそ、あ、ありがとう」
しどろもどろに私は言う。
「セーヌは礼なんかしなくていいのにな。……当日何かあるなんて思ってなかったから、本当に嬉しいよ」
カステルは言いながら笑った。嫌な感じなんて、一つもない。爽やかで、擽ったくて、優しい声だった。やっぱり、この世で一番好きな声だった。
中に入れたのは、小さなバレッタ。
私とおそろいの、若草色の飾りのついたバレッタ。
(カステルと一緒なら、私は前を向けるから)
そんなメッセージを込めた、髪留めだった。