オベロンが学校の友達に夏祭りに行こうと誘われたらしい。
ヴォーティガーンは夏祭りに少し興味があったが、騒がしいところは得意ではないしひとりで行くのもつまらなさそうだと思い、それらを全て隠してオベロンに「いってらっしゃい」といった。そうしたら彼は「君も行くんだよ」と不思議な顔をして言ったのだ。
着いていくだけかと思っていたら、まさかユカタまで着せてもらえるとは思わなかった。
オベロンに髪も纏められ、きっちり正しく着付けられた浴衣姿に自分でも見違えたと思った。自然と背筋が伸びた気がした。
満足そうなオベロンの顔を見て少しだけ嬉しくなった。
とてもよく似合っているよ、はお世辞かもしれないがそれでも褒められたことには変わりない。ぎこちなくはにかんでいた。
オベロンの友達はたくさんいて、黒髪の少年と赤毛の少年と金髪の少女がいた。
藤丸と村正とアルトリア。アルトリアは同じイギリス出身だった。最初の紹介でアルトリアは同じ出身のことを喜んでいたが、互いにぎこちなくなって会話は出来なかった。
ヴォーティガーンにとってイギリスの実家はあまりいい思い出はない。イギリス自体にも詳しいわけでもなく、アルトリアと話す故郷の話題なんて最初からなかったのだ。
グループの中でヴォーティガーンだけが浮いていた。
彼らは皆同級生で、つながりがあるがヴォーティガーンにはない。けれどせっかくオベロンが連れ出してくれたので、その会話に入ろうとせずとも必死に耳を傾けていた。
祭り会場に着くまで結構歩いた。
オベロンたちは楽しそうに話していたが、ヴォーティガーンは足元が気になって途中から彼らの速度についていくのがやっとになっていた。
慣れない下駄を履いたせいか、親指と人差し指の付け根が真っ赤に汚れていた。痛みもあった。
会場が近くなると人も多くなる。立ち止まったりしたらすぐに逸れてしまいそうで、ヴォーティガーンは痛みを隠して頑張って歩いた。
置いていかないで。足が痛いから待って。
たった一言言えばよかったのに、とオベロンは笑うかもしれない。でも楽しそうな周りの顔を見ていたらとてもじゃないがそんなことで水を差すことは出来なかった。
からからと下駄を鳴らしながら祭囃子の音に耳を傾けると、外国語のように聞こえた周りの会話が聞こえなくなる。
ひとりぼっちになったみたいで、途端に足元が不安になる。足場が崩れてしまうような錯覚に陥るのだ。
祭りに行く前、日本の祭りについて調べてきていた。屋台の種類も祭りのマナーも載っていた。
ヴォーティガーンはフルーツ飴が気になっていた。コットンキャンディも日本のものは柔らかく、すぐに口の中で溶けてしまう本物の雲のようなものだとか。
オベロンとあれこれ話はしていたけど、実際来てみると人がたくさんいてとても買い物をできそうにない。キラキラの屋台を横目にヴォーティガーンは足を引き摺りながらついて行く。
こんなに人がひしめき合う場所にヴォーティガーンは来たことがなかった。
高校で学生生活を終えている彼にとって、学校以上に人が集まるところは経験がない。そもそも外に出ることが好きではなかった。
両親はオベロンを愛していた。オベロンはとても可愛くて素直で綺麗で妖精のようだと毎日言っていた。自分もそう思う。
けれども対照的にヴォーティガーンは両親から一切目を向けられてこなかった。
いつも家で留守番をしていた。両親は家ではヴォーティガーンをいないものとして扱っていた。ヴォーティガーンを認識してくれていたのはオベロンひとりだけ。
それでも良かった。オベロンさえ知っていてくれたらもう何もいらない。
でもそれが大人になっていくに連れて難しくて傲慢で身勝手な願望だということに気付いた。自覚しても手は離せなかった。
忘れないで欲しい。いなくならないで。そばにいて。ずっと一緒にいて。
手を離さないで。
「おべ」
やっと絞り出せた声は周りの音にかき消されてしまう。下駄が脱げても構わずに腕を伸ばしたが届かなかった。
まるで人混みが引き離したかと思うほど、それは一瞬で自然だった。
裸足のまま立ち尽くすヴォーティガーンに人波は容赦なくぶつかってくる。だがヴォーティガーンはその場から動けなかった。
オベロンは、いなくなったことに気づいているだろうか。いや気付いていないかもしれない。
そうしたらどうしたら良いのだろう。
いなくなったヴォーティガーンをオベロンが探しにきてくれるだろうという考えはあったが自信はなかった。
本当はわざと逸れたんじゃないか。わずかでもその考えがよぎってしまうと途端に胸が痛くなった。
取り出したスマホをしまって人混みから離れるように裸足のまま逆方向へ歩き出す。
オベロンは祭りにこんなに人がいることを教えてくれなかった。
自分にだけ慣れない浴衣を着せて下駄を履かせていた。
友人が誘ったのにオベロンはわざわざ自分に声をかけてきた。
なぜ自分を誘ったのだろう。
祭りの会場から離れた公園は真っ暗で人気がない。公園の中からでも祭り会場の華やかさと変わって真っ暗闇の公園は今の心の中のようだった。
ベンチに座り込むとせっかく着付けてくれた浴衣が大きく着崩れて、下駄を無くした裸足の足は包帯も外れかけて血と砂で汚れていた。
見様見真似で浴衣を直すと足の包帯を巻き直した。親指と人差し指の間は皮が剥けて包帯の摩擦がヒリヒリと痛む。
今頃みんなは楽しんでいるだろうか。
それは別にいい。今までだってたくさん見てきたし、その輪の中に自分が入れないことだってもうずっと前に知ったじゃないか。
家に帰ろうかな。
…帰っていいのかな。
フルーツ飴食べたかったな。わたあめだって食べてみたかった。射的とかくじ引きとか、色々遊ぼうと話をしていたのに。
自分だけが浮かれていたのだろうな。
「恥ずかしいなあ」
胸の痛みを誤魔化すように笑ってみた。
「辛いな…」
邪魔ならそう言ってくれたら良かったのに。
いらない子、いらない子。
両親からも同級生からも散々言われてきた言葉はオベロンがいてくれたから忘れられていた。オベロンが手を握ってくれただけで奈落の底みたいな暗闇が明るくなった。
暗いところは怖かった。
ひとりぼっちは寂しい。
「オベロン……」
寂しいよ、と泣きそうな声でつぶやいた。
「ヴォーティ!」
その声に応えるようにオベロンが叫んだ。
見たこともないくらい汗を流して肩で息をしている。手にはなくしていた下駄と明るい画面のスマホが握られている。
「なんで電話に出ないんだ!」
「えっ、あ、ご、ごめん」
オベロンの怒鳴り声にヴォーティガーンは慌ててカバンからスマホを取り出した。オベロンからの着信が鳴りっぱなしだった。
オベロンはスマホを切るとヴォーティガーンに駆け寄った。
「下駄も脱げてるし、もう!めちゃめちゃ探したんだぞ」
膝をついて靴擦れをしている足を見てオベロンは顔を顰めた。
「泥だらけのまま包帯を巻く奴があるか、ほんとにもう」
待ってて、とすぐ近くの水道でオベロンはハンカチを濡らしてくる。包帯を軽く外すと汚れた足を拭いた。
「いた…」
「我慢して。このままにしてる方が酷くなるかもしれないだろ」
靴擦れの傷が沁みる。捩りたくなる身体を抑えて大人しく耐える。
足を拭き終わるとヴォーティガーンの足を抱えたまま絆創膏を取り出した。準備が良い様子を見ていたらいつの間にか両足とも貼られて処置が終わっていた。
「絶対靴擦れしてると思って用意してたんだよ」
「………いなくなって、心配した?」
「当たり前だ」
オベロンはまだ眉を吊り上げて怒ったような顔をしていた。
「ほんとうに…?」
「僕がどれだけ探したと思ってるんだ!」
聞いたことのない怒鳴り声にびく、と身体を強張らせた。
ひょっとして自分は怒られているのだろうか。怒らせることなんて何もしてないのに。
「えっと、ごめんなさい」
「屋台に行っても君が来たなんて誰も言わないし!脱げた下駄を見つけたとき、血の気が引いた。何かあったんじゃないかって、心配したんだぞ。本当に、君が誰かに攫われたんじゃないかって」
「なに言ってんだよ。俺にそんなことあるわけないじゃないか」
怒っているのに今度は泣きそうな声を上げるオベロンにヴォーティガーンは混乱する。
オベロンは真剣な話をしているのに彼には全く通じていない。心配されるということを理解していないのだ。
ヘラヘラとしているヴォーティガーンにオベロンは怒りと同時にどうしようもない悲しみに襲われる。
彼が学校に通っていた最後の年、3年間続いていたいじめがエスカレートしてレイプされた。
だが彼はそれを誰にも言わなかった。いじめられているということも言わなかった。その時の苦しみは想像もできないほど辛いものなのに、彼の境遇が彼自身の危機を口にすることを許さなかった。
オベロンがそれを知ったのは彼も卒業してしばらく経ってからだった。当時知っていれば殴り込みにだって行ったのに。
そしてそのことを語った時の他人事のような反応がオベロンをさらに苦しめたのだ。
レイプされた記憶だってあるのに、また同じことが起きるかもしれないのになぜ笑っていられる。
どれだけ怒っても無駄だと、悟ったオベロンは代わりに彼を抱きしめた。突然抱擁された彼は驚いて慌てていたがオベロンは絶対に離さなかった。
「僕は君が何より大事なんだよ。本当に本当だ。だから次は絶対に手を離さないで」
「………もう大人なんだよ、子供じゃないのに、そんな。大袈裟だよ。オベロンだって友達がいるんだから…」
「友達なんかどうでもいい!」
そんなこと言うもんじゃない、と言いかけてヴォーティガーンは言葉を失った。
ぼろぼろ泣いてるオベロンに、理由は分からないが言葉を失ってしまった。
どこか痛いのか、とかどうしたの?と頭の中には聞かなきゃいけないことが沢山あるのに口に出てこない。
「大袈裟なもんか!!現に君は逸れて、連絡のひとつも寄越さないでこんなとこにいた!僕が見つけなかったらどうするつもりだったんだよ」
「それ、は……ひとりで家にかえろうと」
「なんでだよ!」
「…オベロンは、友達と楽しそうにしてたから、邪魔したら悪いかな、と思って」
足が痛いとか、離してた屋台があったよ、なんて声を掛けたら楽しそうな雰囲気を壊してしまう。
「邪魔だなんて思うわけないだろ!もう!ばか!ヴォーティのおたんこなす!」
「ごめん…」
「そういうことじゃなくて、もう、難しいな」
「……ごめん?」
「首を傾げたって今日のことは簡単には許さないからな。首輪をつけて歩くことだって考えてる」
「……それは」
「嫌ならちゃんと言葉にして!ちゃんと聞くから」
じっとオベロンに顔を覗き込まれる。
話を聞くから。
真っ直ぐなその言葉は嘘なんかじゃない。それはヴォーティガーンにも分かっている。
「フルーツ飴も、わたがしも、食べたかった」
「うん、ちゃんと行こう」
「射的もくじ引きもあったし、金魚すくいもあった」
「そうだね。やりに行こうか」
「でもあしがいたい、の」
「おんぶしてあげる。ゆっくりだっていいよ」
言いたいこと全部オベロンは聞いてくれた。
それだけで満足したように「ありがとう」なんて言うものだからオベロンはつい「まだだよ」と言った。
かっこいいところを見せたかったのに、射的も金魚すくいも全て村正と立香に負けた。
ヴォーティガーンが抱えている景品はほとんど2人にとってもらったものだった。
最後に挑んだくじ引きで、オベロンはついに2人より大きな賞を引き当てた。
単純な運勝負だったが得意になりたいげになって景品をヴォーティガーンに渡していた。
ヴォーティガーンは2人が得た景品をアルトリアに譲り、オベロンが取ってくれた大きなぬいぐるみだけを大事に抱えていた。