僕の上司は頭がイカれている「事務のお仕事、ですか?」
僕の名前は山本徹。
いつも山ちゃんとか山もっちゃんなどと呼ばれるため、あまり下の名前は覚えてもらえない。
僕の家はいわゆる呪術師の家系だ。とはいっても御三家と呼ばれる大御所の家系図の端にも載らないような分家の分家もいいところ。
ここまで端ともくれば呪力を持たない人間が生まれることも少なくなく、両親はともに非術師だ。
そこへ呪力を持った自分が生まれ、一族は大層喜んだそうだ。
ただしそれも束の間。
呪霊の存在は認識できるものの、姿形がわかるほどの呪力はなく、これでは到底呪術師になることはできないという。それどころか補助監督や窓にすらなれないそうだ。
進路を決めるにあたって適性検査を受けたものの、下された結果はあまりにも残酷だった。
幼い頃一度だけ呪霊を祓っている呪術師に遭遇して、一種の憧れを抱いていた。何より呪術師に関わる仕事に就き、少しでも御三家に近づきたいという一族の意志を背負っていたということもあったので、この先どうしたものかと考えあぐねていたところ。
「そうだ、ちょうど事務の人間が出産を機に退職してしまってね。人手が足りないんだ。君ならこの界隈の事情もわかっているし、どうだろうか?」
そこで冒頭の反応である。
事務職と言われて思いついた仕事内容は、いわゆる書類作成やデータ入力、電話応対。
通常の企業であれば必要不可欠な職種であると思うが、まさかこの業界にもあったとは想像もつかなかった。
「主に経理の仕事かな。呪術師や補助監督らの給与関連や出張旅費の精算、新しい学生の高専への入学手続きやその他もろもろの高専の事務処理もある」
「はあ」
そう、言われた通り事務方の仕事だ。
「君が思い描いていた仕事とは違うかもしれないが、何しろ特殊な世界だからね。職業安定所に募集を募るわけにもいかないし、引き受けてくれるとありがたいんだが」
どうだろうか、と柔和な笑みを浮かべた男性が問う。
このまま高校を卒業したとして、特にやりたいことがあるわけではない。
何も目的なく大学に進学するよりは、ここで就職することもありなのではないだろうか。
高専勤務するとなれば、おそらく一族の面子も多少なりとも立つはず。
「はい、ぜひよろしくお願いいたします」
こうして高専の事務職に就職して早三ヶ月。
最初こそ慣れない仕事に右往左往していたものの、イレギュラーなものはほぼなく、慣れてしまえば平和なものだった。
何より直属の上司が大変教え方が上手い人で。
「ここはこのツールを使う方が読みやすくなるよ」
「なるほど! わかりました!」
「山本は飲み込みが早くて助かるよ。すぐ即戦力になる」
「そ、そんな、夏油さんの教えかたがわかりやすくて………」
夏油さん。夏油傑。
僕の直属の上司だ。
僕より十ほど年上らしく、どうやらここの勤務も長いらしい。
一房垂れ下がった前髪が特徴的で、切長の目の物腰の柔らかい人だ。
ただ普段はお互いデスクについたまま会話するのであまり意識はしていなかったが、立ち上がると180センチ以上の身長があり、少々威圧感がある。
鍛えているのかガタイも大層いいのが拍車をかけているのかもしれない。
たまに喫煙室を覗くと、長い足を投げ出してタバコを吸っていたりするので、いつもの礼儀正しい態度とのギャップに、どひゃああ!! と何度顔を覆い隠したことがあるか。
しかもこちらに気づくと足を正して「やあ、君も吸うかい?」と優しい眼差しを向けてくるので、どきどきしてしまう。
残念ながら喫煙の習慣がないため、断るほかないのだが。
呪術師にも憧れていたが、ここへきて夏油さんに憧れている自分がいる。
良い職場に来た。パソコンのキーボードを叩きながら思いを馳せていると。
「傑ー? いるー? 出張旅費の精算に来たー!」
どかどかとこれまた夏油さんより長身の、しかも目隠しをした男が事務室に入ってきた。
五条悟。呪術師最強の男。
「わ、五条さん、お疲れ様です!」
きゃー!! あの五条悟に出会えた!!
御三家の当主に会えるなんて、しかもお話までできるなんて! と、三ヶ月前の自分はそう思っていたのだが。
週に一度は事務室に現れるので、おおよそレア度は薄れてしまった。
通常の呪術師、補助監督であれば、出張旅費など一ヶ月もしくは半年ほど貯めて持ってくるのが常だ。
できれば一ヶ月くらいで持ってきてほしいものだが、忙しい職業なので仕方がない。
こちらが頑張ればいいだけの話である。
ただ、この五条悟という男は。
「五条さん、出張旅費は一件ずつ持って来なくてもいいんですよ」
夏油さんが呆れてため息をついている。
そう、なぜかこの五条悟という男、出張するたびに一件一件領収書を持ってくるのだ。
貯められても困るが一件ずつ持ってこられるのも困る。
そういう几帳面な性格なのかと思えば、そうでもないようで。
一度夏油さんがいない時に来たときは。
「あれ、傑いないの? 学長に呼ばれてる? ふーん、じゃあ帰るわ」
と、領収書を片手でひらひらさせながら帰ってしまった。
ようするに夏油さんに会うために、一件ずつ持ってきているようである。
年齢が同じせいもあってか、もしかすると話が合うのかもしれない。
五条悟といえば、大層気難しい人間であるというのが噂で耳にした評価であったが。
「ねー傑、お土産買ってきた! なんと新作のフルーツ大福!」
「………私、非術師の作った物は食べないって言ったよね?」
しかも毎回高級なお土産を買ってくる。
それテレビで紹介されててなかなか買えないやつ! と僕が叫べば、そうなの? と夏油さんが一瞬考えるような素振りを見せ。
「じゃあ一個もらおうかな」
「新人くん、ナイス!」
そう、夏油さんは基本的に他人が作った料理を食べない。
というよりかは、非術師が作った料理やお菓子を食べない。
過去に何があったのかはわからないが、非術師を嫌っており、それがどうやらこの高専にずっと勤務している理由らしい。
役所や銀行など、非術師と関わるような仕事は基本的に僕が行っている。
たまにやむを得ず行ったとしても、戻った瞬間に除菌スプレーをかけまくっているのを見てしまい、単純な感想として、生きづらそうだな、と思ってしまった。
「はい、新人くんもどうぞ」
「ありがとうございます!」
気難しい性格というのはただの噂だったようだ。こんなに気さくな人じゃないか。
それでいて最強。
なんて素晴らしい人なんだ! と五条悟からお菓子を受け取ろうとした瞬間。
「………五条さん、夏油さんと同じ香水使ってます?」
そう、五条悟の身体から夏油さんと同じ香りが漂ってきたのだ。
香水、というよりもこれはむしろ。
「あ、もしかして同じシャンプーですか!?」
香水のような複雑な香りではなく、そう、少し爽やかなシャボンの香りというか。
ともかく夏油さんと同じ香りが五条悟からした。
途端、後方からゴフッと咳き込む声が聞こえてきて。
「夏油さん!? 大丈夫ですか!?」
「ああ、いや、ちょっと変なところに入っちゃって………けほ」
「お茶持ってきましょうか!?」
「いや、大丈夫だよ。ありがとう」
夏油さんは右手で喉元を抑えながら、もう片方の手を上げて大丈夫だと合図をする。
お茶くらいいくらでも持ってくるのになあ、と思っていると。
「お前、鼻いいんだな?」
五条悟がずいっと顔を寄せてきた。
あまりに顔面が綺麗すぎて、内心どきどきしてしまう。
「ええ、そうですね。呪力はあまりないんですが、五感は人よりいいみたいです」
「ふーん、ある意味天与呪縛かな?」
「あ、ってことは同じシャンプーっていうのは当たってるということですか!?」
五条悟に褒められた!! と浮かれていた瞬間。
「………山本。やっぱりお茶持ってきてくれるかな?」
「え、あ、はい! すぐ持ってきます!」
後輩を足に使うなよ、と五条悟が夏油さんを嗜めているがこちらは何も気にしていない。
むしろ夏油さんの役に立てることが嬉しくて堪らない。
気持ちは高揚して、るんるん気分で給湯室に向かった。
というのが三ヶ月前。
「傑、ちょっといい?」
「何か問題が?」
「うん、ちょっと………」
今日も今日とて五条悟は事務室に来たかと思えば、夏油さんを連れ去ってしまった。
何かあったのかな、とパソコンと睨めっこしていたがいつまでも帰ってこない。
まあ、いいか。トイレにでも行こうと、一番近いお手洗いに向かったならば。
「あ、やだ………こんな、ところ、誰かに見つかったら………」
「大丈夫、大丈夫、来ても山本くらいだろ」
はい、山本来ました。ごめんなさい。
聞き慣れた人たちの声に、嘘だろおい、と思いつつも、何となく雰囲気でわかっていたし、同じシャンプーの意味がわかったし、何よりここから一番近いトイレってどこかな、とやっと覚えた広大な校舎の地図を頭に思い浮かべた。
そうして、また季節が巡った頃。
今までにないほど、事務室には不穏な空気が漂っていた。
「窓の報告によれば、少年院に等級の高い呪霊が現れたようです」
この事務室、事務職である夏油さんと自分の他に、いわゆる補助監督や窓の人も出入りしている。
固定の机や椅子があるわけではないが、報告書の入力などは皆この部屋で行っていた。
そのため、話し合いのようなものも度々この部屋で行われているのだが。
「何級ですか?」
「おそらく一級。もしくは特級の可能性も」
特級!?
特級の呪霊の出現など聞いたこともない。
年々呪霊の威力が増していると噂で聞いてはいたが、まさかそのようなことが現実に起こるとは。
「今、特級に対応できる五条さんは出張中ですよ!?」
「だからこの件は一年生に任せろと」
「一年生に!?」
補助監督が叫ぶと同時に、パソコンのキーボードを叩きながら聞き耳立てていた僕も「一年生に!?」と心の中で悲鳴を上げた。
一年生といえば、あれだ、この間入学手続きをしたばかりの子が二人いたはず。
可愛らしい女の子と元気そうな男の子。階級はそんなに上ではなかったはずだ。
「一年生といえば伏黒術師の二級がせいぜいでしょ?」
「倒すわけじゃないから、ただ被害を確認して欲しいだけだから、と」
「そんな………」
もしその過程で特級の呪霊に遭遇してしまったら。
生きて帰れるわけがない。
誰もが理解している。もちろん指示を出した上層部も。
重い沈黙が室内を支配する。
破ったのは、補助監督でも窓でもなく。
「………それは五条先生の許可は出ているんですか?」
僕の上司、夏油傑だった。
声音に、隠しもしない怒りの感情を含ませながら。
「五条さんの許可はいらない、と上が………」
補助監督をまとめ上げている伊地知さんが言い淀む。
途端、夏油さんが苛立ちに任せたため息をつくと、その場の補助監督たちが皆体を強張らせた。
何故だろう。
何故補助監督が事務方であるこちらを伺うのだろうか。
「私が出よう」
「げ、夏油さんが!?」
僕が立ち上がるより早く、伊地知さんが声を上げた。
「おそらく宿儺の器、虎杖悠仁を殺したいがために当てがわれた任務だろう。あとは悟への当てつけかな」
悟。五条悟のことか。
親密な仲であることはわかっているが、この公の場で名前を呼ぶ意味とは。
「それこそ、五条さんの許可がいります!!」
「うるさいよ、伊地知」
夏油さんが言葉を発した瞬間、室内全体がビリビリと震えた。
息ができない。ひどい圧迫感だ。
脳内が告げる。この男はやばい人間だと。
でも問わずにはいられない。
「夏油さんが………なんで?」
「ああ、ごめんね。言ってなかったね。私は」
――特級呪術師なんだ。
その言葉に、僕は卒倒するほど驚いたのだった。
**
「で?」
再び不穏な空気が漂うイン事務室。
補助監督らが一列に並べられ、夏油さんと僕は相変わらずパソコンと向き合っている。
向き合ってはいるが、あまりの空気の重さにキーボードに添えられている僕の指はピクリとも動かない。
「誰? 僕の許可なしに傑を任務に出したのは」
殺すよ? と黒い目隠しを片側だけぐいっと押し上げる。
その人間の枠から外れた青い瞳を前にすれば、誰も動けるわけもなく。
「じゃあ、私は君に殺されないといけないのか」
タンタンターンと小気味よくキーボードを叩きながら、夏油さんの視線は五条悟ではなく目の前のパソコンに注がれている。
僕の額を変な冷や汗が伝う。
ああ、夏油さん、そういうところです、そういうところです!! と必死に訴えるが、心の中なので誰にも届きはしない。
「は?」
その声音だけで人を殺せそうなほど、五条は低い声を発する。
「私が私の意思で任務に駆けつけた。誰からの指図も受けていない」
「お前、人がどれだけ心配したと思って………」
「うん、ごめん。でもあのままだったら一年の誰かは死んでた。悟が大切にしてる生徒を死なせるわけにはいかなかったんだよ」
「………宿儺は?」
「ああ、少し話した。まさかあの宿儺と話せるとはね。ただ特級呪霊が取り込んでた指は食われてしまったよ。それはごめん」
「別に僕も食べさせるつもりだったからそれはいいよ」
「でも」
いいね。
五条悟が支配していた、場の空気が変わる。
得体のしれない不気味な空気。
あの時と一緒だ。
夏油さんが補助監督を一蹴した、あの時と。
「宿儺、欲しいな」
宿儺、あの呪いの王、両面宿儺か。
欲しいということは。
そういえば聞いたことがある。
あの五条悟と並ぶ呪術師が存在するという話を。
なんでも呪霊操術という、呪霊を取り込んで使役するという術式を持つ人間がいるということを。
まさか。
「あれ、取り込むのやべーだろ。というか呪物じゃん。呪霊操術の範囲外なんじゃない?」
「まあね」
「………範囲内だったとしても、さすがの僕でもあれは骨が折れるわ」
えー?? と、夏油さんが小首を傾げておねだりをしているが、五条悟は聞く耳持たずだ。
「夏油さんは、なんで事務方の仕事を?」
僕は呪術師になりたくて、訓練もすごく頑張った。
でも呪術師は結局生まれもった才能がほとんどを占めていて。
それでも少しでも呪術師の役に立ちたいと高専勤務になって、夏油さんも同じだと思っていたのに。
少しだけ裏切られた気分だった。
「特級? そんなの、もう、呪術師の頂点じゃないですか。なんでそんな力がありながらこんな仕事を、」
「こんな仕事じゃないだろう。呪術師を支えるためには必要な仕事だ。呪術師が日々力を発揮できるようサポートできる仕事」
「そうですけど………」
「それにね、私は能力としては才能があるんだけどね」
「傑、言うな」
五条悟がハッとして夏油さんの身体を抑えつける。
それでも夏油さんの唇は動いて。
「頭がイカれているんだ。高専時代に任務先の村人を一一二人皆殺しにしたくらいにはね」
「一一二人!?」
「そう。ああ、補助監督の人は皆知っているよ」
「あ、」
ずっと気になっていた。
どうして補助監督の人が夏油さんに畏怖を抱いているのか。
「呪術師としての才能はないんだ。悟が見張ってくれなければすぐに呪詛師になってしまうくらいにね」
「違いますよ、夏油さんは、」
そう、違う。
夏油さんはおそらく。
「夏油さんはまともだから呪術師になれないんですよ」
「はは、君、言うね」
「だって呪術師ってみんな頭イカれてますもん。夏油さん、」
まだここにいてくださいよ。
今までと同じように平穏に。
この人がどうか不幸にならないでほしい、と。
なぜか胸が痛むほど、願ってしまう。
「ふふ、でもね特級とやり合ってわかった。私は非術師を助ける気はないけど、呪術師は助けたいんだ。そのために力を使うのも悪くないんじゃないかって」
でも止めることはできなくて。
この先自分にできることはなんなのだろうか。
「特級は倒したんですよね」
「んー、取り込んだよ? 出して見せようか? まだ申請してないからアラートなると思うけど」
「いや、結構です! こんなところで特級出されたらたまりません!こちとら窓にすらなれない呪力なんですよ!?
「あはは、でも私に逆らうことはないから、危険はないけどね」
「やっぱり夏油さんも頭いかれてます。出て行っていいですよ」
目が潤んで視界が霞む。
声が震えるのをあなたは笑わないでいてくれるだろうか。
「………全力でサポート、します」
「うん、ありがとう」
自分が今できる精一杯の応援。
けれど、それを邪魔する空気を読めない人間は目の前に存在していて。
「じゃあまずは傑の高専の教師手続きお願いね! あ、あとなんか親しそうだけど金輪際傑と二人きりにならないでね! 僕の許可をとってね!」
「さ、さとる!!」
怖っ、と思うがここまでくれば逆に笑いが込み上げてくるというもの。
きっと五条悟がいれば、この人はきっと道を踏み外すことはないのだろう。
自分にできることを精一杯頑張る、それ以外の道はない。
「よし、がんばるぞ」
「その調子だ、徹!」
あまり呼ばれることのない下の名前が、よりにもよって御三家の当主に呼ばれて。
今度実家に帰ったら自慢しよう。
山本はいい手土産が出来たとばかりに、笑った。