幸福帰ってきて一番気になったのは、時計の音だった。不快というほどではないが、やたらと耳につく。見えない何かに追いたてられるようで、理由もなく、焦った。
あの世界はほとんど無音と言ってもいいくらい、静かで、シンプルで、必要なものが少ない、おおらかだがミニマムな場所だった。だからだろうか。
「幸鷹さん、お誕生日おめでとうございます」
「ああ、ありがとうございます。開けてもよいでしょうか」
彼女と手を繋いでこちらの世界に渡ってきて、最初に思い出したのは自分の誕生日だった。それから当時の住所や電話番号、家族のこと、それまでは必要ではなかったものを思い出した。砂時計が落ちていくように、とめどなく、一定の速度で。
「……時計、ですか」
「はい! 新しい時間、です」
こちらの世界のことを思い出した分だけ、あちらの世界のことを忘れてしまうかと思ったが、そんなことはなかった。ふれた空気、書物、交わした笑顔を、砂時計の砂が移り変わるように、交互に思い出すようになった。
「ありがとうございます。大切にします」
「こっちだと、なにかと時計見ますよね」
それに、いま目の前に、彼女がいる。彼女は、どちらの世界にもいた自分の、なによりの証だ。
「……ええ、私も同じことを考えていました」
「やっぱり? じゃあ夜、時計の音が気になって、眠れないのも、ですか?」
「はい」
「わあ! 一緒だ! 嬉しいです」
──彼女にとっての自分も、そうでありたいと思う。
時計の音が気にならなくなったのは、そのことに気がついてからだった。