失落の森「今年はリンゴが豊作でね」
オベロンがそう発したのは宝物庫から帰る道すがらであった。立香が同行したサーヴァントの面々と別れ、自室に向かう所で、その後ろを歩いていた彼が唐突に口を開いた。そそくさと前方に回り込み、鮮やかな翅をふんわりと開いて行く先を遮っての行動だった。
「だからさ、収穫を手伝ってもらえないだろうか?」
「収穫?」
「そう、熟れて地面に落ちてしまう前に採っておきたいんだ」
「もちろん! あ、人手が必要なら集めるよ」
「それには及ばない。何分、あの子らはまだ人間に慣れていなくてね」
秋の森に住まう妖精たち。特異点か、はたまた夢の狭間か。そんな曖昧な空間に住まう小さな妖精達はかねてから人間をはじめとした大きな生き物が苦手だと聞いている。触れるどころか、姿を見ることさえも、本来ならば好ましくはないらしい。唯一の例外はオベロンとその許可を得た者だけ。例えば、彼の主人である汎人類史のマスターだとか。
かつて立香がそこに足を踏み入れた際は増え過ぎた花を間引くのが任務だった。彼の言った通り、大繁殖した花々が小妖精達の寝床にまで侵入してしまっていて、それはそれは大掛かりな庭仕事になった。
中腰を長く続けてはいけない。それがよくよく身に染みた。仮にタイムマシンがあるならば、真っ先に気を付けろと過去の自分に忠告するだろう。
なお、腰に深刻なダメージを負った立香がオベロンのマッサージを受けて、あられもない声を出してしまったのは記憶に新しい。噂は瞬く間にカルデア中を駆け巡り、立香は顔を真っ赤にする羽目になった。
こちとら生娘である。生暖かい目で職員一同に見守られるのは勘弁願いたいものだ。
「今度からは書文先生にマッサージ頼むから……」
「あっははは。あれは傑作だったね」
「笑い事じゃない!」
「それはともかく、返事はオーケーだね?」
「うん」
「ならすぐに行こう」
「えっ」
パチンと指を鳴らす音が聞こえた途端、くるりと景色が切り替わる。今の今まで硬質のリノリウムを踏んでいた靴底は、ふかふかの土の上にいた。
「嘘でしょ!?」
「善は急げって言うじゃないか」
「いくら何でも早すぎるって!」
クレームがてらぽこぽこと妖精王の胸を叩いても、カルデアの廊下には帰れない。要するに彼の気の済むまでは囚われの身であるのは確定だった。
「ああもう、シャワー浴びてから夕飯食べたかったのに」
立香の腹の虫が可愛らしく空腹を告げる。いかんせん激しい訓練の後でヘトヘトなのだ。ここからリンゴの収穫を始めるなんて、とてもじゃないか正気を疑うというのが率直な感想だった。
「ごめんごめん。代わりに採れたての果実を分けてあげよう。本当は森の子達の食べ物なんだけど、君には特別だよ?」
「いいの?」
「もちろんさ。手伝ってくれたお礼がないのも忍びない。じっくり味わうといい」
オベロンが示した先には枝に真っ赤な果実を実らせた樹木が並んでいた。なるほど。豊作であるのは事実らしい。右も左も前も後ろも、よりどりみどりだった。
肩の高さに実っていた一つを枝から捥ぐ。熟れた実は鮮やかで、みずみずしく潤っていた。
「ありがとう。頂きます」
歯を突き立てる。噛み砕く。溢れた果汁が喉の奥に流れ込む。口内を占有する甘酸っぱさは、過去に食べたどんなリンゴよりも上質なものだった。
「美味しい! すっごく美味しいよ、コレ!」
「お気に召して何よりだ。褒めて貰えて僕も嬉しいよ」
オベロンは朗らかな笑みを浮かべて立香の背中を眺めていたが、ふと彼自身も手元の一つを見聞し、大口を開けてそれを飲み込んだ。種までをもゴリゴリと噛み砕き、胃の奥へと押し流す。
妖精王にとって秋の森の果実は魔力の源泉でしかなかった。無味無臭の塊だった。──彼女がそれを口にするまでは。
「知っているかい。リンゴは禁断の実と言ってね、口にした者の無垢さを失わせる」
ほとばしる酸味を反芻する。
「この森はいつかの未来で燃え尽きた土地だ。冥府と称しても過言ではない。そこに生る果物を食べた人間はどうなるだろうね」
湧き上がる甘味を堪能する。
「君がいけないんだ。"俺"以外に聖杯を与えるなんて言い出すから」
オベロンはカルデアに初めて召還されたサーヴァントだった。前線でも支援でも活躍した彼のこれからに期待して、立香は万物の願望器を与えた。それも複数も。
だからオベロンは新しい聖杯も自分が貰えるものだと高を括っていた。けれど立香が選んだのは最近召還に応じたばかりの別の男だった。プツン、とオベロンの中で何かが切れた。
「オベロン! もう一個食べてもいい?」
「どうぞ。好きなだけお食べ」
満面な笑みで振り向いた少女に妖精王は柔らかく微笑んだ。もう戻れないと知った彼女を抱きしめる未来を想像して、舌先からジンワリと唾液が染み出してくる。
ああ、きっと彼女はこの森にあるどんな果物よりも芳醇で甘美なのだろう。