夜の散歩の話「これ終わったら外歩くか」
手際よく皿を洗って水切りかごに置く外岡が神田を振り返った。台所にはまだ夕食の匂いが残っており、換気扇が熱気ごと吸い上げている。
「いいけど、急になんスか?」
「せっかくうちに来てるんだし。ボーダーにいたら散歩できないだろ」
神田は水切りかごの皿を拭いて棚に戻した。世帯用住宅の台所でも男二人が並ぶと手狭に感じる。
外岡に視線を投げると生白いうなじが目に入った。日焼けしない性質なのか夏も冬もおろしたての綿のような色をしている。聞くところによると通学以外であまり外に出ないらしい。ボーダー本部基地の中にいれば衣食住に困らないから外岡でなくてもそうなるのは想像がつくのだが。
神田たちにとって昼間以外の外出は珍しくないのだがそれは全て防衛任務の都合だ。ボーダー隊員かつ受験生だからこそ、予定のない夜は貴重なものだと神田は実感している。だから外岡と共に過ごしたいというのは神田なりの愛情と敬意の表し方なのだが彼はいつもつれない。こちらの思惑に気づかないほど鈍い男ではないはずなのだが。
神田は最後の皿を棚に戻して扉を閉めた。説得するより行動する方が早いと判断して玄関へ向かうと親鳥を追う雛のように外岡もついてきた。
玄関のドアを開けると蒸れた空気が中に入り込んできた。アプローチを踏みしめて公道に出ると、周囲の家の窓から漏れる灯影が目を刺激した。団欒の時間帯のせいか人影は少ない。
とくに目的地を決めずに出てしまった。とりあえず最寄りのコンビニを目指して歩いていると、隣の外岡がぽつりと言葉を漏らした。俯き気味の横顔が街灯の光を受けて青白く浮かび上がる。
「おれなんかのために時間作ってくれてありがとうございます」
「なんかってなんだよ」
歩きながら神田は外岡の脇腹を小突いた。Tシャツ越しに薄い身体の感触が手に伝わる。ついでに彼の手首を掴む。手を繋ぐというには乱暴な仕草だった。指を指で絡め取ると、掌にねっとりとした体温を感じた。彼の熱を意識してどきりと鼓動が高鳴った。
「だって受験生の貴重な時間もらえるわけないっしょ」
「受かるからいいんだよ。この程度も遊ぶ余裕ないならとっくに引退してる」
「まぁそうっスね。神田さんは目標に向かってちっさい頃から努力してきた人だからそこは心配してません」
「そう。だから別に無理しなくてもおまえとの時間は作れるんだよ。……」
言葉を紡ごうとするも、実際音になることなく飲み込んだ。乾いた唇を舐めて、改めて口を開く。
「……おまえが別にいらないっていうなら別だけど」
「じゃあ受験が終わるまで控えたほうがいいっスね。やっぱ忙しい人に相手してもらうのはおれが気にするんで」
親しい相手にも憚られるような言い方をしても外岡は動じなかった。そして返ってきたのはまるでこちらに興味がないといわんばかりの声音。しかし触れ合う肌はあたたかく神田の手を優しく包みこんでいる。
人懐こくて、物分かりがよく、多くを求めない性格。多忙な自分にとっては最高の恋人なのだと分かっている。しかし、理解していても納得できるかは別の話だ。気遣いも度が過ぎるとかえって重圧となる。
「おまえ、思ったより面倒くさい奴だな」
「そんなん初めて言われましたよ。それよりねぇ、お茶買ってください」
喉渇きました。そう言って指差す先にはコンビニエンスストアがあった。神田の心の隅にある靄は明るい声にかき消されてしまった。
「いいよ。ついでにおやつも買おう」
「やった!」
こういうときだけは素直に甘える無邪気な声を聞いてほのかな痛みが胸に残った。
欲しい言葉はいくらでも与えてくれるのに本当に求めているものは手に入らない。外岡と出会ってからずっとそうだった。今まさに。