ヤング・クロウリー ~始まりの物語~ 第二部⑲話「森へ……」 天気の良い日だった。
森の木々をそよ風が揺らし、若葉は陽光に透けて金緑に輝いている。朝露をのせた木苺はまるで宝石のように美しい。下生えには春の花々が咲き乱れ、美しい蝶や陽気な蜂が飛び回っていた。
ピクニック日和だな、とディアヴァルは思った。これから起きることを考えると、それはとても皮肉なことに感じた。
彼は森の木々を飛び移りながら、地上を歩く二人の人間を観察していた。
森の中を楽しげに歩いてゆく少女は、簡素な遊び着を着たスノーホワイト姫だ。その後ろからハントマンがついて行く。姫の楽しそうな様子と裏腹に、ハントマンの表情は暗く翳っている。きっと、心の中ではこれからやらねばならないことを思い浮かべているのだろう。
ディアヴァルが知るハントマンは、誠実でむしろ陽気な男だったが、目の前にいる彼は憔悴しきっているように見えた。
咲き誇る花々や豊かに実った木苺を追って森の奥深くへと来た時、ハントマンの表情がひときわ固くなった。
周囲を見回して確認し、姫の後ろからじっとその背中を見つめている。その間ずっと、指は落ち着かなく腰に下げた短剣の柄を撫で回していた。
そしてついに、その手がぐっと強く短剣を握りしめ、引き抜いた!
研ぎ澄まされた短剣の刃が、木漏れ日を受けてギラリと光る。
短剣を振りかぶったハントマンは、姫の後ろから大股に歩み寄り、姫の肩をつかもうとした。
そのとき。
姫が振り向いた。
輝くような笑顔がハントマンの強張った顔を見て、怪訝な表情に変わる。そして彼の手に握られた短剣を見た時、姫の目は驚愕と恐怖に見開かれ、手に抱えていた花束がバラバラと地面に落ちた。
ハントマンが、姫の肩を掴む。
と、姫が我に返った。
森の中に甲高い悲鳴が響き渡り、ハントマンは姫を掴んだ手を放して怯んだように後退った。
縮こまって震え上がる姫を前に、ハントマンもまた固まっていた。彼の手が震え、握りしめていたナイフが地面に落ちて突き立った。
ハントマンはその場に崩折れると、跪いて頭を垂れ、たくましい両手で顔を覆った。
「駄目だ、私には出来ない……!」
彼は、姫のドレスの裾を手に取り、口づけた。そして姫の顔を見上げてこう言った。
「姫、逃げてください。決して戻っては駄目です。殺される!!」
姫は顔を覆っていた手を下ろし、震える声で問いかけた。
「どういうことなんですか? 誰がそんなことを……」
それに答えるハントマンの声は苦しげだった。
「女王陛下です……。陛下が姫様を殺せと命じられたのです。逃げてください。森の奥へ! 絶対に戻ってはなりません! 逃げるのです!!」
姫の顔に悲痛な色が浮かぶ。
「まさか……。おかあさまが私を? そんなはずはありません。なにかの間違いでは……?」
「いいえ、本当のことです。この箱に姫様の心臓を入れて持ち帰れ、と命じられました」
そしてハントマンは雑嚢からあの赤い箱を取り出して見せた。
「そんな……。どうして……」
「陛下は、姫様が隣国と通じたとお怒りなのです。姫、城に戻ってはいけません。逃げてください。箱には豚の心臓を入れてごまかします。どうか、逃げて生き延びてください……!!」
姫の身体が震え始めた。目に涙が盛り上がり、こぼれ落ちる。
「おかあさま……。なぜ……」
そして姫は、唐突に身を翻すとその場を走り去った。
ディアヴァルはもちろん、姫のあとを追った。
姫は何度も転びながら、森の奥へ、奥へと走ってゆく。
進めば進むほど木々は高くそびえ、緑濃く茂った枝葉の隙間からはもう、空も見えなくなっていた。
暗い森の奥で、姫はとうとう地面に倒れこんだ。
小さな空き地の湿った苔の上に横たわり、荒い息も整わぬまま、姫は泣きじゃくり始めた。
可哀想に……。誰からの憎しみも感じたことがなさそうな彼女にとって、もしかしたらこれが初めて向けられた「悪意」なのかもしれない。よりによって最初のそれが継母からの殺意になるとは。信頼しきっていたのに、どれだけ辛いだろう。
しばらくすると、周りに生き物の気配が集まり始めた。
ディアヴァルはそれに気づいていたが、姫は何も気づかぬまま泣きじゃくっている。
一匹のうさぎが木陰から出てきた。
なかなか勇敢なやつだな、とディアヴァルは思う。
うさぎは、姫の手に近寄ると、そっと首を伸ばして匂いをかいだ。そして、ふにっ…と鼻を押し付ける。
「きゃっ!!」
姫は一言叫ぶと跳ね起きた。
その目の前で驚いたうさぎが木陰に逃げ戻る。
「まあ、うさぎさんだったの? ごめんなさい、驚かせてしまって。私ね、とっても怖い目にあったの。それで驚いてしまって」
うさぎが下生えの影から姫の方を伺っているのが見えた。
「怖がらなくていいのよ。大丈夫。私は何もしないわ。お友達になりましょう」
そう言うと、姫はにっこりと微笑んだ。すると、うさぎはおずおずと歩み寄ってきて、姫の手に鼻面を押し当てた。
「まあ、冷たいわ!」
姫はうさぎの顔にするりと手を添えると、そっと撫でた。
「ありがとう。慰めてくれるのね」
姫がうさぎを撫でていると、他の動物たちも物陰から現れ始めた。ねずみや鹿、りす、地りす、小鳥たちもいる。
動物たちを見た姫の顔に笑みが浮かぶ。誰もが愛さずにいられないような無垢な微笑みだ。ディアヴァルには、動物たちの緊張が目に見えて解けてゆくのがわかった。
姫は動物たちを見回すと、にっこり笑い、問いかけた。
「困った時はどうすればいいの?」
すると小鳥たちが歌い始めた。
「まあ、歌えばいいのね?」
そして姫は小鳥に合わせるように歌い始めた。
── 歌を 歌え
── 微笑むと 苦しみは消えて
── 太陽が 顔を出す
姫の美声に誘われるように、動物たちが次々に集まってくる。
── 歌を 歌え
── 微笑む時 喜びが 目を覚ます
── 嵐の吹く 夜もじっと こえれば
── やがて朝が来る
動物たちはもう、姫が手を伸ばせば届く距離まで近寄って座りこみ、歌に聞き惚れていた。のど自慢の小鳥たちは、姫の歌に合わせて自分自身の歌を披露している。
── 歌を 歌え
── 微笑むと 苦しみは消えて
── 陽が輝く
姫が歌い終わると、動物たちは飛び跳ねて全身で喜びをあらわした。
「元気が出てきたみたい。もう大丈夫ですよ」
姫の顔にも笑顔が戻っていた。
「きっとなにもかも上手くいきそうよ」
ディアヴァルはそれを聞いて、なんて楽天的な子だろうと半分呆れつつも感心した。ついさっき殺されかけたばかりなのに!
そんなディアヴァルの思いなど知らず、姫は言葉を続けた。
「でも寝るところはないかしら。地面では眠れないし、木の上では落ちちゃうし。みんなの巣では小さすぎるし」
と、動物たちを見回し、小鳥の巣を見上げて言う。
「いいところを知らないかしら? 森の中に……」
すると、小鳥や動物たちがざわざわと声を上げ、立ち上がり始めた。子鹿が姫を振り返ってしっぽを振る。ついて来いと言っているのだ。
「あるの?」
と、姫が問うと、動物も小鳥も一斉に声を上げる。
「それでは連れて行って」
と、姫が言うと、小鳥たちは姫のケープを嘴でくわえてひっぱり、子鹿はとことこと走っては振り向き、リスたちも同じ方向へと走り出した。
そうして姫は森の中を再び進み始めたのだった。