無題キスの日の玉雪
雪祈はスヤスヤと眠っていた。
玉田の家で勉強会をすると、本場アメリカの有名なジャズバンドのライブDVDがあるからこれを見て勉強するぞと張り切っていた男は、バイトで帰ってくるのが遅れている大を待っている間に眠ってしまったのだ。
「雪祈、寝るならこっち」と手を引くと、コクコクと無言で頷きながらベットに乗り上がって雪祈は寝た。
腹部の上に置かれた組まれた両手、白い肌、男にしては長い黒髪、眠る雪祈の周りに花なんて飾れば、その姿はさながら童話に出てくるお姫様の様である。
意地悪な継母に毒林檎を食べさせられ、眠ってしまうお姫様。最後は運命の王子様とのキスで目を覚ます、小さい頃に見た童話の記憶が蘇る。
「雪祈、起きろ」
眠っている雪祈に声を掛ける。
返事はない。穏やかな寝息が返って来るだけだった。
「起きないと、キスしちまうぞ」
これにも勿論返答はない。当たり前だ、雪祈は寝ているのだから。白い頬を優しく撫でた。
頬を撫でて起きたのだったら、これ以上何もしないのに。雪祈は起きなかった。「んぅ……」と小さな子供の様な吐息を漏らすだけだった。
「…雪祈、好きだ」
起きている時には言えない言葉をポツリと零す。雪祈は男だ。運命の人は絶対に自分ではない事なんて理解している。
それならば雪祈が眠っている間だけでも、自分が運命の人だという事にして欲しい。
頬に手を添えて、柔らかい唇を塞いだ。
ちゅっとリップ音が予想以上に大きくなって慌てて顔を離す。
雪祈はまだ寝ていた。
これでもし、このキスで雪祈が目を覚ませば、運命の人は俺だったのになんてあまりにも女々しくてダサい事を考えて思わず泣きそうになりながら笑った。
「ただいまー」
「…おう、お帰り」
丁度良いタイミングで大がバイトから帰ってきた。玄関まで迎えに行くと大は「土産だべ」とお菓子とジュースの入ったエコバッグを誇らしげに掲げた。
「あれ?雪祈は?」
「あー…雪祈は…寝て…………え……?」
「大、帰ってくるの遅せぇよ」
「怒んなって雪祈。ほら、お土産あるべ」
目の前に広がる光景に体が固まった。
ベットで眠っていた筈の雪祈が起きている。
ベットから降りて、ソファに腰掛けてスマホを触っている。
ついさっきまでベットで爆睡してた筈なのに。声を掛けても起きなかったのに。眠っていたからキスをして、告白までしたのに。
羞恥で顔が熱くなり、絶望で背に冷たい汗が流れ、温度差で風邪を引きそうだった。
「俺手洗ってくるからDVDの準備頼んだべ」
「はいはい、りょーかい。玉田、ほら準備しろ」
「お、おう」
何事もなかったかの様に雪祈が振る舞うので、もしかしてキスをしたのは白昼夢だったのかもしれないと思った。そもそも雪祈が眠っていた所から幻覚だったのかもしれない。雪祈は最初から起きていたのかもしれない。
唇に触れる。柔らかい感触がしたのはしっかり覚えているのに、これも幻覚とか幻とか白昼夢とか、そんな不確かなものだったなんて、少しだけ悲しかった。
「玉田、何処押したらいいのこれ」
「あ、あぁはいはい。これは」
DVDのケースを持った雪祈の横に座り、DVDデッキの電源ボタンを押そうとした時、ずいと雪祈が顔を寄せて来た。
頬に柔らかい感触がする。さっき唇に触れた、あの柔らかい感触。夢じゃなかった、あれは、あの感触は。
「玉田、大事な事は俺が起きてる時にちゃんと言え」
「え?え?あ、あぁ、その、わりぃ」
何処から起きていたのか、夢じゃななかったのか、今雪祈は何をしたのか。
色々聞きたい事があるが、何を言っていいのか分からずに、しどろもどろになりながらとりあえず謝罪をする。
ぷいと不機嫌そうに反っぽを向いた雪祈の耳は真っ赤になっていた。丁度良いタイミングでDVDが始まった。