体調不良の❄️を看病するピアノちゃんの話ぬいぐるみと思っていたピアノちゃんと会話する❄️
沢辺雪祈は体調を崩した。
季節の変わり目で、バイトが忙しくて疲労が重なり、食事を摂る事も忘れて作曲作業をしていたり、様々な要因が重なった結果熱を出して寝込んでいた。
薬を飲む前に何か腹の中に入れる必要がある。そんな事はいくら生活に対して無頓着な雪祈るはでも分かっている。
分かりはするのだが立ち上がるだけで目眩がするので台所まで行けないし、そもそも薬を飲む前に食べる物がカップ麺で良いのかどうかも不明だった。お粥などのお腹に優しい物が良いのは分かるが、生憎雪祈の家にそんな物はない。あるのはセール品だったカップ麺のみである。
「…きっつ…」
ボソリと呟いただけで喉が痛み、ゲホゲホと噎せてしまう。枕元に置いていたペットボトルの水は既に空っぽになっていた。
目を閉じて横になっている筈なのに世界がぐるぐる回っている気がする。気持ちが悪い、苦しいと思い始めて漸く雪祈は自分自身の危うさに気づいた。寝ていれば治ると思っていたが、もしかするとそんな事ないのかもしれない。このまま悪化して死ぬ。そんな未来がうっすらと見えてしまった。
同居人がいるなら救急車を呼んでくれたりしてくれるのだろうが、雪祈は一人暮らしである。
もしこのまま体調が悪化し、死ぬ事になっても誰にも気づいて貰えないのだ。
「……う、………ぐ………」
雪祈はスマホを探すために瞳を開けた。
ぐらつく視界に耐えながら、ベットの上からスマホを探す。
このままでは数日後の朝刊の見出しは『大学生、風邪で孤独死』となってしまうだろう。そんな未来は何としてでも避けたい、避けなければならない。まだ雪祈にはやりたい事が沢山あるのだ。
視線を動かして漸く雪祈はスマホを見つける。
書いている途中の楽譜が散乱しているテーブルの上にスマホはあった。重たい手を懸命に動かしてスマホに向かって手を伸ばす。
立ち上がる事が出来たら立ち上がるのだが、どうしても起き上がる事が出来ない。
「…くそ…!」
自分の腕とは思えない程に重たい腕をずっと伸ばしておく事は出来ない。とうとう力が抜けた雪祈の腕が沈む。手の先だけがベットから落ちて、ぶらりと揺れた。思い通りにならない自分の肉体と、体調不良のキツさに涙が滲みそうになった時、何かが手に当たる。
「?」
ぶらりと手が揺れた先に、もこふわっとした物がある事に雪祈は気づく。床に落としてしまったタオルだろうか。こんなにふわふわしたタオルを持っていたかどうかは不明だが、恐らくタオルで間違いないだろう。
「めぇ~〜」
「??」
タオルではなかった。少なくとも雪祈の知っているタオルは音を立てない。ふわふわして柔らくて、鳴き声を上げる物。もしかすると鍵を閉め忘れた玄関から猫が入って来たのかもしれない。どのように野良猫がドアノブを回したのか不明だが、恐らく猫で間違いないだろう。
「あぁば〜」
「……は??」
雪祈の眼前に現れたのはつぶらな瞳をしたピンク色の毛玉だった。
体調の怠さも忘れてしまう程に雪祈は驚愕し、目の前の物体をまじまじと眺める。まん丸な黒い目、もこもこしたピンク色の毛、頭部から垂れている耳。猫と思っていたが、これは猫ではない。
そういえば幼い頃動物園でこんな生き物を見た気がする。記憶の中の生き物とは大分違う気がするが、恐らくこれは羊で間違いないだろう。
「……何で、羊のぬいぐるみが、俺の、家に……?」
何故部屋に動いて喋るぬいぐるみがあるのかは不明であるが、本物の羊が家にいる方が怖いので、ぬいぐるみで間違いないだろう。いや寧ろぬいぐるみであってくれと雪祈は願う。
「めぇ?あばっ、め~~~?」
何を言っているのかさっぱり分からないが、恐らく羊は雪祈を心配しているのかもしれない。ふわふわの手がぽむっと雪祈の額に乗せられる。その手で熱があるのとか無いとか分かるのか、そもそも羊は熱という概念を理解しているのか。
脳内をはてなマークでいっぱいにした雪祈は己を見下ろすピンク色の羊を見つめる。
色々考えていたが、雪祈は漸くこれが夢である事を理解した。
これは所謂、体調を崩した時に見る悪い夢である。夢ならば、目の前に動く羊のぬいぐるみがいても問題ない。
もこもこの柔らかい体毛を触りながら、熱で朦朧とする頭で雪祈は思った。大と玉田は動くピンク色の羊のぬいぐるみを見た事あるだろうかと。きっと無いだろう。
「…な、スマホ、取ってくれねえか…?」
「めぇ?」
アレです、とテーブルの上を指さすとぬいぐるみは大きく頷きベットから降りていく。テーブルをよじ登り、羊は置いてあったスマホを短い足で蹴り落とした。ゴツ、と嫌な音がした。画面が割れていないか心配になったが、夢なので割れていても問題はない。可愛らしい見た目の割に大胆な動きに思わず笑ってしまう。
暫く待っていると「めぇ」と鳴きながら羊はスマホを雪祈の所まで持ってきた。
ひびの入ったスマホの画面を見て見ぬふりをして、雪祈はノロノロと指を動かして電話を掛ける。大はバイト中だろうか、大が駄目なら玉田だな。面白い反応をするのはきっと玉田の方だろう。大より先に玉田に電話すれば良かったと思っていた時、「もしもし?」と大の声がした。
「げほっ、…あ、…だい…?」
「雪祈!熱大丈夫か?下がったのか?」
「…大、お前さ、動いて喋るぬいぐるみ見た事…あるか?」
「…………ごめん、なんて?」
電話越しでも分かる。今大は鳩が豆鉄砲喰らったような顔をしているだろう。大の驚いた顔、見たかった。きっと間抜けな顔をしているのだろう。
想像したら笑えてくる。
「ふ、ふふっ…は、はははは…」
「雪祈、今何処いんの!?家!?」
「はははっ、…げほっ、ぐ、ぅっ、げほ!!」
「雪祈!!」
笑いすぎたせいで噎せてしまった。
風邪のせいで腫れていた喉を酷使してしまったので咳が止まらない。スマホを持っておく事が出来なくなり、手からスマホが滑り落ちた。顔の横に落ちたスマホから「雪祈!」と己の名前を呼ぶ声が聞こえる。
夢の中では痛みを感じないと思っていたが、体調のしんどさがやけにリアルだった。不思議な夢だと涙で滲む視界の中で雪祈はそう思った。
気づけば雪祈の顔の横に来ていたぬいぐるみがスマホを取る。
「雪祈!聞こえるか!」
「めぇ、めぇ〜!」
「雪祈!?羊の真似してる場合じゃねぇべ!」
大とぬいぐるみが電話で会話をしているのを見て雪祈は吹き出した。録画をしようと思ったがスマホをぬいぐるみが持っているから出来なかった。
咳が出て、呼吸がしにくい。苦しいが、それでも面白くて、涙を流しながら雪祈の意識はそこで途絶えた。
ピタリと額に乗せられた冷たさに、雪祈は瞳を開く。ぼんやりと霞むをはっきりさせるべく、目を擦れば心配そうに雪祈を見下ろす大と目が合った。
「……大……?」
「雪祈!良かった…本当に良かった……!」
お前人の家で何やってんの?と訪ねようとしたが、いくら熱で頭が朦朧としている雪祈でもこれだけは分かる。大が看病しに来てくれたのだ。
机の上に置かれたビニール袋から見えるスポーツドリンクやお粥を見て雪祈は気まずそうに視線を反らす。
「…悪かったな、お前だって、忙しいのに…」
「あんな電話貰ったら誰だって心配になるべ」
電話と聞いて雪祈は動きを止める。ゆっくりと視線を動かして部屋を見渡した。
ピンク色の羊のぬいぐるみは何処にもいなかった。やっぱり夢だったのだ。それはそうだろう。ピンク色の羊のぬいぐるみが動いているなんて、そんなの夢でしか有り得ない。
悪夢ではなかったが、我ながら意味の分からない夢だったと雪祈は笑った。
布団の上に置かれたスマホを雪祈は手に取る。
今は何時なのだろう。何時間寝ていたのだろうか。
「……は……?」
ひびの入った画面を見て雪祈は固まる。
こんなひび、前まで入っていなかった筈だ。
「雪祈?どうした?顔色悪ぃけどまだ気分悪いべか?」
「大。…聞きたい事あんだけど」
「ん?どした?」
スマホを見て動きを止めてしまった雪祈を見て、大は心配そうに額に置かれていたタオルを冷やし直して額に乗せ直してくれた。
大の心遣いに感謝したいが今はそれどころではない。電話の内容が気になって仕方がない。
『あんな電話貰ったら誰だって心配になる』と大は言っていた。
あんな電話とはどんな電話だったのか。
「……俺さ、電話で、何話してた?」
「雪祈覚えてねぇのか?いきなりピンク色の羊見た事あるか?とか、あといきなり羊の声真似し始めるから…」
「心配になって…」と大がまだ何か言っていたが、雪祈の意識は残念ながら再び遠のいていった。
あれは、あのピンク色の動くぬいぐるみの羊は本物だったのだ。
「なんだ雪祈、寝るのか?」
「………寝ます」
「それがいいべ。一緒いてやるから」
このまま寝て、全てを忘れてしまおうと思った。病が見せた幻の可愛い羊のぬいぐるみ。もしかするとまた別の熱を出した人間の所に現れているのかもしれない。
「おやすみ、雪祈」
ぽん、ぽんとリズミカルに体を叩かれて雪祈は居心地の良い夢の世界に落ちていく。遠くから「め〜」と小さく羊の鳴く声がしたが、聞こえないフリをした。