追憶「苦い」
オーエンは顔をしかめた。子供のようにべっと舌を出し、カップを置く。
ほんの少し口に含んだだけだというのに、コーヒーはその苦味をくっきりと主張してくる。恨みごとのひとつでも言ってやりたい気分だったが、コーヒーに砂糖も入れず飲んだのは他でもない自分自身だし、なによりこの場には他に誰もいない。
向けるあてのない苛立ちをぶつけるように、オーエンは舌を出したままシュガーポットを乱暴に引き寄せた。午後の陽射しが差し込む静かな食堂に、ぽちゃん、ぽちゃんと角砂糖がコーヒーに沈む音だけが響く。
苦いと分かっているコーヒーをわざわざ用意し、口を付けた理由は、オーエンにもよく分からない。ただ、このマグカップを見た瞬間、オーエンはこれにコーヒーを満たすのが自然であると思った。
そして、煮詰めたカラメルのような濃い焦げ茶色を、何度も視界にとらえていた気がするあたたかな色を、いつも自分を見つめていた気がするこの色を、なぜか「甘い」と感じた。だから砂糖も入れずに飲んだのだ。普段の己では考えられない、まったくもっておかしな話だ。
シュガーポットに入っていた角砂糖のほとんどを放りこみ、コーヒーの海に砂糖の浮島ができたところで、オーエンはようやく手を止めた。じっとマグカップを見つめる。
白い、何の変哲もない、どこにでも売っているようなマグカップ。ただ奇妙なのは――それに「オーエンが魔法で修理した形跡がある」こと。そして、オーエン自身はそのことに全く覚えがないということだった。
思い出せないということは、おそらくこのマグカップは過去の賢者の持ち物であったのだろう。しかし、自分がわざわざ他人の持ち物を修理するなんて不可解にも程がある。まさか、弱みでも握られていたのだろうか?それとも、他の理由が?
こうしてコーヒーを飲んでみても、中身の入っていないシュークリームのような気持ちが胸に広がるだけで、疑問の答えはひとかけらも見つからなかった。
(……変なの)
オーエンはマグカップにスプーンを突き立てた。ざくざくと砂糖の塊を砕いていく。大体を溶かしたところで、さらに砂糖を入れようとシュガーポットをのぞき込む。
(?)
オーエンは目を瞬かせた。シュガーポットの底に数個残っていた角砂糖。その中に、ひとつだけ猫の形をしたものがあったのだ。指先でつまんでみると、頭をいつかの情景がよぎった。
『なにこれ』
『――、――』
『へえ。けだものの形の砂糖なんて、良い趣味してるじゃない』
『――?』
『いらないとは言ってない』
『――! ――?』
『やだね。あんな苦いもの、いくら砂糖を入れたって飲んでやらない。淹れるなら僕の分は紅茶にしてよね――』
オーエンははっとして顔を上げた。そこに、誰かが座っているような――知っているはずの声で呼ばれたような、そんな気がしたのだ。けれど、当然のことながらそこには誰の姿もなかった。
オーエンはしばらく茫然としていたが、やがて猫型の砂糖に視線を戻した。手をマグカップの真上に持っていき、ゆっくりと指を開く。
ぽちゃん。
砂糖は重力に従ってまっすぐに落ちていった。「さよなら」にも「ありがとう」にも聞こえる小さな音が響く。スプーンで混ぜると、猫の形はあとかたもなく溶けていった。
オーエンはコーヒーをひと口飲んだ。砂糖を加えても苦みが消せるわけではなく、相変わらず舌には苦い味が広がった。
「……ほら。やっぱり苦いじゃない」
誰に言うでもなくつぶやく。苦さと同じくらいに感じる、甘い、甘いこの味を、この先忘れることはできないのだろうと思いながら。