「三日後だ。金曜日、お前にキスをするぞ」
「……は?」
「言ったからな。嫌なら断れよ」
じゃあな、と主――月城慧は颯爽と立ち去った。
三日後、金曜日。なにをするとあの方は言った? 抱えていたはずの書類がばさばさと床に落ちたが、拾い集めようと体が動かなかった。
金曜日、キスをするぞ。
「……は?」
もう一度反駁してみても、口から出てくる音が変わるわけではなかった。
月城慧は余計なことは言わない質だ。迅速果断を地で行く気性で、それは彼の有能の証だけれど言葉の足りないことで摩擦が生じる場合も多くある。それをフォローするのも自分の仕事、なのだが。
昨日の主の言葉には、物理的な過不足はひとつもない。日付、行動、条件……嫌なら、断ること。あとはこちらの判断次第、ということだ。判断のための情報で、足りないのはたったひとつ。何故、彼がそれをしたいのか、だ。
開示されていないそれにいくら頭を悩ませても仕様が無い。そんなことは普段ならすぐに了解できることなのだが、降りかかった案件の非日常さに頭が付いていかなかった。
キス? 月城慧が、私に?
何度反駁しても何を言われているのかわからなかった。戯れにあんなことを言ったのか? そんなことを好むような方だろうか。ハニートラップなら自分の得手だが、自分達のあいだにそんなことが今更必要とも思えなかった。探られる腹が全くないとは言わないが、今の彼が気にかけるようなことはないと言ってしまっていい。よもや、自身の従順を試されているのか――いや、それも彼の気性にそぐわぬ想像だ。そんな下世話なことを思いつく方ではない。
そうしてひとつひとつ思いつく理由らしきものを潰していくと、単純だけれども最もあり得なさそうな理由ばかりが残ってしまう。
ただキスをしたいのだ、あの方が、私に。それがどんな感情に由来するのか、そんなことを想像しても仕様が無い。名前を付けたところで自分と他人が感情を共有することは難しいのだから、それが、もしかして、一般的に恋とか呼ばれるような感情だとして……。
「……そんなことがありますかね」
一人きりの朝の練習室で、思わず独り言を落としてしまう。昨晩から同じようなことをぐるぐると考えては同じところに着地している。なのに着地場所が納得いかなくて、結局思考が落ち着くことはない。
今日は一日スケジュールが詰まっているからと、朝のうちに練習を済ませておきたかったのに少しも集中できなかった。ピッチが早くなっているのが自分でもわかる。こんなことではいけないのだが……。人一倍演奏に厳しいコンサートマスターの険しい顔が思い浮かぶ。けれどそもそも原因は彼その人なのだから如何ともしがたい。はあ、知らず大きな溜め息を吐いた。
「らしくない音だな」
「慧様……」
ノックもそこそこに、現れたのは諸悪の根源だ。誰のせいですか、と言外に冷たい視線を送れば、心から愉快といった笑顔を向けられてしまう。赤い瞳が悪戯に三日月形になるのが恨めしいのに、惚れ惚れするほど美しい。毎日眺めて、慣れたと思ってもこうして不意に心臓が鳴ってしまう。
「お前のそんな様を見られるとは、思い切ってみてよかったな」
満足げに頷く彼の口から出た台詞にますます混乱が増す。思い切って、あんなことを? 尋ね方がそれで正解かわからず、慧様、名を呼ぶことしかできなかった。
「俺は、したい。お前は、嫌なら断れ。それだけだ」
単純明快だろう? それだけ言うと彼はそのまま踵を返した。平日なので、このあとすぐに彼も自分も授業にいかなくてはならない。学生の本分にも妥協しないのが学園の信条だった。
その日は授業を終えるとコンサート準備に忙しく、スケジュールをこなすために思考を巡らす暇がなかった。時折彼の声で、俺はしたい、と脳裏に響いたが、そんなことを表情に出すような真似はしなかった。やっとスケジュールをすべてこなすと、去り際に彼はじっと私の顔を見て、さすがだなぁ、と感心した声を出した。
お褒めにあずかり……、などと素直に返せるわけもなかった。誰のせいでこんなことに、そう口にすれば彼が楽しそうに笑う気がしてその台詞は飲み込んだ。
次の日は、慧様は外の仕事のために一日中別行動だった。比較的ゆったりとしたスケジュールのなかで、意識してゆったりと呼吸をして気を落ち着かせて全体練習に臨んだはずだったが、早いピッチを改善できなかった。
失態だ。慧様がいらっしゃればなんと仰るか……。そこまで考えて、悪戯な三日月形の赤い瞳を思い出してしまう。あの人のせいなのだから仕様が無い。
「珍しいこともあるもんだな」
声をかけてきた堂本が、面白いものを見たと言わんばかりに口の端を上げている。
「私にも、不調な日くらいありますよ」
「ふぅん、大将となんかあったか」
「……いいえ、なにも?」
「へぇ」
あんたが不調だなんて、大将くらいしか原因は思いつかないがね。確信めいた物言いの堂本は、三日月形の赤い瞳。よりによって……。胸中で悪態をつく。意地でも表情は変えなかった。どうせお見通しだろうと体面は重要だ。
「あんたも難儀だな。ご愁傷様」
それだけ言うと、興味を失ったというように堂本は離れていった。その向こうで御門が浮かべるアルカイックスマイルが、堂本の台詞をなぞっているようだ。
人のことは言えないが、あの二人も相当に質が悪いな……。
頼もしいととるか厄介ととるか。隣人として面白いのは確かなのだが、今日ばかりは少しも嬉しくないのだった。
翌朝、慧様と授業の始まる前にスケジュールを読み合わせる。朝の練習をして授業をこなせば、通常練習をして終了という余裕のあるスケジュールだった。重厚な机で確認事項に頷くと、よし、と言って慧様は立ち上がった。扉に向かうのに従うと、ドアノブに手をかける前に彼は振り向いた。
「今日は金曜日だぞ」
「は……」
それだけ言うと、何事もなかったように扉を開けて彼は進んだ。
今日は金曜日。彼は予定を変える気はひとつもないようだった。
「それで、決めたのか」
「何をです」
「断るか、断らないのか、だ」
全体練習をこなせば、金曜日の終わりはもう目前だった。団員たちはもう全員が帰路につき、部屋には主従二人が残されるばかりだった。
「断らないなら、キスをするぞ。もう今日が終わる。断るなら、今のうちだ」
簡単な書類仕事を週の仕上げにこなしながら、目線も上げずにそう言われた。
「慧様」
「うん?」
最後に署名を終えると、ゆったりと彼はこちらを見上げた。座った状態の彼から私の顔までは相応の距離がある。これを、詰める、と。そうしたいと貴方は言ったのか。
「……どうして、と聞いてもよいのですか」
「構わないが、俺も聞きたいな。俺の理由如何で、お前は断るかどうか考えを変えるのか?」
「それは……」
ペンを置いて、座ったまま慧様はこちらに向き直る。理由など、一昨日にでも今朝のうちにでも、聞いてしまえばそれで済んだ話だ。それをここまで引き延ばしてしまえば、もう語るに落ちている。
「俺にとっては、お前が今のいままで断らない理由のほうが重要だな」
慧様の手がゆっくりと伸びて、右手を取られる。白い手袋を両手で外され、それは机の上に放られてしまった。素肌になった手指の先を引いて、慧様はそのまま中指の先に口づける。何も言えず、その様をじっと見るほかなかった。こちらの様子に、ふ、と笑うと、慧様は寄せた口でそのまま中指を含んでしまった。爪と肌のあわいに舌が這い、やわい力で甘噛みをされる。ひゅ、と背を走る刺激に喉が鳴った。
「……っ、慧様!」
「ふ、はは! わるい、調子に乗った」
反射的に引こうとした手を引き留められて、慧様は右手をつかまえたまま立ち上がった。手を引かれるままに並んでソファへと腰掛けると、悪戯な赤い瞳が至近で覗き込んでくる。
「思いつきではあったが、お前にこうまで意識させることができるとはな。作戦勝ちだ」
「……策を弄するほど、私を好いていらっしゃるので?」
「そうだ。知らなかったのか? 俺はお前を好いているよ。キスがしたいと思う形でな」
「それは、知りませんでした……」
「隠していた訳でもないんだがな」
団員だって、承知しているやつは承知している。言われて、昨日の堂本の三日月形の瞳が思い出された。あの男はほんとうに全部わかっていたのだな。面白がられたのがはっきりと悔しい。
「お前、そんな発想がなかったろう。断られたって、意識に昇れば上々と思っていたが」
慧様の指先が私の前髪を軽く払う。一房を取られて指先で撫でられる。これを、振り払うという選択肢がない。そういう自分にやっと気づいて、思わず目をそらした。
「断る素振りがないのだものな。俺だって舞い上がるというものだ」
「……貴方に好かれているという発想もなければ、貴方を断る発想もなかったのですよ」
「そうかそうか」
嬉しそうに弾んだ声に、視線を戻す。舞い上がっているという通り、にこにこと楽しげな表情は可愛らしくもある。指先が輪郭をなぞり、とうとう唇に触れた。
「巽、俺はお前にキスをするぞ」
「……はい、慧様」
返事を聞くや、やや乱暴に頬を包まれて唇を塞がれた。触れた唇は柔らかい。二度、三度と可愛らしい音をたてて繰り返す。
は、小さく息を吐いて、慧様は僅かに離した唇で笑う。
「ふふ、やったぞ。観念しろよ、巽」
今度は返事も待たずにもう一度唇を塞がれる。爛々とした赤い瞳が主の喜びを伝えてくる。その熱に当てられて血色の上がる頬には、どうぞ気づかないで。往生際悪くそんなことを思いながら、甘んじて唇を受ける。
金曜日の夜はそうして更けて、明日には主従以外の肩書きが付いてしまう。
次にはどんなことを言われるのだろうか。明日より先が、恐ろしくもあり、楽しみでもあった。