梅雨降りしきるなか立ちよった花屋。鼠色のジャケットの肩から雫を払い、店内に足を踏み入れる。色彩の波間をぬい、適当に選んだ生花を包んでもらう。紅梅色の菊、青紫の紫陽花、真っ白なガーベラ。隙間を白と緑が鮮やかなかすみ草と利休草で埋める。
ブルーグレイの包装紙で束ねてもらうあいだ、店員が、
「同業の方ですか?」
と問うてきた。
「いいや。なぜ」
「値札をご覧にならずに花の名前を仰ったので。この花束のとりあわせもとても素敵です」
「そうか。全く関係のない勤めをしているよ」
「そうですか。お花への愛情と造詣が伝わってきます」
ビニールで覆われた紙袋を受け取りながら。
「……私ではないのだ」
と半分ひとりごちる。
「はい?」
「花を好むのも詳しいのも、これを渡す奴のほうだ」
「……そうですか」
外へ出ると、雨は小降りにおさまっていた。扉を閉める間際、金縁の丸眼鏡をかけた店員が、
「いってらっしゃいませ」
と頭を下げる。パンタローネは紺青色の傘をさして、店をあとにする。
パンタローネの同僚、阿紫花英良は草花を好んだ。仕事が終わって、ふと路傍へ視線を落としては、
「あ、クレマチス」
とか、
「珍しい。糸繰草が咲いてますよ」
とか言っては、わざわざしゃがんだりする。パンタローネはその姿を見下ろして、
「糸繰。お前のことか」
と口にする。阿紫花はなぜか嬉しそうに、「いいえ」と返した。
「糸繰っつうのは糸巻きのことでしてね。こいつの本当の名はオダマキっていいやして、紡いだ麻糸を空洞状に巻いた苧環(おだまき)に似てるから付けられてんでさ」
「へえ」
「でも、旦那の言うとおり、あたしは糸繰草と呼ぶほうが好きですね」
その植物は、紫色の五枚の萼(がく)の内側に、同数で筒状の白い花弁を有していた。あとあと調べたところ、クレマチスもオダマキも総身に毒を宿すらしい。オダマキの花言葉は「愚か」だ。
パンタローネのストレートチップの革靴が濡れたアスファルトを踏む。曇天といえば阿紫花が最も好む天気だ。後ろ暗い行いをするには絶好の日和、というのが奴の言説だった。
折り畳みナイフを取りだした阿紫花が、
「あばよ。しまらねぇ幕引きだぜ」
と、芋虫のように横たわる人間の右腕をもちあげる。人間は猿轡をかみ脚を拘束されている。阿紫花は刃を跳ねあげて、人間の手首を掻っ切った。白目を剥き、もがく男を阿紫花は無表情におさえつける。勢いよく血のふきだす上肢を差し出して、
「飲みます?」
と、パンタローネに言った。パンタローネは呆れて、
「お前、ボスに不殺の誓いを立てていたろう」
と述べると、肩をすくめた阿紫花が、
「仕方ないでしょ。聞きてぇことあったから、ちっとばかしこづいたらこのざまでさ」
「嘯け。この男は、PSYGAの開発部門で軍需産業進出を推進する技術者だった。それも過激派の」
「えぇ。近頃こそこそしてたんで家探ししたら、社外秘の設計図を海外に売ろうとしてたんでね。新しい武器の製造に転用しようとしたんでしょう。こいつァ、やりすぎちまった」
「ボスは殺しを望まない。銃を握るのが軍人だろうとお前たちだろうと同じことだ。」
「」
ボスとは才賀勝と同義である。彼の父、才賀貞義の没後七年経ったのち、孫である才賀勝がPSYGAグループの代表取締役に就任した。彼の秘書にはギイ・クリストフレッシュが就き、阿紫花英良は管理部門トップ兼勝のボディガードを務めていた。
阿紫花は、
「要らねぇならあたしが飲みますよ」
と無造作に言うと、死体の上肢を掲げて大きく口を開けた。鮮紅色の雫が薄い唇に触れる寸前、パンタローネは肢体を奪いとる。そして男の肩から腕を千切って絞った。粗造な肉と骨の断面から血液がほとばしる。パンタローネはそれをワインのごとく飲み干して、やがてしなびた肉塊を放りなげた。片腕をもがれた男はのたうちまわり、くぐもった絶叫をあげている。
「これで満足か」
パンタローネは問う。
「あは」
阿紫花が歪に笑って立ち上がる。携帯端末で電話を掛けはじめ、後始末の依頼をする。彼の艶めく革靴の下でシロツメクサが潰れていた。
恵みの水をまとい、さんざめく草木。
「こんにちは」
と聞きなれた挨拶にパンタローネは傘をあげる。
「阿紫花さんのとこだよね。僕も行くよ」
雨足にあっても際立つ凛とした声音。茶髪でスーツを着た齢二十代の青年がそこに立っていた。才賀勝だ。
「パンタローネさんのお土産はなんですか?……わぁ、すごく綺麗な花束ですね」
「ボスは。何を携えている」
「日本酒です。阿紫花さんが好きな銘柄です」
「ああ。やつの故郷にある醸造所のか」
「はい。ふふ、阿紫花さんは『酒なんざ酔えりゃぁ何でもいんですよ』なんて言ってましたけど、ばればれです」
屈託ない様子はあどけなく、一見すると、世界を股にかけるPSYGAグループを担う人物にみえない。けれど彼、才賀勝は、あどけない笑顔の下で波瀾万丈の人生をたどってきた。喪失と獲得を繰り返し、痛みを越えるたび練磨された魂は、金剛石のような輝きを瞳に宿し鈍ることがない。
「そういえば、僕と平馬と、阿紫花さんとパンタローネさんで人形相撲した」
「ああ」
覚えてる
木っ端微塵に砕けちる人形。熱狂する観客。舞台裏に設置された、天幕下の選手用控え室にさがったあと、パンタローネは立ち止まって客席の熱気を顧みる。
「こういう歓声もあるのか」
つい独りごちる。すると手ぬぐいで汗をふく阿紫花が、
「芸で喜ばれんのとは一味違ぇでしょ」
と返した。阿紫花はスチールテーブルの上の置き時計を見やり、
「次の試合まで時間がありやす。今のうちにメンテしときやしょう」
と提案すると、パンタローネは、
「要らん。不調があれば自分で直せる」
と断った。パンタローネが否を唱えたとき、平素の阿紫花であれば、
「そうですかい?んじゃ頼んまさ」
と、あっさり引き下がるのだが、今宵の阿紫花は、
「二重チェックですよ。内臓いじられるんのは不快なのはわかりますが、ちぃとばかし我慢してくだせぇ」
と妙に食い下がる。つづけて、
「平馬と勝さんは今から仕合ですが、次当たるなァ、十中八九、二人のペアです。対策兼ねて点検してぇっつってんでさ」
パンタローネは、ふむ、と鼻を鳴らし首を傾げた。
「面白くない」
「観戦したかったんで」
「いいや」
パンタローネは一足飛びで阿紫花へ肉薄する。鼻先が触れ合うほどの近接。そして木製の人差し指で阿紫花の胸をとんと突いて、
「お前が昂りを隠しすました顔をしているのが、だ。問い返そう。お前は『面白くないのか?』」
切れ長の一重まなこが老人形を睨む。しかしすぐに歪に嗤って、
「面白くねぇ……わけねぇでしょ。人形で人形をぶっ倒すのがよ。しかも操るのはあんたで、次戦うのは勝さんだ。この上ない」
パンタローネは、
「それでいい」
と愉悦に浸る。
「血を沸かせ。肉躍らせよ。神を慰め悦ばせる武祭なのだろう。しからば檄されずとも覚えがある」
二人の出会いはサハラ砂漠の最終決戦だ。
「……かなわねぇな、旦那にゃあ」
くつくつと歪な笑い声がふたつ、テントに反響する。
墓地に到着したとき、阿紫花英良の墓石は、サーカスのテントのごとき天蓋で覆われ、台座にはさまざまな花や食べ物が置かれていた。勝が嬉しそうに、
「こんにちは、阿紫花さん。賑やかだねぇ」
持参した酒瓶の蓋を開ける。
今日は阿紫花英良の命日だ。線香立てに煙草が一本ささっており、パンタローネは、
「ピアノ弾きも来たのか」
と花束を添える。
阿紫花英良が没した当初、葬儀は執り行なったものの墓を立てる予定はなかった。というのも彼と親しくした関係者が満場一致で、
「阿紫花英良は湿った別れを、ひとところに囚われることを、好まない性分だ」
という見解に至ったからである。それに対して異を唱えたのは彼の弟、阿紫花平馬だ。
「兄貴は自分が死んだ後のことなんか気にしねぇよ。」
「あやつのことだ、地獄で閻魔相手に天下取り合戦しとるかもな」
「確かに」
「んじゃなおさら、トンズラこいてきた時の逃げ場所作っといてやるか」
シガーキスもどきで
阿紫さんの後頭部ガッて掴んで
阿紫さんの煙草の火を
舌先で消しちゃうパンさん