花束みたく抱き締めて。(仮)花束みたく抱き締めて(五歌)
「ただいま、歌姫」
「…………おかえり」
約束なんて一つもしていない。
そのくせ、何かある度に、さも当たり前のように私の元へとやって来て、花を抱くようにそっと私を腕に囲う男のことが、私は、昔から大嫌いだった。
「付き合ってもないのに会う度抱き締めてくる男、どう思う?」
「どうって……相手、外人ですか?」
「いや、日本人」
それも、由緒正しく続く古い家に生まれた、生粋の日本人である。まあ、見た目だけなら、異国の生まれと思わなくもないが。色彩も体格も、アジア系のそれとは大きく外れている。
それでも日本生まれの日本育ちなのだから、挨拶代わりにハグを交わす風習などない筈だ。名家の生まれなのだから尚更だろう。
行儀は悪くても品のいい男なので、その気になれば礼儀作法は完璧だ。気安い男なので親しい仲なら気兼ねなく触れてくるような無神経さはあるものの、異性相手に真正面から抱擁を強要するほど見境ないわけではなかった。
そう。知っている。嫌というくらいに。
期待はしたくないと思う反面、壊れ物のようにそっと抱かれる意味に気付かないほど初でもない。それ以上、触れてこない理由も。
全部解ってしまうから、どうしようもなく、腹立たしい。
知らないままでいられるほどに子供でもなくて、知らないふりを装い続けられるほど大人でもいられなくて、何ら関わりのない後輩相手に意味のない質問を投げてしまう。
居酒屋のカウンター席、隣でグラスを傾けていた硝子は怪訝な顔をしたものの、すぐに素知らぬ表情を繕ってこう言った。
「愚図ですね」
「……」
「抱き締めてくるだけなんでしょう? 思わせぶりなことしておいて、他には何のアクションも寄越さないなんて、臆病もいいところじゃないですか」
私だったらそんな男御免ですね、と硝子はきっぱり吐き捨てる。
あまりに潔い口振りに思わず私はそうねと苦笑しつつ、氷だけが溶け残るグラスをからから回しながら呟いた。
「そうね……そう、よね」
抱き締めるだけ。抱き締められるだけ。
いつだってされるがままで、それ以上、何も返せないでいる。私もあいつと同罪だ。前だろうが後ろだろうが、一つ踏み出すことで変わってしまうのが怖かった。
失いたくないのである。
今でさえ、何を手にしているわけでもないけれど。
それでもあいつは、私のところにただいまと言って帰ってくる。確かに戻ったのだと知らしめるように抱き締める。
温かい腕の中、ふわりと優しく抱かれて、甘い匂いに包まれる私は、柔い抱擁を突き放せない。
甘い拘束は、ほんの少しの身動ぎだけで、あっという間に解けて永久に離れてしまいそうだったから。
「…………いくじなし……」
「先輩?」
「ううん、何でもない」
いいから飲みましょ、なんて笑って空になったばかりの硝子のグラスにビールを注ぎ、追加を頼んで空瓶を店員に押し付けた。
「じゃ、行ってくる」
「……行ってらっしゃい」
挨拶は儀式(まじない)のようだと思う。
いってらっしゃい、と送り出すのはその後の「ただいま」を要求しているのも同然で。それはつまり、無事に帰って来て、という祈りに他ならない。
「…………あ」
足音が聞こえてふらりと飛び出した。
壊れかけの都市を背景に、どこかおぼつかない足取りでこちらに向かういくつもの影に瞠目する。
────いた。
白い髪。青い瞳。すらりと重さを感じない長身。
いや違う、あいつは死んだ。間違いなく。額の縫い目がその証拠だ。よたよたと頼りない足取りもぎこちない重心の動かし方も、決して、かつてと同一ではない。
そう、当初の計画通りなら、中身は乙骨くんである。まだ、元の体に戻っていないらしい。それとも、戻れないのか。細かい事情は聞かされていないのでわからない。しかし、不揃いながらこうして無事に戻って来たということは、千年続く最たる凶悪は絶たれたと見ていいだろう。
多くのものを、犠牲にして。
……再会の希みも、消え去ったのだとしても。
「みんな、無事───」
まろび出るように駆け出して、けれども二歩目が割れた舗装を踏みつける前に視界がいきなり暗く翳った。そして直後、柔らかく、しかしきつく、逞しい腕が体に巻き付く。
知ってる。
真綿で包むような抱擁。優しく、温かく、苦しさは一切ないのに振り解くには頑健すぎて。いつもする甘い菓子の香りが血腥い潮に取って代わっていた。それでも、首筋をくすぐる吐息の温さも、肌を掠める白い毛先の煩わしさも、何もかも同じ。
「ご」
「すっ、すみませんっ歌姫先生、なんか、体が勝手に」
「……」
思わず名前を呼び掛けて、続く聞きなれない口調の低い声に絶句した。
そうだ。
そうだった。もういないのだ。
たとえ生きているように、あの男の物だった体が佇んでいても。
まるで生きていた頃のように、私を、丁寧に抱き締めても。
ここに在るのは主人を失い壊れた器を、継いで接いだ、入れ物だけ。
「…………ッ」
「せ、先生……?」
戸惑う生徒をよそに、緩んだ拘束を自ら引き留めるよう、分厚い胸板に顔を埋めて背中に爪を立てる。
借り物の体はどこまで機能しているのだろうか。本来ならばこの世のどこにもいないこの体の持ち主にぶつけてやるべきだろう憤りを、苦渋の決断の上、使命を果たしたばかりの優秀な後進に向けるべきではないと解ってはいるが今は体が言うことを聞かない。眼球が焼け落ちそうだ。痛いくらいにきつく瞼を合わせても、熱に溶けた雫がぼろぼろと溢れて零れて、他人の胸元を濡らす。
────ねえ、五条。
私、あんなに大切にしてくれなくたって、よかったのよ。
触れずに最期まで後生大事に取っておいて、挙句こうして取り残されるくらいだったら、目の前で文句が言えるうちに滅茶苦茶にしてくれて構わなかった。壊れるくらいに抱き潰して欲しかった。
こんな日が来る前に、あんたに、そう、言えば良かった。
「…………ッ、………………」
「……せん、せい」
ぐずぐずと嗚咽を漏らしながら、縋る指先から力が抜けてゆく。
自力では膝が立たなくなり、遂にはその場に崩れ落ちて蹲った私を引き止める腕も既にない。
いない。
今度こそ、もう、どこにも。
行き場をなくしたいってらっしゃいは、きっとこの先、命尽きるまで私の中で呪いになる。馬鹿。やっぱり大嫌い。居なくなってしまってからでも、容易く私を振り回して掻き乱すのだから。
嫌いよ。
あんたのことなんか。
ずっと、ずっと。
「だいっきらい……」
───────ねえ、うそ、本当はね。
せめて、もう一度、逢えたなら。