無題 はっきり言葉に出来たわけではなかったけれど、遠巻きに、彼女を見詰める度にそっと溜息を零していた。
────ああ、いいなあ、羨ましいと。
もし、もう一度。
この世の地獄に舞い戻るのならば、来世では。
おっす俺、元「五条悟」。
折角みんなで仲良く楽しく永ぁい夏休みを満喫していた筈が、何の因果かあっという間に一人切り上げ、現世に再び爆誕することと相成った。
なお、現在五歳。来年には、ピッカピカの小学一年生だ。
その為、ついこの間幼稚園で年長組に放り込まれたばかりなのだが、早々にランドセルを買いに近所のショッピングモールに連れ出される破目になった。
「いやはやくね? いくらなんでもはやすぎじゃね? まだ、ようちえん、そつぎょうしてないのに」
「そうね。でも、早い家はもう用意してるみたいだから」
「え〜っけどさあ〜っっ」
人混みは、苦手だ。スペックはほぼ前世同等であるものの、体が幼くなってしまった所為で上手くコントロールが利かない。術式を抑える封印がないと、ちょっとしたことで暴発する。
しかも、眼を保護する為の眼鏡も、この間かち割った。
視え過ぎて気持ち悪いので出掛けるのにも相当ごねたのだが、代案として、目元を呪布でぐるぐるに巻いてキャップを目深に被せられ、無理矢理引っ張り出されてしまった。
曰く、「あんた、態と眼鏡壊したでしょ」とのことである。
実際その通りだったので、反論の余地もない。
しかし、かなり自然な流れで事故を装ったのだが何故バレてしまったのだろう。証拠は一切残さなかったのに。これが所謂、母親の勘というやつか。
────昔は、仕掛けた悪戯に一通り引っ掛かるくらい、鈍臭かったのに。
「……」
「何よ。まだ拗ねてんの?」
「…………べぇっつにぃ?」
「もう……しっかり拗ねてんじゃないの」
馬鹿ね、と苦笑混じりに零した台詞の声色は聴き慣れたものである一方、懐かしくもあり、それでいて穏やかな声音に違和感もある。
ただ、変わらず、昔も今も耳に心地よい。
「っ」
「どうせいつかは買いに来なきゃ駄目なんだから、今日、頑張って済ませましょ。今なら好きなの、選び放題よ?」
「……」
「ね?」
繋いだ手を柔らかく握り締める感覚に、上向いた先で、女が優しく微笑んでいる。
長い黒髪に、ハーフアップ。歳の頃は三十も半ばを過ぎ、年相応に小綺麗で、取り立てて目立つことのない容姿の筈が、目の下を切り裂く古傷が不必要に人目を引いている。
生まれる前から見慣れた顔だが、こうして時折、まるで知らない貌になる。そんな表情、過去に一度だって見せてもらったことがない。けれども、よく似た笑顔を、他の誰かへ振り撒いているところであれば幾度となく見かけてもいた。
遠巻きに眺めるしかなかったそれが、もっとずっと、溢れて落ちる程の情に満ちた笑みになって、他ならぬこの俺(ぼく)に向けられている。
何とも形容のし難い情動に、眼を細め、そして俯いた。
「…………うたひめ、おれのこと、こどもあつかいしすぎ……」
「こら! お母さん、って呼びなさい」
「いでッ」
むっとした顔できゅ、と軽く鼻先を抓まれて、大袈裟に声を上げると再び呆れ顔に戻った母、もとい歌姫が、「子供扱いも何も、立派なお子様でしょうが」と可笑しそうにぼやいて俺の頭を柔らかに撫でた。
歌姫は所謂、未婚の母というやつである。
新宿での決戦後、後始末にばたばたと追われる中でふと気付けば妊娠三ヶ月。その気になれば堕ろせただろうに、大して悩みもせずに「産むわよ」と不機嫌そうに明言していたらしいと聞いている。
にしても父親は誰なのか、という話だが、こちらについてはっきり語ることはせず、一方で周囲も何となく察してはいて、皆が皆暗黙の了解として口を噤んでいるようだった。
まあ、生まれて来た子供が、白髪青眼の相伝術式持ち、ではコトのお相手の正体など隠しようもなかっただろうが。
「────で、どれにする?」
「ん〜……」
そんなこと言われてもなあ、と呻きつつ呪布を少しだけ引っ張り下ろして、ずらりと列をなすランドセルを顰め面で眺めた。
今時のランドセル商戦は、子供の都合お構いなしで早期開催しすぎである。一年後、気分が変わっていたら一体どうしてくれるんだ。
真新しい革製品とまあまあなお値段の札を順番に眺めつつ、「昔」と違って目の痛くなるほどカラフルな見本と機能性に、時代の移り変わりに感嘆した。成程これが多様性ってか。刺繍の色から模様まで個別に選べるらしい。面倒くさ。
ああでも、そういえば、「五条悟」は高専に入るまでは外の学校に通うことはなかったから、ランドセルって初めてかも。ていうか、幼稚園も初めてだったし。
……そっか。
来年、小学校に通うんだ。俺。
けたけたと楽しげに同世代の子供の笑う声を、通りすがりに眺めることしかしていなかった。羨ましいな、と思う気持ちはずっとあって、だから高専に入ることに決めたのだけれど、まだ力の不十分な子供の頃は羨ましいと思うばかりで実際に外の世界へ関わりを持つことは出来なかった。
俺と「僕」、満ち足りて終えた人生だったものを、繰り返しの今(おれ)に何の意味があるかと思っていたが、なかなかどうして、世界はまだまだこんなにも真新しい。
「う……。オカーサン、これ、ためしてもいい?」
「何でよりによって、最初に一番高いの選ぶのよ……」
何となしに一番目を引いた黒のランドセルを指差すと、歌姫は眉を顰めて値札を睨みつつも棚から見本を取って背負わせてくれた。
うん。思った通り、いい感じ。
他にも気になるものをいくつか確認したが、結局最初のもの以上にしっくりくるものはなかった。
「やっぱこれがいい」
「あんたねえ……ちょっとは遠慮しなさいよ」
「だって、ウチのさいふじゃねーし。────ねえ〜、おじーちゃん?」
「……」
にっこり笑って振り返った先に、青い髪の補助監督に付き添われながら、つるりとした頭に長い髭の老人がゆっくりこちらに向かって歩いてくる。
楽巌寺嘉伸だ。
今は学長ではなく、高専全体の統括をしている。
流石に歳なので表に立つのは控えるかと思いきや、下が育っていないからと何かと矢面に立って動いているらしい。
元気なことだ。
老体で生き恥を晒したのだからと、要らぬ責任でも感じていそうである。別にいいのに。
まあ、お陰様でこの五年で呪術師界隈もかなり立ち直ったらしい。高専も、今では殆ど以前と同じように機能しているそうだ。
そして何を隠そう、この俺の、「おじいちゃん」なのである。
「……構わん。この程度、大した額でもない」
「そおそお。せっかくためこんでも、どうせあのよにカネはもってけないんだ、し────いッッ!!」
「馬鹿! なんてこと言うの!!」
脳天に拳骨を落としておいて、謝んなさい、とそのまま更に拳を旋毛に減り込ませてくる。飛んだ暴力母だ。今時流行らない昭和染みた振る舞いである。
周りが少々ざわついて、流石に人目を気にしたのか握り拳は解いたが、しかし反省が不十分なのを察して軽く頰を摘みながら「謝れ」と目で圧してくる。
渋々謝った。
「サーセン」
「あんたねえ!」
「いい、歌姫。子供のすることだ」
「ですが」
「いいさ。多少生意気な方が、今後、扱き甲斐がある」
「……」
じろり、と睨まれ思わず舌打ちしそうになる。が、これ以上は、まずい。格好だけでも体裁を保っておかないと、歌姫が手に負えない程喧しくなる。
向こうもそれを判っているから、お互い、彼女の前でだけは冷戦状態を維持するのが公言せずとも密約になっていた。裏での言葉の駆け引きもしない。丸くなったものじゃないか、と内心笑う一方、まあ五歳の子供相手に大人げない真似もしないかと肩を竦めてもいた。
それにしても、この爺さんが歌姫が未婚で出産すると知り、自ら後見を名乗り出たと聞いた時には驚いた。歌姫はあくまで上司と部下の関係だった筈だが、流石は歌姫、老獪な堅物にまで随分可愛がられていたようである。時折うちに来てはぽいと小遣いをくれたり、年末には決まってお年玉をくれたり、かと思えば呪力を扱う修練にいきなり連れて行かれたりもする。緊急連絡先の一つはこの爺ィだ。どうやら本気で面倒を見る気でいるらしい。
昔は心底どうでも良かったのだが、今は、少し煩わしい。
いつか「五条悟」に向けられていた敵意こそ形を潜めたものの、俺を見る目はあの頃とさほど変わりなく、それでいて時折悔恨が滲む。扱い辛い。それに、歌姫が日頃から頼りにしているのがよくわかるので、普通に悔しい。俺だってもうちょいデカくなれば母親の一人や二人簡単に養えるし。そもそも「僕」であればこんな苦労など決してさせやしなかったのに。
何なら今だって、とは思うのだが、呪術師とはいえど普通の母親でしかない歌姫は、自分よりも余程呪術に長けた我が子を戦場に出す気が一切ない。子供は子供らしく呑気に遊べ、危ないことはするな、の方針である。
それはそれで楽しいが、自由を制限されるのはつまらない。何しろ体は五歳児でも、中身は享年に加算で三十過ぎのナイスガイである。子供向けの理論展開は少々退屈だった。
「まったく……あんたって子は……」
歌姫はあの手この手でせめて三番目くらいに高い品に選択肢を変えさせようとしたが、俺が頑として譲らず、その間に爺さんが手続きを済ませてしまった為ぶつくさ文句を溢していた。
隣では、補助監督になった三輪霞が苦笑いで宥めている。
「まあまあ、先生。がくちょ──総監も、いいって言ってるんですから」
それにまだお子さん小さいですし、ね、と不器用に言葉をかける姿に、歌姫もやや落ち着きを取り戻していた。
「それはそうだけど……。この子、普通の子よりませてんのよ。今からこれじゃ先が思いやられるわ」
あいつみたいになったらどうすんのよ、と酷い渋面で爪を噛む。
────ああ、本当に、酷い面だ。
「僕」が見慣れた、懐かしい貌。
「…………」
「? 何よ、どうかした?」
まさか今更別のがいいとか言い出さないでしょうね、と怪訝な顔から一転急に般若になって見せるので、「ちげーし」と舌を出してそっぽを向いたその後でそっと息を零した。
父親について、聞いてみたことはある。
「ねー、オレのパパ、どんなひと?」
「……この世で一番ムカつく男よ」
割とマジで本当に嫌い、と吐き捨てる。
現在進行形なのが可笑しくて、昔と変わらない物言いが楽しくて、つい声を立ててしまいそうになるのを堪えながらも悪戯心が湧くのまでは抑えきれず無邪気な子供のふりでこう言った。
「へえ。きらいなのに、ケッコンしたの?」
「……結婚、してないわ」
「え? じゃあなんでオレ、うまれてんの?」
「それは……。結婚、する、前に……あんたが産まれたから、よ」
嘘は言ってないが目が泳いでいた。
面白すぎる。
なので、結婚もしてないのに嫌いな男を父親にしたのかと更に追及すれば、「仕方ないじゃない、その場の雰囲気に流されたのよ!」と至極仕様もない理由を逆ギレしながら叫ばれた。
「一生のお願い、なんて、土壇場であいつが言うからッ……、じゃなくて。その、だから……………………ま、まあ、こいつの子供なら出来ても構わないかなって、そのくらいは許せる程度の、情は、あったのよ……」
「つまり、ほんとはすきだったってこと?」
「違っ────や、違わな……うゔ、まあ、そんなところ、ね……」
自分で思ってたよりも嫌いじゃなかったのかもね、と腹立たしそうに締めくくった、不愉快そうに眉根を寄せて口を尖らせた歌姫の顔は今もしっかり覚えている。
よく知っている顔だった。
「僕」の知っている歌姫。
俺しか知らない歌姫。
どちらも同じで、地続きの彼女なのに、時折別人のように思えて────どちらも変わりなく、愛おしい。
「……それ、女として見てる、ってこと?」
「ちげーし」
ママはママだよ、と怪訝、にしてはやや冷たい視線を浴びせかけられて振り返り答える。
硝子だ。
人前では他人行儀にしているが、健診の担当が硝子の為、普段の言動から早々に前世の記憶があることについてバレた。隠すのも面倒だし、諸々手助けが欲しい時に便利なのもあり、硝子相手には正直に全て話している。
「いまは、ははおやとしてしかみてない。てかみれない」
「へえ。昔は違ったのに?」
「まあね。そこらへんのくべつはついてるから」
五条悟の記憶は、どこか虚構じみていて、異物感のあるものだった。今の、俺自身、とはまた少し違う。別人の思い出がつぎはぎに足されたような感覚が近い。
生まれ変わったのだ。
五条悟であった、という認識は持っているが、きっと俺は「僕」そのものではない。
「まあでも、いまもむかしもとくべつなおんなだよ、うたひめは。だから、こんせではしあわせにしてやりたいかな。ぼくにはできなかったことだし。さいご、しにみずまでとりたいよね」
「……相変わらず、五歳児の発言とは思えないね」
先輩が聞いたら泣いて喜ぶか腹立てるかどっちだろうね、と呆れたように硝子が言う。
俺は笑った。
「そりゃ、よろこぶでしょ」
「まさか。顰め面で文句言うと思うけど? ──はい、終わり」
今回も五体満足健康だね、と皮肉げに笑う。
ぷく、ぷく、と電極が胸や手足から外された後でTシャツを下に戻して起き上がる。
道具を片付けながら硝子がこう尋ねた。
「反転術式は、もう使えるんだっけ?」
「まあね。ないしょだぞ」
「わかってるよ。面倒事は御免だ」
それでなくとも相伝術式持ちというだけで厄介なのに、そう言って髪を掻き上げる。
「知ってる? あんたのこと知った五条家の人間が、子供を寄越せって、先輩のこと脅してるよ。お家復興の旗頭にしたいらしい」
「しってる。こないだおいかえした」
五条の家なんて、もう興味はない。
けれども今世でたった一人の家族を害するとなれば、やや話が変わってくる。露払いは容易くても、数が多いと面倒だし、何より手が回らなくなる。
そろそろ憂太を巻き込むかな、と考えた。あの家は、憂太にやった。ならば憂太がどうにかすべきだ。幼気な俺をこれ以上困らせてくれるようならば、それなりの対処をしなくてはならなくなるし。話し合いで済むならそれに越したことはない。
「しょうこ、ゆうたにわたりつけられる?」
「そのくらいならいいけど。あんたのそれ、どうやって説明する気?」
「いっかいやればわかるでしょ。……さすがにこのからだじゃ、いまのゆうたにはかてないかもだけど」
憂太には、時間の許す限り僕の会得した全てを与えた。あれから五年、更に腕を上げたことだろう。対して俺は弱体化、術式にしても六眼にしても、最盛期には遠く及ばない。
それでも、勝つ気で挑む。
────ああ、それはなんて、胸踊る愉悦だろうか。
「まあ、ハンデにはちょうどいいっしょ」
「言うじゃん。幼児が」
「オレ、さいきょうだったからねえ。カンタンにはまけないよ」
じゃあな、とベッドを飛び降りて手を振る。
硝子は可笑しそうに口元を歪め、手を振り返しながら「体が出来上がるまでは、無理な鍛錬厳禁だから」と釘を刺すのを忘れなかった。
ところで歌姫だが、昔から、アレでなかなか、そこそこにモテる。
それは大抵の場合、少し大人しめの、それこそ「僕」への当て付けのように語られる理想的な「誠実で家庭的な男」で、したがって告白まで至ることはほぼなく無口に思いを寄せられているのが大半だった。当人に隠れてこそこそ熱のこもった視線を向けているのが何となく面白くなくて、前世ではよく、歌姫に気付かれないようそれとなく潰して回ったものである。
そして今世、卑怯と知りつつ堂々と、「あたらしいパパはいらない」と胸を張って宣言している為に、歌姫は今のところ見合いだの求婚だのを軒並み一刀両断しているのだった。
「……おい、坊主」
「なに〜?」
「貴様、また歌姫の見合い話を潰しただろう」
「……えー? なんのことぉ?」
いい加減にしろ、とでも言いたげな楽巌寺の爺さんの台詞に俺はにこぉと振り返ってすっとぼけた。
「てか、みあい、ってなに? うまいのそれ」
「呪力が乱れたぞ。暴発させる気か、馬鹿者」
「…………ちッ」
右手の指の上に渦を巻かせていた蒼い呪力の塊が、完璧な球体から僅かに揺らぐのを見てぱっと握り込む。
そうやって、潰すように消し去った順転の術式を見守った後で、いつぞやに比べればまるで枯れ木のように老いを重ねた石頭を睨んだ。
爺さんは顔色一つ変えなかった。
軽く眉を持ち上げ、流石だな、と忌々しそうに小さく零す。
「制御の精密さは父親譲りか、それ以上か。まったく、その歳でそれ程の技とは、可愛げのない」
「うっせえよ。てかなに? もんくあんならはっきりいってくんない?」
むっとすると感情が抑えられないのは、恐らく子供特有の情動だ。いくら前世の記憶があり、思考が大人並みでも、この体はやはり子供なのだとこういう時には思い知らされる。
前も今も大人すらたじろぐ睥睨を、古木のような呪術師は変わらず真っ向から受け止めている。
そして、こう言うのだ。
「貴様、母の幸せを望んではおらんのか」
「……は?」
「歌姫が頑なに独り身を通すのは、貴様がそのように望んだからだろう。違うか」
「……」
「幼いふりをして、己の母を不幸にする気か」
違わない。
だがしかし、この爺さんは一つ勘違いをしている。俺は何も母親を独占したいが為に縁談を悉く潰しているわけではない。
というのか。
「けっこんがオンナのしあわせ、ってー? ははっ、じいちゃんちょーふるくなぁーい? もはやカセキなんだけど」
「……」
「おれ、べつに、うたひめがほんきでいっしょになりたいヤツがいるなら、とめないよ。……けどうたひめ、いっつも、『おとうさんほしい?』っておれにきくんだもん」
だからいらないってこたえてんの、とせせら笑う。必要ない。父親なんて。家族は歌姫一人でいい。
もしも彼女が本当に、僕の知らない馬の骨に恋をして、愛して、添い遂げたいと願ったのなら悔しいけれど止める術はないだろう。
けれども何かしらの縁に、歌姫は俺に父親が欲しいかと尋ねて、好きな男が出来たのかと問い返す俺に向かって困ったように笑うのだ。
そうでもないのよね、と。
──すごく良い人なんだけど、あんたの父親、それなりに好い男だったから、と。
「……」
「オレのとーさんよりつよくてカッコいいオトコなら、いいよ。けっこん。けど、そうじゃないなら、ダメ」
最強の男ですら幸せにしてやれなかった女なのだ。
ただ縁があったからと、たったそれだけの雑な理由でそれ以下の男をあてがって、今度こそ不幸になったらどうしてくれる。
もしも歌姫をくれてやるとしたらそれは、「僕」を超える誰かでなくては絶対に駄目だ。
それこそ最低限、今の俺くらいには出来る奴じゃないと。
「すくなくとも、オレにまけてるようじゃ、ぜったいダメだね」
「……ふん。成程な」
しかしそれではかなり相手が絞られるなと思案するように髭を撫でるので、つい「いやわざわざさがさなくてもいいし」と唸ってしまった。
爺さんの鍛錬──と言っても単に監視と付き添いだけだが──を終え、教務棟へ向かう。
途中、任務の報告終わりと思われる悠仁に会った。
「お! 久しぶり、先生──じゃなかった、庵。お母さんに用?」
「うんまあ。しゅぎょう、おわったから」
歌姫を見かけたかと聞くと、職員室で事務作業をしていたと教えられた。
眉間の皺が凄かった、と真面目な顔で告げられて、昔と変わらない姿と幾分落ち着いた口調とが面映く、目を細めて古傷だらけになったかつての教え子を見上げる。
いい機会だ、周りに他の人間もいないし、気になっていたことを聞いておこう。
「てかゆーじ、いっつもおれのこと、せんせ、っていうよね」
「えっ」
「なんで?」
「……そ、それは…………」
だって、と小さくこぼした後、目を泳がせた悠仁は俺に向き直りはっきりと言った。
「先生、でしょ。五条先生」
「……」
「そういうの、わかる。視えるようになったから」
きっぱりと、静かに告げる姿に、思案する。
悠仁は宿儺と身体を共有した影響から、魂の形を捉えられるようになった。つまり、この五歳児の中身も視えている。
バレてしまっているのなら、隠すこともないかな、とちらと思った。ちょうど、硝子が憂太に連絡を取ってくれた。悠仁がいれば、俺が嘘を言ってない証左になる。
俺は、に、と笑った。
そして、頭の後ろで腕を組む。
「────へえ〜っ。オレ、そーんなに、とうさんににてんだ?」
「!」
「ゆーじ、たましいのかたち、みえるんだよな。そんなにそっくりなら、オレ、そのうちサイキョウになるんじゃね?」
そしたら手合わせしような、と言って手を振り、職員室の方角へ走り去る。
戸惑ったような沈黙の後、廊下走ったら駄目だぞ、と懐かしいものよりも幾分大人びた声が追いかけてきて、俺はそれに振り返って舌を出した。
「先生、五条家、継ぎませんか。僕、ちゃんと遺言状書くんで」
「まだわかいのにえんぎでもないこというなよ、ゆーた」
正座に真顔で迫る憂太に僕は足をばたばたさせながら欠伸をした。
子守、という体の密会である。高専にある客間の一室。ちょっとした会議などでも使われる和室で、俺はごろごろじたばた寝そべりながらかつての教え子の泣き口上を聞き流していた。
「つがねーし、つげねーから。オレ、いおりだもん」
「先生を見れば、文句を言う人なんて誰もいませんよ。もし居たとしても僕が捻り潰しますから」
「やだよ。あんなめんどうなモン、にどといらねー」
「僕だって、やりたくて管理してるんじゃありませんよ……!」
遠縁だからって先生が押し付けていったようなものじゃありませんか、と押し殺した声で憂太が叫ぶ。
この通り、結論を述べれば憂太は俺が「五条悟」(ぼく)であることをあっさり信じた。試合うまでもなかった。まったく残念な話である。
聞けば、前々から違和感は持っていたらしい。硝子を仲介にネタバラシをしたところ、「先生ならあり得る」と前のめりに受け入れる様子に将来詐欺師に騙されやしないかと若干不安に思ったものの、どうやらそちら方面の僕のやり方もすっかり身につけたようで、元実家も上手いこと操縦しているらしいし、まあ、おそらく大丈夫なのだろう。過度に先回りしてやることもないかと、五条の家に関しては無関係を決め込むことにした。
俺は胡座をかいて、むう、と可愛らしく膨れて見せた。
「おれがしんだあと、からだかしてやったろー? いっかいつかったからには、さいごまでせきにんとれよぉ」
「いくらなんでも、対価が大き過ぎませんか……? というか、先生が戻ってきたなら、僕が監督する必要ないじゃないですか。返しますよ」
「だからいらねって」
「そう言わずに。先生が成人するまでは、僕が対応しますから」
この通りです、と土下座を辞さない憂太を見下ろし、俺はちょっと冷めた目になった。
はあ、と溜息を零し、吐き捨てるように言う。
「てかさあ、そんなにイヤなら、だれかにやっちまえばいいじゃん。あんないえ。ほしがるものずきのひとりやふたり、いるだろ」
「そういうわけにはいかないんですよ。あの一件以降、禅院は壊滅、加茂家も羂索の所為で混乱が続いていて、御三家でまともに機能しているのは五条家だけなんです。ここで野放しにしたら、ようやく落ち着いてきたのにまた大騒ぎになります」
「べつにいいじゃん。さわがせときゃ」
「駄目ですよっ」
「じゃあ、ごじょうのいえもつぶせば?」
「出来ませんよ、それこそ大騒ぎじゃないですか!」
「なら、ゆーたがやるしかないよなあ」
「………………」
先生、と恨めしげに睨む数倍は歳上になった青年を、俺はむっとしながら睨み返し、いーっと歯を剥いた後でこう返した。
「てかいいかげん、せんせい、ってのやめろよな。もうおれ、ごじょうさとるじゃないんだから」
「それでも、僕にとっては、先生は、先生ですよ……小さくなっただけで、あの頃のまま、何も変わってません」
俯いて、膝の上で拳を握り、ぼそりと零す。
切なそうな声色に、以前より一回り大きく逞しくなった佇まいに、しかし感傷を覚えるほどに俺にも僕にも人間味はない。同情はしない。懐かしさは、ある。故に、感慨めいた感情が全くない、とまでは言わないけれど。
それでもきっぱりと突き放す。
「あのなあゆーた。おれ、ぜんぜん、あのころのままじゃないよ。うまれもそだちもちがうし、からだだって、のうりょくだってちがう。むかしのきおくだって、かんぺきにのこってるわけじゃない。なんならちょっとわすれてきてるし」
「でも」
「ごじょうさとるはしんだ。とらわれすぎんなよ」
「……」
「それにさ」
僕は最後に派手に闘れて、愉しかったし。
ただ、それだけだ。
何年も悼まれ偲ばれるような不遇ではなかった。充分に身勝手を生きた。だからこそ、諸々の面倒も置いていったのだし。背負った業の全てを晴らしたわけでもなかった。それは単純に僕の責任で、結果的に誰かに押しつけるよりどうしようもなくなったのであって、僕のものであった何かしらを抱える日々に罪悪感を抱く必要などはない。
晴々と死んだからこその、今の俺、なのだとも思うし。
まあだからこそ、その代わり、というのもなんだが今更返すと言われても返品不可というわけである。
そもそも、「俺」にはもう関わりのない柵だ。
「だいたいゆーた、うたひめのキョカとったのかよ。おれ、まだ五さいだぞ。そういうのって、さきにおやにはなさなきゃだろー?」
「……歌姫先生には、もう、断られました……」
「だろーな」
じゃあやっぱだめ、と言うと憂太はがっくり項垂れて、わかりました、と無念そうに呻いた。
憂太には、今後一切相続の話を持ち出すな、と約束させた。
「うたひめにもだぞ。ほかのれんちゅうにも、よけーなことふきこませんなよ」
「……勿論です」
きちんと釘を刺しておきます、と坐った目をしていたので、俺の意図は伝わったようだ。
今の憂太ならば、上手く対処する。後の心配は要らないだろう。
「そう言えば、虎杖君には本当のこと、言わないんですか?」
ふと思い出したように憂太が言った。
「大分怪しんでましたよ。視えてるんじゃないですか?」
「あー……いーの、ゆーじには。いわなくて」
憂太には五条悟の一部を継いだ。
悠仁には、そんなものは必要ない。
これまでも、これからも、それでいい。そうと決めたのだ。
だからいいのだと告げると、憂太もそれ以上は何も言わず、そうですか、と笑った。
話も終わったところで丁度いい時間になった。憂太と手を繋いで縁側を歩き、職員室の方へ向かっていると、向かいから歌姫がやってきた。
「あ! うたひめ!」
「こらっ。おかあさん、でしょ」
「かーさん」
憂太の前なので言い直す。
ぱ、と手を離して駆け寄り抱き付くと、歌姫はわしゃわしゃと俺の髪を撫でて「いい子にしてたんでしょうね?」と疑わしげに眉を顰める。
心外だ。
「きまってんだろ。なあ、ゆーた」
「ゆーた、じゃないでしょ。憂太さんって呼びなさい」
「……憂太でいいですよ、歌姫先生」
まだ子供ですし、と憂太はぎこちなく付け加えた後、「ちゃんといい子にしてましたよ」とこれまた辿々しく言い添えた。
当然だが、歌姫の疑いは晴れない。
しかし証拠も証言もない為、この場は見過ごすことに決めたらしい。にこにこ上機嫌に笑ってしがみつく俺を抱き上げると、コツン、と額をあてて苦笑する。
「あんた、あんまり他所様を困らせるんじゃないわよ」
「うぇーい」
「もうっ。おバカ、たまには真面目に返事しなさい」
「いてっ」
きゅ、と軽く鼻先を抓み、憂太を振り返った歌姫は「子守任せてごめんね」と愛想を振り撒いた。
「急に総監に呼ばれちゃって。この子、目を離すと何するかわかんないから」
「いいえ、僕も手が空いてましたし、楽しかったので」
「そう? ならいいんだけど……よかったら、また相手してやってくれる? 術式の扱いになってくると、私じゃもう教えられないことも多いから」
「はい。是非」
またね、と手を振る憂太がはにかむのを見て、俺も子供らしく腕を大きく振って、またな、と返した。
「ゆーた、こんどはてあわせしような。てかげんなしでいいよ」
「馬鹿。次期総監相手に生意気言ってんじゃないっ」
「いってぇ! ぼうりょくすんなようたひめ!」
「これは暴力じゃなくて教育的指導よ。……じゃあね、乙骨くん。また」
「はい」
苦笑に混じる懐古の気配に、俺は内心やれやれと肩を竦める。まだ五年、か。そう簡単に切り替えは利かないのかもしれない。勝つために手段を選ばないことを決めた憂太だったけれど、あくまでも最善を検討した結果で非情になったわけではない。
だが、かつて無力感に蹲るしかなかった少年はいなくなった。
成果は上々、やはり、「僕」が出る幕などない。
精々見上げて見物させてもらおう。振り返って高みから見下ろすばかりだった頃を思えば、目の前の道筋にごろごろと強者が転がっている今もまた、毎日が最高に楽しい。
修行は順調、憂太に強請って五条家の蔵にもこっそり出入りできるようになったので懐かしの秘伝も習得し放題、日々充実している。
「……修行、楽しい?」
「うん。たのしい」
「…………呪術師に、なりたい?」
「なりたい。てか、なるよ」
「そう」
まあ仕方ないのか、と朝食のお供に林檎ジュースを啜る俺を見て歌姫は悩ましげに溜息を吐いた。
「あんた、呪術、大好きだもんね……」
そんなところまで似なくてもよかったのに、と恨めしそうに零す。
「なりたいって言うなら止めないけど、呪術師、あんたが思ってるよりも大変だし、面倒臭いわよ」
「んー、まあ、わかった。いいよ、それでも」
「……」
釈迦に説法である。
胡乱な顔で睨む気持ちもわからないでもないのだが、視える側に生まれつき、相伝の術式まで継いだ以上道など限られている。
歌姫だってそのくらいは判っているだろうに、本人が望んで地獄(そちら)を進むと言うのだからそう物申したそうにしなくてもいいものを。これが複雑な親心というやつか、この女のことだから、俺が普通に生きたいと言ったら可能な限り手を尽くす気でいたのだろうなと胸の内で「僕」が呆れる。
馬鹿だな。
もっと、自分の為に生きればいいのに。
死んで数年、なおも振り回している自覚がある。幸せにしてやりたいと思うのも本当だが、子供の身では限りがある。この手で成そうとするには、まだまだ時間がかかるのだ。それまでの時間、彼女は俺の為に生きるのかと、そう思うと少しばかり面白くない。
今の「俺」の手は、あまりに、小さい。
前世ですら、全てを守るには身一つでは足らなかった。女一人の幸せは当然のように取り零して、見過ごした。二度目は繰り返したくないのに。
手の届く範囲の幸福を守ろうと誓ったのだ。
ついでに言うと、歌姫(はは)との二人暮らしに邪魔が入るのも気に入らなくて、だからずっと、拒んできたのだけれど。
「……うたひめ、さ」
「何よ」
「もしかして、ケッコンとか、したい?」
「…………。はあ?」
我ながら唐突な質問に、歌姫は意味がわからないとばかりにあからさまに顔を顰めた。
「別に、相手なんかいないけど。……何よ、もしかして、やっぱりお父さん欲しくなった?」
「いやいらねえ」
「即答かよ。……じゃあ、なんで急にそんなこというのよ」
「だって……オトナは、よくいうだろ。ケッコンがしあわせ、とかなんとか」
歌姫は幸せになりたくないの、と問う。
すると彼女は、今度は不愉快そうに眉を顰め、こう言った。
「何を言うかと思えば、ばっかなこと言うのね、あんたは。私、今だって充分幸せよ」
可愛くて生意気な坊やと毎日一緒だし、と俺の頬をむにゅりと挟んで軽く潰す。
「だから別に、結婚したい、とは思わないわ」
「んむ……そう? ほんとに?」
「そうよ。ほんとに。……それに、」
と、俺の口元についていたらしいパン屑を摘み取り、歌姫は無念そうにこう言った。
「あんたの父さん、それなりに、好い男だったから。……生憎といないのよね。あいつよりも、良い男」
「……」
「だから、これからも、母さんとあんたとで、二人で家族よ。駄目かしら?」
「……ううん。二人がいい」
優しく笑いかける姿に、不覚にも、安心してしまった。
母子二人。ただし息子は、出生からして問題児。純粋に歌姫の為だけを想うのなら、本当は普通の家族を装って少し手狭なマンションで暮らすよりもさっさと五条家の庇護に入ってしまったほうがいいのかもしれない。そう思わないでもなかったが、ありきたりな二人家族の毎日が楽しくて、余りあるほど退屈で幸福で、もう少し、こんな日々が続いていて欲しかった。
それが、この女の幸せとは限らなくとも。
しゅんとしながらも頷いて、歌姫もほっとしたように頷いて。
それが、よかった。とても。
せめてこのままの幸せを守る為に何かしたいと、そう、願った。
歌姫は、時候のイベントごとがあまり好きじゃない。
理由は明快、何かと嫌な思い出が付随するからだが、世間が楽しく盛り上がる中で直接は無関係の子供がはしゃぐ様に水を差すのも気が引けるらしく、ほどほどに付き合ってくれる。
ただ、十二月二十四日は────特別、だ。
「今年のクリスマス、サンタさんに何お願いする?」
「んー、サンタじゃなくてゆーたに、じゅぐちょうだい、っておねがいする」
子供らしくきゅるんと無邪気に、それでいて至極現実的な提案をしたのだが、手を繋いで歩く母親からの視線は脇をすり抜けていく北風よりも極寒だった。
歌姫は唸る。
「あんたね……駄目よ、そんなもの。まだ扱いも分かってないのに。ていうか乙骨くん困らせるんじゃないわよ」
「え〜いーじゃんそのくらい〜。おれ、もうじゅれいたおせるし。それに、じゅぐのあつかいだってちょっとならったし。じぶんのがほしい」
「駄ぁ目。どうしても欲しかったら、おじいちゃんがいいって言ってからよ」
「ちぇ……」
小振りの刀程度なら、そろそろ持たせてもらえるかと思ったのだが。
楽巌寺の爺さんも歌姫も、小学生になるまでは現場に出さない方針である。捕まえてきた小物の呪霊を祓ったりは修練の内で間々あるが、受けた依頼をそのまま引き受けたことはない。下手な呪術師より俺の方が余程上手くやる自信はあるものを、まだ小さいから、となかなかお許しが出ないのだった。
まあ仕方ないか、とは思いつつ拗ねてむくれる。甘く見られているわけじゃない、単に大事にされているだけだとも判っているからこそ、余計に納得がいかない。
膨らんだ頬を見て厳しい顔を保てなかったらしい歌姫は、ぷ、と小さく噴き出した後に頰を突き、「そんな顔しても駄目よ」と笑った。
「そういうものは、もう少し大きくなってからね。……で、他に欲しいもの、ないの?」
「んー、じゃあ、まあ、ゲーム。あたらしくでたやつ」
「そう。食べたいものはある?」
「ケーキ。イチゴのがいい」
「わかった。いつもと一緒ね」
帰り道、そのまま二人でケーキ屋に寄ってクリスマスケーキの予約をした。約束通り、苺の乗った、小さなホールケーキ。
を、二つ。
一つは仏壇に、一つは二人で一緒に食べる。
甘い物は苦手なくせに、この日だけは絶対に、無理をしてでも外さない。
去年、尋ねた記憶がある。
「なあ、なんで、ケーキ二つ? おおくない?」
「……甘いの、好きだったのよ。あいつ」
「ふうん……」
この場合の「あいつ」は勿論「僕」のこと。
あいつなら一人でも食べ切るでしょ、と忌々しそうに呟く姿は到底故人を悼むものとは思えなかったが、それでも、それが歌姫なりの追悼なのだとは理解した。
だから、何も言わない。
けれど。
「え〜。さけかうのぉ? それ、くさいからやだぁ」
「う……。いいじゃない、一年に一回なんだから……ほら、その代わり、今日はお菓子買ってあげるから。ね?」
「もお……しかたないなあ……」
数日後に控えた聖夜、歌姫は、仏壇前の写真相手にワンホールケーキを供えて呑んだくれる。もう知っているから、全然、面白くない。お菓子くらいじゃ割に合わない。
笑って祝うような日ではないのは、まあ、わかるけれど。
それでも自分の死んだ後なんてどうなろうが何も関係ないと思っていたから、まさかこうして、嘆き悼む姿をまざまざ見せつけられるとは思ってもみなくて。どうせならもう少し綺麗に死んでおくべきだったかと、文字通りに後悔した。
だって、まさか、泣くとは。
情に厚いがアレで面の皮は鋼鉄製だった。教え子の裏切りを自ら探り当て、その後だって実に冷静に対処していた。仲間が山程死んだ後でも淡々と己の仕事を果たしていた。
呪術師なのだから、腹の探り合いも身内の死も日常の範囲内だ。さして珍しいことでもない。強かろうが弱かろうが、目の前の敵に負ければ死ぬ。
なのに。
僕一人、の為だけではないのかもしれないけれど。それでも、一年に一度、この日だけと決めて。すっかり飲まなくなった酒に溺れて。赤ら顔を怒らせながら、いつ撮ったのかも覚えていないようなツーショット写真に映る僕の姿を睨んで、ぼろぼろ静かに泣くのだ。
そんなことって。
「…………」
「……どうしたの? 何でそんな機嫌悪いのよ」
「……べぇっつにぃー?」
クリスマスなんて、嫌いだ。
命日が云々なんて格好つけるんじゃなかった。せめて別の日に死んでおくべきだったと、あまりに直情的で考えの足りなかった前世の己を恨む。
いいなあ、と思っていたのだ。
遠巻きに眺める彼女はいつも誰かに囲まれていて、怒ったり笑ったりと忙しなかった。顔に傷が出来る前も、出来た後も、それは何ら変わりなく。皆が皆、惹き寄せられるように彼女を取り囲んで笑っていた。
人柄のせいだろう。
見れば、解る。皆が彼女を慕っていた。実力こそ準二級と中途半端だが、術式がそうであるように、彼女の存在は周りに馴染んで盛り立てる。基本金絡みでなければ動かない冥さんですら、たまに絆されることがあったほどだ。誰からも、親しみやすく、愛されていた。
ありふれた女だと思う。
今も、昔も。単純なことで怒っては泣き、笑い、姦しい。礼儀に煩く、情に流されやすく、それでいて仕事には冷徹でもあった。
────きっと、愛していたのだろう。
目の眩むような想いで見つめていた。憧憬に近しくも、何処か、物欲しくて。その正体も解らないで結局我慢が利かずに最後の最後に手を出してしまったわけだけれど、今思えば結果オーライだったのかもしれない。縁を遺すことが出来た。うっかり別の男の種から生まれ直す、なんて地獄も味合わずにすんだことだし。
何より、あの時羨んでいたものを、今は一身に受けている。
無償に注がれる物だからこそ、今世では、人に尽くすのではなく彼女に報いたい。力ある者の義務など知ったことか。そういう大義名分は前世で散々果たしたのだから、今度はもう少し、自由に生きたっていいだろう。
誰かが一人にならない為にではなくて、女一人、幸せにする為に生きたって。
「じゃ、撮るわよ〜」
「はーい」
桜の散る晴天の下、スマホ相手に、ぶい、と右手を突き出した。
ぱしゃりと小さく響く電子音の後、レンズが下ろされ「いいわよ」と白く細い指が手招きをする。
呼び寄せる仕草に駆け出した。
手元のスマホをぐいっと覗き込むと、今さっき撮影したばかりの決めポーズの自分が映り込んでいる。
「へえ。きれーにとれてんじゃん」
「そうね。格好いいんじゃない? 新一年生」
「いぇーい」
どこぞのジジイからぼったくった、高級な黒いランドセルを背負い直してから改めてVサインを作る。
今日は珍しく淡いグレーのスーツで揃えた歌姫は、満面の笑みでドヤる俺を見下ろして「あんま調子乗んなよ」と一瞬だけ顔を顰め、そしてすぐに笑った。
「まあ、でも、今日は特別ね。よく似合ってるもの」
「そう? せかいイチ? さいきょう?」
「……そうね。世界で一番、最強ね」
笑う俺を見下ろして、目を細め、目尻を拭う。
潤んだ瞳を誤魔化すように優しく笑うのがこそばゆくてもどかしい。ただ笑って欲しいだけなのに、今は「俺」の中に「僕」を見ているのが解るから。それが、嬉しいような、切ないような、何とも言えない気持ちにさせられる。
──出来れば、そのまま、忘れないでいて欲しい。
まあ、こんなにも瓜二つの息子が居たら普通に難しいだろうが、単なる綺麗な思い出としてではなく、顰め面で思い出したり、ぼろぼろ泣いたり、呆れた顔をしたり、時たま笑ったりして欲しい。
たとえ「俺」が「僕」を忘れてしまったとしても。
君の中では、いつまでも、最期の瞬間まで息づいていたい。
「…………よし。じゃ、行きましょうか」
「うん」
差し出された手を、迷わず握る。
軽く揺らして引かれる手の先を見上げると、視線に気づいた歌姫が軽く笑って、こう言った。
「今日は高専のみんなでお寿司よ。お祝いしてくれるって」
「いえーい。まわらないやつ?」
「持ち帰りだから回らないわよ……普通のお店じゃ、全員入れないでしょ? 高専で集まって食べるの」
お肉もデザートもあるけど、野菜も食べなさいよ、と釘を刺す。
それを、生返事ではあいと聞き流す。
「で、甘いの、ケーキ? わがし?」
「さあ。その辺は女子に任せたから……どうかしらね?」
「おれいまわがしのきぶーんっ」
「…………仕方ないわね、買ってきましょうか」
いつものお店でいいわよね、と言われてうんと頷く。
手を、握り合って歩く。
いつまでもこうしてはいられないけれど、今は。
いつか、この手を離して、背中を見せられる程度に大きくなって、期間限定でも何でもなく「最強」を名乗れるようになる、それまでは。
どこにでもいる、呪術師の親子、二人でいる。