五歌短編 二人、縋るように、愛し合っていた。
もしもどちらかが手を離してしまったのならその瞬間、あっという間に吹き飛んでしまう、そんな縁でしかないとお互いに解っていたから。
かつ、かつ、とヒールが床を叩く音が、ゆっくりと響く。
鼓膜の揺れに顔を上げると、奇妙に顔を歪めた硝子が白衣のポケットに両手を突っ込み、下手糞に笑っていた。
「……酷い顔ですよ、センパイ」
「意地悪言わないでよ…………それに、あんたには、言われたくないわ」
そっちこそすごい隈じゃない、と精一杯に揶揄を滲ませれば、硝子はぴくりと目元を引き攣らせて「こんなのはもういつものことでしょ」と応えた。
「土壇場は乗り越えましたけど、後始末は、まだまだ終わってませんから。検死台も順番待ちで大行列ですよ。慣れたつもりでしたけど、流石に嫌になります」
「……そう、ね」
「…………。行きましょう、か。あいつも、待ってるだろうし」
返す言葉もなく再び俯いた私を、硝子が、そっと促した。
中はぶるりと小さく凍える程度に冷えていた。
壁面にずらりと並ぶ冷蔵の安置棚には空きがなく、全てがきちんと閉じられて、ごうごうと、小さく唸るようなモーターの稼働音が休みなく漏れていた。
こっちです、と硝子が手招きで私を呼び寄せたのは、中央に設置された検死台の方だった。見慣れた男が一人、死装束で、横たわっている。
白い髪。同じ色の長いまつ毛。
伏せた目の下の青を、私たちが目にすることは、二度とない。
「……」
「必要な処置は全部済ませました。後は、葬式上げて焼くだけです」
仰々しいことはしなくていいとは言ってましたけどね、なんて、ぼやくように零した後輩に何か言葉をかけるべきだと思ったのに、碌に舌が回らなかった。不用意に口を開けば嗚咽でも零してしまいそう。この後に及んで情けない真似はしたくない。
映像越しに、見た、この男の最期を、思い返した。
笑っていた。
終始楽しげに、技を、繰り出して。
事切れたその後ですら随分満足そうだった。乙骨が一度体を使った後であるし、多少は表情も変わってしまっただろうと覚悟をしていたのに、綺麗に整えられて永久に目を閉じた男はやはり笑みを絶やさずにいる。
────臓腑の奥から、焼けるような痛みを、感じた。
歯を食い縛って、幸福そうな寝顔を凝視する。泣きたくない。悲しみたくない。恨み言も、言いたくはない。決して綺麗とは言い難い思い出ばかりだけど、何をやっても、泥を塗ってしまう気がしてならなくて、舌の根のすぐそこまで込み上げている激情を、必死になって押さえ込んでいた。
「…………ッ」
「……先輩」
「いいの。いいのよ、これで。多分……こいつには、これで、良かったのよ」
私には、逆立ちしたって絶対にあげられない、幸福だった。
天に二物も三物も与えられて、この男にとってこの世はさぞかし退屈な地獄だっただろう。身命賭して死合う歓びなど、一体、何度味わったことか。結果として老い先もなく息絶えたとして、きっとこの馬鹿に後悔はない。今際の寸前、死の瞬間さえ、悉く味わい愉しみ尽くしたことだろう。
……ただ。
私の手前勝手は、独りよがりな願いを、告げるなら。
世界も未来も私自身のことだって、何もかも全部どうなったって構わないから、あの時、私を手放さないでいて欲しかった。
「死ぬ気はないとか言ってたくせに……絶対勝つって、あいつ、そう言ったのよ。約束だけ守って、結局帰ってこないなんて卑怯じゃない」
「……」
「やっぱり────置いて、いかれた」
きっと、いつかこうなると、私もあいつも、解ってはいた。
本当は、どこへでも連れていって欲しかった。
無理だと承知はいていても。離れたくも離されたくもなかった。たったそれだけの我儘の為に私がみるみる擦り切れて、使い潰されてしまうのでも良かったのだ。大事に大事に取っておいて、挙句置き去りにされるくらいなら、一足先に息絶えて地獄で待ち構えてやりたかった。
だって、愛してるのよ。
せめてこの恋情くらいは、道連れに、殺していってくれたら良かったものを。笑った顔だけが、うんざりするくらい、綺麗なまま、瞼の裏に焼きついている。好きだよと告げる甘ったるい声が、鼓膜にべったり張り付いて離れない。いずれは風化する感覚なのだとして、だけど今が、引き裂かれるように、痛い。
最後のぎりぎりまで、傍に、置いてくれた。
私が、私の術式で、送り出したのだ。そんな日が来るなんて夢にも思ってはいなかったから、本当は、それだけでも僥倖だったのだろう。
けれどもお陰で、あの男が、かつてない脅威に喜び勇んで飛んでいく場面を目の当たりにした。
子供のように目を輝かせ、振り返りもせず駆けていく様を、私は生涯忘れたりはしない。
「……ほんっと、やな奴。馬鹿で、自分勝手で」
「……」
「絶対、許さないんだから。あの世で後悔させてやる」
どうせあの馬鹿は私のことなんて待っていてはくれないだろうが、精々長生きして、忘れた頃に怒鳴り込みをかけてやろう。あまりに間が空きすぎると私のことまで頭からすっぽり抜け落ちていそうで、それはそれで腹立たしくはあるのだが。とにかく、どうにか、困らせてやりたい。今からこつこつと年の功を稼いでおけば、それも、叶うだろうか。
強敵相手に胸躍らせて捨てた女がどれほどのものだったのか、精々、口惜しめばいい。
「私だって────私にだって、別の幸せなら、あげられた筈なのよ」
生憎と、五条は、望んでくれなかったけれど。
ぼろぼろと泣く私を、静かに隣に立った硝子がそっと抱き締めてくれた。何も言わずに傍にいてくれる。笑顔を張り付けたまま冷たくなって動かない何処かの馬鹿とは大違いだ。
もし────もしも、この世界に、呪いなんてものがなかったとしたら。
些細なことですら互いに呪い合わなくては生きていかれないような私達ではなかったのなら、五条も、生死の境を綱渡りするような高揚ではなく、私を、選んでくれたのだろうか。退屈だとしても、寿命が尽きるまで続くありふれた幸福を、一緒に歩んでくれたのだろうか。
一瞬、頭に過った想像を一笑する。ありえない。そんなものは、五条じゃない。私の惚れた男は、そんな軟な野郎ではない。
そうも思うものの、つい、考えてしまう。
特別な男を好きになってしまった時点でこんな日が来ることはきちんと覚悟していた筈なのに、結局のところ私は、私を置いて去ってしまったあいつを受け入れられずにいるのだった。
それは、愛、ゆえに。
熱を失くした躯を前にしても尽きることのない思慕の情が、そのまま転じて呪いと成る。そして生涯、私自身に、付き纏う。
最悪の結末だ。
予感がする。この痛みが、日々の流れに薄れていくのだとして、それでも私はきっとずっとあいつのことが恨めしく呪わしい。
これからの人生、最後の呼吸一つ零すまで延々と祟り続けていれば、稀代の天才呪術師様が相手でも多少は苦しめてやれるだろうか。