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    さんじゅうよん

    @kbuc34

    二次創作の壁打ち。絵と文。

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    さんじゅうよん

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    高専五→歌
    胸糞注意(実際にはしてないけどそういう描写がある)

    サロメ(仮題) ────ずっと、その唇に触れてみたいと、想っている。






    「……ちょっと。五条?」
    「あ、ごめん」
     ぼーっとしてたと、呼ぶ声に遅れて答える俺に君は怪訝な顔をした。
    「珍しいじゃない。疲れてんの?」
    「まっさかあ。歌姫じゃあるまいし、あの程度の任務でへばったりしねーっつの」
    「あんたねえ……ッ」
     いちいち一言多いのよ、と苛々と吐き捨てて歌姫は膝の上で拳を握る。新幹線の中なので、怒るに怒れないでいるらしい。声を顰めながらも小言を零し、歯を食いしばりながらこちらを睨みつけるのがあまりにも歌姫らしい。
     つい、笑ってしまった。
     するとますます女の目がつり上がる。
    「何がそんなに可笑しいのよ」
    「そりゃ、歌姫見てたらいつでも愉快だろ」
    「馬鹿にしてんじゃねえぞコラ」
     別に、馬鹿にしている訳ではないのだが。しかしまあ、釈明の必要もないだろう。寧ろその為に、態と、勘違いさせるような言動を選んでいる。
     これ以上の対話は無駄だとばかりにそっぽを向き、舌打ちをくれ、前に向き直った君の横顔をこっそりと眺めた。艶やかな黒髪。傷だらけの白い肌。密に睫毛に縁取られた瞳は凛と涼しげで、どんな時でも真っ直ぐに前を睨んでいる。
     震えながらも立ち上がることをやめない弱さが愛おしかった。守ってやりたい、と思う。
     それこそ、馬鹿にするなと怒られそうだが。
    「……何見てんのよ」
    「おもしれー顔だな、って」
    「殴るぞ」
     どこぞのチンピラかと突っ込みを入れたくなるくらい柄の悪い脅し顔を向けられたが、生憎と相手は歌姫なので、全く怖くない。
     が、沸点臨界ぎりぎりなのは察しがついたので今回は黙ることにした。これが高専だの何だのであれば怒鳴り散らすまで煽り倒して楽しむところなのだけれど、流石に公共の場でそれをやるほどマナーに疎くはない。
     ……まあ、ちょっと、面白そうだけど。
     それはまたの機会に取っておくことにして、俺は眠ったふりで窓の方を向く。
     まだまだ物言いたげな歌姫は、しかし、動かなくなった俺を見てぎりぎり握りしめていた拳を解いた。肩を落とし、首を傾げ、僅かに眉を顰める仕草が、やっぱり疲れてるのかしらと言葉もなく語っているのがわかる。ちょろい。そんなお人好しで、この先呪術師なんてやっていけるのだろうか。
    「馬鹿」
     小さく呟く声が聞こえる。
     それはこちらの台詞だと、頭の中で言い返す。眠ったふりまでして窓に映る君を延々と見詰め、小さな唇からずっと目が離せないでいる、俺の気も知らないで。
     怒りでも苛立ちでも何でもいい、素直な気持ちなんて到底口には出せない分、視線くらいは奪ってしまいたいと憎まれ口を好んで叩いた。仮に罵倒の言葉だとして、打てば響く君の応答に一喜一憂する、幼稚なこの恋心など君は知る由もないのだと理解している。
     本当は、笑った顔だって、見たい。
     けれどきっと、そんなもの目にしてしまったあかつきには、果たしてこの情動の手綱をきつく握ったままでいられるものなのかどうにも自信が持てないのだ。俺の前で微笑む姿に、万が一、望むままに欲しいと手を伸ばして、振り払われでもされてしまったら。悪気はないと知っていて、それでも、俺を拒んだ君に対して俺は平生を保っていられるだろうか。無理に、奪ってしまわないだろうか。
     それだけの力がこの手にはあり、対して君はあまりにか弱く、それでいてこの感情は凶悪だ。
    「馬ぁ鹿」
     俺が寝たものと思い込み、自分もつられてすやすや寝入った彼女の寝顔を覗き込んで舌を出す。三つも歳上だと先輩風を吹かせたところで、こんなにも可愛い女、他に知らない。普段はぎゃんぎゃんと姦しく、まるで背中の毛を逆立てた猫のような癖して今は幼い寝顔を晒して熟睡して。
     ほんと、馬鹿。
     呑気過ぎ。
     隣に座っているのが狼だとも知らないで、いい気なものだ。
     邪魔臭いサングラスを下にずらす。保護具の外れた視界に、見慣れた女の姿と彼女の呪力が、色も鮮やかに映り込む。
     無防備な寝顔。薄く開いた唇が、咲いたばかりの花のように、淡く色づいている。
     ──────触れたい。食いつきたい。
    「……くそっ」
     どさ、と指定席のシートに深々体を埋め、サングラスをきつく上まで押し上げる。
     こういう時、己の鉄壁の理性が疎ましくて仕方がない。後先なんて考えることなく君の全てを奪い尽くしてしまえたらどんなに気楽かと、叶いもしない夢を見る。
     想像するだけだ。
     現実には、泣いて嫌がる歌姫を思い浮かべるだけで、背筋が震えて動けない。
    「サイテーか、俺……」
     共同任務を終え、疲れて眠る君の隣、目的地に辿り着くまでの残り僅かな時間を深く俯き自嘲に費やす。
     そんなわかりきったことで今更悩んでどうするのよと、呆れた声が聞こえるような気がした。



     このところ、よく、夢を見る。
     ──────他でもない己の手で、無理矢理捩じ伏せ暴き立てた、惚れた女の痛々しい痴態。



    「よっ、歌姫じゃーん。こんなとこで何してんの?」
    「げ、五条……」
     渡り廊下の向こうから姿を現した歌姫は、人の顔を見るなり渋面になった。まったく失礼な先輩である。人に散々礼儀を説いておきながら自分の所業は棚上げなど、あっていいことではないだろう。
    「言っても聞かない癖によく言うわよね……いいのよ、別に。あんたにしかこんなことしないんだから」
    「えっ、それってつまり、俺だけ特別扱いってこと……? うっそ、まさか歌姫俺のことす」
    「寝言は寝て言え馬鹿野郎」
     振り上げられた拳を避けた後で回し蹴りが襲い掛かったものの、そちらもひらりと躱してやる。後方に身を退いて顔を上げれば、悔しそうに奥歯を擦り合わせる歌姫と目がかち合った。
     にまっと笑う。
     ざまあねえなと鼻先でせせら笑えば、それでなくとも酷い渋面がますますぐしゃりと潰れて歪んだ。敵意と呼ぶにはあまりにも害のない、真っ直ぐな怒りは心地よい。
     俺は、べえ、と舌を出した。
    「ざーんねん。体術磨いて出直して来いよ。──あ、何なら、俺が稽古つけてあげてもいいけどぉ?」
    「ッ誰がてめえの胸なんざ借りるか!」
     いつか絶対泣かしてやるから覚悟しろと、高らかに吠える君を負け犬の遠吠えだと笑い飛ばす。高見からの嘲笑にも腐ることを知らない、屈託なく闘志を燃やすその精神性がどれ程清く目映いものか、当の君ばかりが気付かない。
     目を細める。溌剌とした魂の輝きに、密かに見惚れる。
     ────そんな君の、この世の不浄など知らぬ素振りな清廉さに心惹かれたというのに何故だろう、時たま、全部を破茶滅茶に壊して汚して、遂には色を失くした君の目に、俺しか映らないようにしてしまいたいとも心の底から願うのだ。

    「欲求不満じゃない?」
    「やっぱそう思う?」

     放課後。
     危ない奴に成り果てる前にと、傑に意見を求めてみた。
     当然詳細は伏せた。
     が、途端、呆れた顔をされた。
     その表情が、誰を相手に何を考えているか、大体のところ察しがついたと語っている。
    「……悟は、極端だね。そこまで自分を殺すこともないんじゃないか?」
     告えばいいのに、と傑は言う。
     俺は嗤った。
     軽く言ってくれるものだ。
    「はは。勝てない勝負に挑む程間抜けじゃねーって」
    「いっそ、フラれたらすっきりするかもよ。諦めがつく」
    「……傑、それ、本気で言ってんの?」
     冗談だとしても笑えない。面白くない。
     それでも無理に捻り出した作り笑いは、自分で確かめるまでもなく、酷く歪であったことだろう。
     俺は吠えた。
    「馬鹿言うなよ。振られたくらいで諦めがつく程度の女、そもそも、犯してまで自分のものにしたいなんて思わねえし」
    「悟」
    「…………ぐっちゃぐちゃの、滅茶苦茶にしてやりてー……何でかな、泣かせたくないのに、泣き顔が見たくて堪んないんだよね。俺」
     それは、この腕の中に留めておくには、君があまりに無垢だからか。だからきっと、そんな、世迷言を想うのだろう。
     世界は呪いで溢れている。
     俺に言わせれば非術師も呪術師も皆等しく目を塞いで歩いているようなものだ。何も見えちゃいない。醜悪で悍ましい有象無象に取り囲まれているとも知らず、暗闇を歩くように手探りで生きる恐ろしさを俺が微塵も理解しないように、君もまた、見たくもない物まで全て目にしてここまで生きてきた俺を理解は出来ない。
     理解、されたい。
     俺のいる場所まで、堕ちて来て欲しい。
     ────そうすれば、もしかしてあるいはと、未練がましく一縷の妄執に縋っている。
    「……」
    「本当はさ、俺だって、優しくしてやりたいよ。でも無理。そんなんしたらもう、絶対、止まれないし。……一緒にいたいけど、道連れになんか出来ないっしょ、あんな、弱っちい女」
     幸せに出来ないのなら触れるべきではないと思う。歌姫には、日の下が、とてもよく似合うから。
     今までもこれからも、俺は、この世の呪わしい物全てを踏み付けながら生きてゆく。俺には通い慣れた散歩道でさえ君からすれば阿鼻叫喚の道程に相違なく、そうとわかっていて、優しい君をこの暗闇に引き込むことなんてしたくない。それもまた、紛れもない俺の本心。
     好き、なのだ。
     そんな言葉一つでは到底言い表せない程に、君が、好き。
    「……ッだぁもう、ほんと、何なのあの女……ッ。可愛過ぎて腹が立つ。散々人のこと振り回しといて、何にも知らないで、いっつもぷりぷり怒ってやんの。あれで二十歳とか詐欺だろ。勢い余って襲っちゃったらどうしよ」
    「こら。冗談でも、そういうことは言わない」
     どうにもならない時は隣でちゃんと止めてやるから、と傑が肩を叩くので机に顔を突っ伏したまま宜しく頼むわとお願いをした。



     高専を卒業してしまった歌姫とは、そう頻繁に会えるものではない。報告に寄ったり、ヘマをして治療に来たり。硝子と待ち合わせをしていたり。間隔を空けてふらりとやって来る彼女を、あくまでも偶然を装って捕まえに行く。
     今日の歌姫は、医務室にいた。
    「うっわ。ひっど、何それ。大怪我じゃん」
    「……見た目が派手なだけよ」
     白い小袖の前を真っ赤に染めて、歌姫は不機嫌そうにむくれた。
     額を切ったらしい。現場が高専からそう遠く無かったこともあり、そのままこちらに寄ったそうだ。場所が場所なだけに出血は酷かったが本人の申告通り大したことはなく、ぱっくり横一文字に裂けていた額も、今ではうっすら傷痕を残すのみとなっている。
     歌姫はぶつくさと言う。
    「本当に、全然、大したことなかったのよ。あんまり痛くもなかったし。あんなの、硝子にお願いするまでも無かったのに……」
    「馬鹿言わないで下さいよ先輩。こんなに血が出たんですよ? 普通だったら何針縫うか」
     十分大事ですからね、と硝子にしては珍しくきつい口調で迫る。
     可愛いがっている後輩からの言葉は流石に無視出来なかったらしく、歌姫は殊勝な顔をしてごめんと呟いた。
    「次は、気をつける。手間かけたわね、ありがとう。硝子」
    「いいえ。このくらい、何でもないですから」
    「で、何でそんなヘマしたわけ?」
     美しい女の友情を一通り見せつけられたところで、口を挟む。
     先に噛み付いてきたのは硝子だった。
    「ちょっと、五条」
    「いいのよ硝子。むかつくけど、本当のことだし」
    「でも」
     どうやら事情を知っているらしい硝子はなおも食い下がるが、大丈夫だから、と歌姫に宥められて渋々引いた。正直、気持ちはわかる。血の気の薄い、白い顔で柔らかく笑う顔なんて、とても見ていられたものじゃない。
     どうしてこの女は、いつも、こうなのか。
     苛立って、眉根を寄せて、八つ当たりだとは理解しつつも声を荒げて「それで」と催促をした。
     歌姫は、不愉快そうに顔を顰めた。
    「あんたには関係ないでしょ」
    「へえ。そんな、人に言えないような恥ずかしい真似、しでかしたわけ?」
    「……そうよ、だから言わないの。もういいでしょ?」
     挑発にも乗ってこない。いや、乗ったには乗ったのだが口を滑らせるほどでもないようだ。俺に向かっていーっと歯を剥くと、しっしっと野良犬を追い払うような仕草をする。
    「ほら、もう行きなさいよ。授業始まるわよ」
    「質問の答え、聞いてない」
    「あんたには言わない。帰れ」
     早くしないと夜蛾先生に自習サボったの言い付けてやるから、と小学生のような物言いで目を吊り上げる歌姫に思わず舌打ちをくれながら、この場は一旦引き下がることにした。



    「巻き込まれた一般人を庇ったんだよ」
    「だろうと思った」
     そうでなければ、いくら歌姫といえども格下の呪霊相手にあんな大怪我をする筈がない。
     ち、と小さく舌打ちをくれる。
    「俺ならもっと上手くやる」
    「歌姫先輩は、君じゃないでしょ」
    「……当たり前だろ。弱いんだから、呪術師なんてさっさと見切りつけて後方支援に回りゃいいんだよ。中途半端に現場彷徨いて、痛い目見る前にさ」
     根性があるのは認めるが、裏を返せば他には何もないのが歌姫だ。あんなものはたまたま術式をもって生まれただけの一般人と大差ない。呪術師としての素質はあってもそれだけで、才能があるわけではない。むしろ、向いていない。真っ当な性質の人間が背負い続けていられるような業ではないのだ。そんなことは高専の四年間で嫌というほど味わっただろうに、よくもまあ、あれで呪術師になんてなろうと思ったものである。
     何故あんな、心根の清い女が。
     ……だからこその今であるのだと、そうとわかっていても、どうせ弱いなら身も心もそうであればよかったのにと恨めしく思った。
    「君さ、素直に、心配だから無理しないでほしい、って言えないわけ?」
     不貞腐れて頬杖をつく俺に、硝子は呆れ顔だ。
    「そうすれば、歌姫先輩だってあんな態度取らないのに」
    「素直も何も、俺、本当のことしか言ってないけど」
    「……そういうところが、捻くれてる、って言ってるんだよ」
     まあ好きにすればいいけど、と肩を竦めて硝子はどこかへ行ってしまった。去り際に「怪我の理由、私が話したって言わないでよ」と念押しされ、それにへいへいと生返事で頷く。
     ぱたん、と扉が閉まった。
     俺一人を残したがらんどうの教室で、ばたりと、机に突っ伏す。
     サングラスで覆い、腕で囲えば、窮屈ながら擬似的に暗闇が訪れる。しかし、瞼を閉じて、光を遮ってもなお呪力の流れに視界は情報の洪水を起こしていた。
     いくら丁寧に目を塞いでみたところで、この世界はあまりに眩く煩わしい。うんざりだ。そこもかしこも呪いで溢れ返っていて、時には全部が全部嫌になってしまうことだってあるけれど、でも、それでも、此処がいい。此処に居たい。そう思うのだ。
     守りたい。
     叶うのなら、君のことだって。
     傷一つ付けぬよう真綿に包むことも、その気になれば、出来る。何一つ不自由なんてさせやしない。君さえうんと頷いてくれるのなら大切に籠の中へと仕舞い込んで誰にも触れさせたりしないのに、他ならぬ君自身が、戦場に立つことを望んでいる。
     傷を厭わぬ勇猛さに見合わぬ脆さを、恐ろしい、と思う。君はとても弱いのに、誰かを守る為にその身を擲つ行為に躊躇いがない。
     生き残る為に、死を厭わない。
     歌姫はもう、呪術師として、必要な覚悟を決めている。
     俺にはそれが受け入れられない。
    「死ぬなよ、歌姫……」
     俺がこちら側に立つ理由を、一つ、減らさないで欲しい。
     君が傍に居てくれないのに体裁だけで大義名分を掲げ続けていられる程、俺は、真っ当な人間なんかじゃない。



     人として不出来なのだと、歌姫は俺を詰る。
    「もっとやり方ってもんがあるでしょ」
     どうしてわざわざ事を荒げるようなことばかりするのと憤慨して、俺の頬を濡れたハンカチで拭った。苛立ちを隠そうともしない割には、傷を清める手つきは慎重で優しい。
     三下相手の喧嘩を買ってやった。
     術師としての等級はさておき、一応は上司だったので、優しく丁寧に嬲ってやったつもりである。殴られたのはわざとだ。人語を話す真似事をする豚にもわかるよう、体に言い聞かせてやる為の理由付けが欲しかった。
     隣に居合わせた歌姫さえ止めなければ、二度と知ったかぶって言語を話すこともできないよう徹底的に躾けてやったのにと、少々物足りなく思う。
    「馬鹿言ってんじゃないわよ」
    「俺本気だけど」
    「なおタチ悪いわ」
     大体ね、と歌姫は不愉快そうに鼻を鳴らす。
    「馬鹿にされたの、私であって、あんたじゃないでしょ。……何で、そんなに怒るのよ」
     ────女はいいよなあ、とあの男は言ったのだ。実力がなくても、そうやって、色で媚びればいいのだから、と。
     うざ絡みする俺と嫌がる歌姫のどこをどう見てそんな解釈に至ったのか甚だ疑問だが、何にしろ、発言内容から察するに顔の正面についている目玉二つが飾りであることは確定である。くり抜いてやればよかった。どうせ碌に何も見えていないのだ、あってもなくても同じことだろうに。
     ああ、思い出すだけでも腹が立つ。
    「歌姫如きの色仕掛けに引っ掛かってると思われた事自体、とんでもない名誉毀損だろ。裁判だ裁判、訴えてやる」
    「じゃ、あんた過剰防衛で実刑ね」
    「まだ未成年だし、情状酌量の余地ありますぅ」
     冷たく吐き捨てた彼女に戯けて返して、「ていうか」と口を尖らせた。
    「……歌姫こそ、何で、怒んないわけ?」
    「だってあんなの、しょっちゅうだもの」
    「は」
    「この業界、男社会だからね。ああいうこと言う輩は少なくないわよ? いちいち取り合うなんて馬鹿馬鹿しい」
     言わせておけばいいのよと、何でもないことのように、言う。
     その、熱さも冷たさもない落ち着き払った様子に、歌姫にとってあれが日常の雑事に過ぎないのだと知らされて思わず眉を顰めた。
     がたん、と椅子が床を引っ掻き揺れる音がした。
    「………………誰?」
    「は? 何が」
    「他に、誰が、そんなつまんねーこと、歌姫に言ったわけ?」
    「誰って…………そんなの、覚えてないわよ」
     ゆらりと立ち上がった俺の袖を、歌姫が引く。
    「もう、だから何で、あんたそんな怒ってるのよっ。いいから座りなさいってば、まだ、顔の手当て終わってない」
    「別にこんなん大したことねえし」
    「顔が腫れてるの、先生にばれたらまた怒られるわよ。大事にする気?」
     座って、と上目遣いに懇願されて俺は渋々腰を下ろす。
     別に、夜蛾先生にどやされるのなんていつも通り過ぎてどうということもないのだが、懸命に袖に縋り付くのが破壊的な可愛いさでつい言う事を聞いてしまった。真剣そのものの歌姫にばれたら大目玉を喰らうだろうことは必至のため、にやつきそうになる顔を必死で顰め面に変換する。
     歌姫は、医務室備え付けの冷蔵庫から保冷剤を取り出すと、タオルで包んで俺の頬に宛てがった。
     間近に向き合った、不機嫌そうな渋面には、少しの罪悪感が滲んでいる。気に病んでいるからこそこんなにも甲斐甲斐しく世話をしてくれているわけで、俺としては役得でしかない。
    「……だからどうして、あんたが、そんなに怒るのよ。自分だって散々、私のこと馬鹿にするくせに」
     ぽつり、と歌姫が零した。
     悔しそうで、不思議そうで、困惑しきった調子の細い声に、俺はけらけらと笑い返す。
    「俺はいーの、めっちゃ強いし。けど、弱っちい馬鹿が弱っちい歌姫虐めんのは違うだろ」
    「あんたねえっ」
    「──俺だけで、いいの。歌姫馬鹿にして、がみがみ怒られんのは」
    「……」
    「な?」
     俯く彼女を覗き込み、にかっと笑えば、不愉快そうに眉間に皺を寄せた歌姫がきいっと歯を剥いた。
    「良いわけあるか、馬鹿」
    「あいてっ」
    「…………けど、さっきのは、ちょっとスッとしちゃったから」
     ありがとう、とほんの小さな声で、呟いた。
     普段にはない僅かな揺らぎに涙の気配を感じて、けれども今は混ぜっ返す気にもならず、ぐいっと押し当てられた保冷剤ごと小さな手を掴んで頬擦りをした。
     礼を言われる筋合いなんて、ない。俺は俺のことしか考えていない。君の怒りも涙も何一つ、他の奴らには渡したくないだけ。そうとも知らずはにかんだように頬を弛めるその仕草に、体の芯がみるみるうちに熱を持つ。
     触れたい。もっと。深くまで。
     込み上げる情動をねじ伏せて、頬に強く宛てがっていた目の荒いタオルの生地に、口を押し付けて俯いた。
    「……五条? どうしたの、痛むの?」
    「ん。へいき」
     ────俺のものに、したい。
     この劣悪な欲求は、一体、何処からやって来るのだろうか。傍にいられるだけで十分じゃないかと善人ぶって嘯いてみたところで、華奢な体躯に、柔い肌に、淡く色付く唇に、気付けば目を奪われている。舐めて、しゃぶって、齧って、骨の髄まで貪り尽くしたい。万が一にも俺以外の手で君が損なわれるかと思うと、いつだって気が気じゃないのだ。
     この手に入らないのならば、せめて、誰のものでもない君のままでいてくれないか。
     浅ましい願望が零れ落ちないように、きつく、口を塞ぐ。
     歌姫は何も言わずに、ただ、俺が満足するまで傍に居てくれた。



     夢の中の歌姫は、いつも泣いている。
     それは、心のどこかで俺自身、受け入れてもらえるはずがないと諦めている所為なのか。
    「…………、あー……」
     これはやばい。ガキでもあるまいし。
     夢見も悪ければ寝覚めも最悪である。汗やら何やらでべたつく体をのろのろと引き摺って、風呂場へと向かう。
     冷たい水を頭から被ったところで一度覚えた興奮が消えることはなく、実を伴わない唇の柔らかさを忘れることも出来なかった。
    「……歌姫」
     目を閉じる。きつく拳を握る。
     瞼の裏に、眠るように目を閉じた、可愛い女の姿が焼き付いている。青い顔で、血塗られて、息の無い女の首を後生大事に抱え込み、優しく髪を撫でた後で口付けた。
     ──────あんなものが己の深層心理などとは、断じて、認めない。
    「うたひめ」
     君が、欲しい。それこそ喉から手が出る程に。喜怒哀楽の全てに起因したい。君の幸も不幸も、俺一人の腕の中に閉じ込めておけたらどんなにいいだろうと夢想する。
     でもだからって、君が傷付けばいいなんてそんなこと、本気で願ったりはしない。
     して、ない。
     その筈だ。
    「────ッ」
     だん、と浴室の壁を叩く。
     力みすぎで呪力の滲んだ拳に耐えかねて、壁に、蜘蛛の巣のような亀裂が走った。



     ぱたぱたと、小さな足音が行儀良く廊下に響いて、ふと止まる。
    「あ、夏油」
    「どうかしました、先輩」
    「五条、見なかった?」
     夜蛾先生に呼んでくるように頼まれたんだけど、と不機嫌そうに囀る声に、傑が苦笑を返している。
    「さあ、校舎の何処かには居ると思いますけど。代わりに伝えましょうか?」
    「……そうね。お願い。次の任務の件で、話があるそうだから」
     急げって伝えておいて、と声を張り上げた後で、歌姫は小さく鼻を鳴らした。
    「もう。どうして先生も、毎回私に頼むのかしら。私、あいつの世話係じゃないんだけど」
    「それは……何故、でしょうね?」
    「何よその、胡散臭い顔は。気味悪いわね」
     まあいいわ、と歌姫は溜息を吐き腕を組む。
    「どうでもいいけど、余計な手間かけさせんな、って言っておいて頂戴。顔見せる気がないなら尚更ね。あいつと隠れんぼしてるほど、私暇じゃないのよ」
    「伝えておきます」
    「宜しく。じゃ、今日はもう帰るから」
     またね、と言い置いてどしどし足音が遠ざかっていく。
     細っこいくせに、「怒ってるんだからね」と主張するような、不必要に強く床を叩く重苦しい音に思わず笑ってしまいそうになった。
    「……気付かれてるよ」
    「デスヨネー」
     呆れた顔でこちらを振り返る傑に、扉の裏でしゃがみ込んでいた俺は軽く頷く。
    「おっかしいなあ。呪力も気配も完璧に殺してた筈なんだけど」
     歌姫如きに気取られるなんて、とぼやく。
     傑は肩を竦めた。
    「悟が馬鹿にするほど、鈍い人じゃないからね。様子がおかしいことくらい、解ってるさ」
    「……」
    「何かあった?」
    「………や。なんも」
     怪訝そうな傑に曖昧な拒絶を示して俯いた。何もない。真新しいことは、別に何も。問題ならば彼女を好きになったその瞬間からきっとずっとこの胸の内に息を潜めていて、今この時になって漸く、俺自身が知覚するまでに顕在化したというだけだ。
     恋とは、こんなにも凶悪なものだったのか。
     それとも単に、俺自身が怪物であるというだけか。
    「……悟?」
    「はあ。やばい。ほんとやばい」
     俺の気持ちには気付かないくせに俺の変化を見逃すことはしない、鈍いようで聡い、そんなところまで愛おしい。今すぐ追いかけて抱き締めて、この腕に囲って逃したくないと思う一方、勢い余ってそのまま絞め殺してしまいそうなのが恐ろしい。
     二律背反に懊悩する。
     多分俺は、あんな女とは、出会うべきでなかった。
    「────傑」
    「何?」
    「……本当に、俺が危ない奴になったら、殺す気で止めろよな」
    「はいはい」
    「うっわ生返事」
     俺は至って真剣なのに、肝心の親友は呆れた顔をするばかり。少々むっとしながらも、まあ、言っても万一現実になって仕舞えばその時は真面目に止めてくれるだろうと安心して、俺は、奇妙に歪んで元に戻らない口元を掌で覆った。



     いつまでも逃げ回って済むとは思っていなかった。
     だが、いくらなんでもこれは想定外である。
    「え」
    「あ」
     すっかり油断していた。
     歌姫を避けて避けて避けて避けまくって、早三ヶ月。
     毎度恒例の説教タイムに、拳骨を喰らった脳天を押さえて正座で反省の素振りを見せていたところへ突然、前触れなく、がらがらと引き戸が音を立てて開いたのである。
     歌姫、だった。
     左手に報告書を抱えている。先生に渡しに来たのだろう。失礼しますと耳に心地よい声が丁寧に響いたその直後、ぶつりと音が途絶え不自然な沈黙が訪れた。
     いつも俺を睨んでばかりいる黒瞳が、正座で半身を捻る俺の姿を映してまんまるに瞠られる。
     俺は、固唾を呑んだ。
     時が止まったかと思った。
     久し振りに、真っ向から目にした歌姫は相変わらず活き活きと眩いばかりで、とても、綺麗で。
     思わず、見惚れる。
     ──────ああ、やっぱり、好きだなと思う。
    「うた、ひめ」
    「……ッ」
     頭の中が真っ白になっていた。
     たった一瞬のことではあったけれども、お陰で出遅れたのは否めない。
     慌てて窓から逃走を図ろうとしたものの、既に駆け出していた歌姫に背中に追い縋られて、そのまま二人して縺れ合いながら地面に着地する破目になった。



    「ばっか、この馬鹿姫! 何考えてんだよ、相手俺じゃなかったら二人とも死んでたんだけど!?」
    「うるっさいわね、二階の窓から飛び降りたくらいで死にゃしないわよ馬鹿ッ」
     大体あんたが人の顔見るなり逃げようとするから悪いんじゃないの、と歌姫が叫ぶ。
     思わずぐっと二の句を飲み込んでしまったが、このまま押し負けてなるものかと焦って平生を取り繕う。
    「──ッそりゃ、あんな鬼の形相で追っかけられたら誰だって裸足で逃げ出すってえ。ていうかほんと何事? 俺、何もした覚えないんだけど?」
    「惚けてんじゃないわよ! ここ最近、私のこと避けてたじゃない!」
    「べっつに、そんなことないですけどぉー? まあ確かに、たまたまタイミング合わなくて、ご無沙汰してたけどさあ」
     それがどうしたっていうんだよ、と俺は嘯く。
    「人のこといーっつもうざいだの何だのって邪険にするくせに、もしかして、暫く会えなかった間に寂しくなっちゃったと」
    「ッ────そう、よッ!!」
    「か……。……………。え?」
    「だから! あ、あんたの顔、見てないと……っ調子、狂うん、だってば!!」
    「……」
     歌姫が、自棄くそで怒鳴っている。
     てっきり否定と共に詰られるのだと思いきや、顔を真っ赤にして涙目を怒らせながら胸倉を掴み上げ放たれた台詞のちぐはぐさに唖然とした。想定と違う。それでなくとも予定外の事態に頭が故障気味なのに、重ね重ねのイレギュラーに脳細胞が一斉に職務放棄しようとしている。
     俺に馬乗りになったまま、ぐしゃっと襟を握って引き寄せて、鼻先がぶつかりそうなくらいに顔を寄せた歌姫がさらに喚いた。
    「何もした覚えがないって、そりゃ、こっちの台詞だっつーの!! 何よ!! 人が散々やめろって言ってもいつも煩く付き纏ってきたくせにっ……急に、ぱったり、よそよそしくなるとか! 声かけようとしても逃げ回るし! 顔も見たくないってか!! ぁ!? ざっけんなよほんともう何なのよ、これじゃまるで、私が、何か悪いことしたみたいじゃない……ッ!!」
     文句があるなら面と向かって言いなさいよ気持ち悪い、と一息に怒鳴って、ぜえはあと荒く呼吸する。
     白い小袖の肩が、大きく上下した。
     ぐしゃりと歪んだ怒り顔が眼前に迫る。興奮のあまりに限界まで潤んだ瞳から今にもぼとりと塩辛い水が滴りそうではらはらする。
    「うたひめ」
    「ばか。バカ五条。こんな訳わかんないままじゃ、ごめんとも言えないじゃない」
     謝るチャンスくらい寄越しなさいよとそう言って、ぎりぎりと、歌姫は奥歯を噛み締めた。
     俺は、言葉もない。
     怒るだろうなとは勿論思っていたが、こういう怒り方は予想の範疇に無ければ咄嗟の対処法も浮かばない。女を泣かせた記憶など、それこそ、指折り数えるのも馬鹿馬鹿しいほどあるというのに。振り返ってみたところで何の役にも立ちはしない。そもそも哀れに頬を涙で濡らして泣き縋る女を前に面倒臭いなくらいの感情しか抱いたことがなかったものだから対処も何もないわけで、しかし今、こうして、泣きそうで泣かない不細工顔を晒す歌姫を前にして、指一本動かすのも不用意ではないかと躊躇うくらいには狼狽している。
     どうすれば、いいのだろう。必死で頭を回しても、正しい答えが見つからない。それでも頭の中は、十七年とちょっとの記録の中からありもしない君の宥め方を延々と検索し続けている。あんなにも、滅茶苦茶に傷付けて泣かせてやりたいと、欲していたくせに。望んだものが今目の前にあって、後少しで手に入るのに、嵐の直前を思わせる君の顔を見上げればどうか泣かないでくれないかと右往左往と揺れる心で祈るのだ。
     君が泣くのは、困る。物凄く。
     その元凶が俺ともなれば、尚更に。
    「…………ごめん」
     泣くなよ、と恐る恐る手を伸ばした。
     柔く乾いた目尻を、親指の腹でそっと擦る。
     すると、それでなくともしわくちゃの顔が、さらにくしゃくしゃと潰れてひやりとする。
    「ないて、ないっ」
    「そだね。その調子で気張って、な?」
    「だからっ、そもそも、泣かないっつーの!」
    「うん。わかってるって。歌姫は、なーんも、泣くことなんかないよ」
     歌姫は悪くねえからさと告げて頬を撫でると、「当たり前だわっ」と怒鳴り返された。
    「全部、あんたが、悪いのよ……!」
    「うん。ほんとごめん、心配させた」
    「してない!」
    「だからごめんって。マジで反省してるし、もうしないから。許して?」
    「あんた人の話聞きなさいよッ!!」
     泣いてないし心配もしてないんだからねとキレて叫ぶ様子にこれが世間様で言うツンデレとかいうやつなのかなと首を捻りつつ、痩せた体を抱き締めた。
     口で文句こそ言われなかったものの歌姫からは相当頑固な抵抗があり、四つん這いで跨る彼女を自分の胸に埋めるまでにはそこそこの腕力を発揮しなくてはならなかった。本当に、素直じゃない。お陰で抱き締めるというよりは最早寝技、擦れ違いの末の和解と称すにはあまりに強引でぎこちない。
     それでも、苦労して抱き締めた彼女は、温かくて。
     黒髪の垂れた頸に顔を埋めて、深く、呼吸した。
    「歌姫。ごめん」
    「……だから、謝られたって、訳わかんないんだってば……ッ」
     結局一体何だったのよともごもごいらいらとぼやく声は聞かなかったふりをして、目を閉じ、白い肌から直に感じる熱と脈の気配にほっと胸を撫で下ろしていた。





     五条が元に戻った。
     以前に増してうざい。
    「歌姫ーっ、悟くんが会いに来たよーっ」
    「頼んでねえわ!!」
    「もお、そんなこと言っちゃってぇ。俺の顔見ないと調子狂うんでしょ〜? わざわざ見せに来てやったんだから、感謝しろよな」
    「っぐ……」
     言った。確かに、言った。
     前言撤回したい。
     調子は狂ったが日常生活に支障はなかったし何なら穏やかなくらいだったし、高専に顔を出す度にあの日の黒歴史を引き合いに出されて揶揄い倒される破目になるとわかっていたら絶対あんなこと言ったりしなかったのに。いや、ちょっと考えればわかりそうなものだが。何しろ相手は五条なのである、こうなることは目に見えた結果だったというのに、しかし、あの時は頭に血が上っていて勢いだけで怒鳴り散らしてしまった。
     つまり、全部、本心。
     だから何も言えないし余計に腹も立つ。
     歯を食い縛って拳を握り屈辱に耐える中、へらへらと笑う五条が実に可笑しそうに口元を歪めて人の顔を覗き込んでくる。
    「ほらほら〜よぉく眺めときなよ〜歌姫ぇ? 俺明日から遠方派遣で、暫く会えないからさ。寂しくなっちゃうといけないから、この美貌、しっかり目に焼き付けといたほうがいいよー?」
    「……、…………っ、〜ッ!! うるせえ! 調子のんじゃねー!」
    「わーヒスったぁ」
    「ふっざけんなよ馬鹿! 誰の! 所為だよ!」
     怒りに任せて振り翳した大振りの拳は、案の定、躱される。
     ひらりと横に重心をずらした五条はあっという間に私の背後を取って、ぎゅう、と後ろから羽交い締めにした。
    「!」
    「はい充電〜。俺そろそろ行かないとだけど、歌姫、泣くなよ?」
    「泣かねえよ!」
     寧ろ精々する。
     叫ぶ私に五条はからからと笑った。底抜けに明るく。吹けば飛ぶような軽薄さで。
     一点の曇りもないその表情に、私はいつも通り顰めっ面で怒鳴り散らしながらも内心安堵していた。結局、奴からは何の釈明も聞いていない。追求もしなかった。以前と変わらない舐め腐った態度に憤りは感じるものの、どこか吹っ切れた様子に、ようやく調子が戻ったのかとほっとした。
     礼儀知らずのむかつく後輩だが、今更あまりしおらしくされるのも気味が悪い。多少の人徳は身につけろと言ってやりたいところではあるものの、この男に限って言えば、へらへらしているくらいで丁度いい。
     私は、きゅ、と唇を引き結んだ。
     うっかり緩みそうになる口元を押さえて、再び奴に向かって拳を振り上げる。
    「いいからとっとと任務に行けよ馬鹿野郎! 二度と帰ってくんな!」
    「ははっ、お土産、期待しといてねー?」
    「いらねえよ! 来んな!」
     ……にしても、しつこい。流石に鬱陶しい。
     やっぱり、ちょっとくらい、元気がなくてもいいかもしれない。





     君を、完膚なきまでに蹂躙したい。
     俺の色で犯して染めて、どこへも行かれないように鎖で繋いで留めたい。
     粗暴かつ非道極まりない君への獣欲は、この胸の内に今なお昏く凝っている。未だに首だけの君を抱き締めて恍惚と口付ける夢を見るのだ。だけどもう、甘い悪夢に怯えることは二度としない。
     俺にだけ晒される涙を見たいと思いはするものの、何しろ、実際には泣き出す寸前の歌姫を前にしておろおろする体たらくぶり。俺って案外意気地なしだったのだな、と知ったあの日にはっきりわかった。
     俺は、決して、歌姫を傷付けない。
     まあうっかり泣かせそうにはなってしまった訳だけれどそれはさておき、無理だ。強がりで意地っ張りで根性ばかり天元突破している彼女の泣き顔は、幼気な青少年には少々刺激が強すぎる。心臓に悪い。女の慰め方も碌にわからないのにあの歌姫を宥められる気もしないし、怒ってちっこい拳をぶんぶん振り回している歌姫の方が何倍も扱い易くて俺には丁度いい。怒っているのも、面白可愛いし。何より、俺を一心に睨みつけるあの目が堪らない。嗜虐心を唆られる。
     誰より可愛い君だから、虐めたい。色んな顔が見たい。独り占めしたい。抑圧し過ぎた願望が回りに回って破滅的な衝動へ転化するのだとして、俺がそれを実行することは決してない。何故ってそれは勿論、歌姫のことが好きだから。何より大切な君を、俺が望んで傷付けるなんてありえない。
     身も蓋もないことは、わかっている。それでも結局のところ、全ての答えがその一点に集約されるのだ。
     そもそもそんなことは最初からわかりきったことだった。ただ、俺が俺に対して、確証を持てずにいただけで。こうなってくると最早悩むのも馬鹿馬鹿しい、何しろ、この恋心は捨てられない。ならばもう、受け入れるより他にない。
     ────いつか。
     そう遠くはない未来に、俺が、泣いている君を慰めて、涙を拭ってやれるような大人になったら。
     その時には、君に好きだと、言えるだろうか。
     つまらない柵なんて全部壊して、地獄の道行さえ安全安心を担保できるくらい、今よりもっとずっと強くなったその暁には、きっと。
     伝えたい。
     温かな君の唇に、触れてもいいだろうかと、許しを乞いたい。
     





    「────────って、思ってたんだけどなあ」
     全く、現実とは儘ならないものである。
    「……何がよ」
    「大人になるって難しいよね〜、ってハ、ナ、シ」
     向いで酒を煽っている歌姫が胡乱な目を僕に向けるので、頬杖をついたままへらりと笑みを返した。
     仲間内の酒の席である。
     仲間内の、であったのだが、同期も後輩も急な仕事がどたばたと入ったらしく気づけば僕と歌姫しかいない。歌姫は非常に不服そうだったが大好きなアルコールを摂取してあっという間にご乱心、僕としては、久し振りに二人きりになれて非常に嬉しい。
     あれから既に十年は経過した。子供が大人になるには充分すぎる年月も、僕が歌姫の扱いをマスターするには些か短か過ぎたようである。いざ成人こそしたものの漠然と頭の中に思い描いていた「大人の男」からは程遠く、相変わらず短気な君を揶揄っては怒らせて、目尻の吊り上がった視線が僕に釘付けになるのを見ては歓んでいる。
     あの頃に比べ毛が生えた程度の成長しかない僕同様に、歌姫も、昔と然程に変わりない。見た目はともかく中身はあの日のまま、喧嘩っ早くて、情に厚くて、お節介で、人望はあっても弱っちいまま。お陰様で僕の恋心にも一向に変化が訪れない。
     十年経ってもおいそれと手を伸ばすことができないくらい、君が好きなままなんて、そんなことは想像もしていなかった。
     この調子では君を手に入れるまであと何年かかることやら、いい加減、大事にし過ぎて尻込みするのも厭きてきた。
    「歌姫さー、今、付き合ってる男とかいんの?」
    「何なのよ急に……当てつけかよ」
    「いや、それはいくら何でも穿ち過ぎじゃなーい? ただの確認だって」
    「……いないわよ。いるわけないでしょ……」
     周りに碌な男なんていないんだから、と赤らんだ顔で口を尖らせる。
     無意識なのか、歌姫は、むっとした様子で古傷をそっと撫でた。普段気にした様子は見せないが、やはり、女の顔の傷というやつは下心のある男にとって相当な減点要素になるのだろう。もしかしたら、つまらないことを言う馬鹿もいたのかもしれない。滅びたらいいのに。
     少なくとも僕は、顔の傷もひっくるめて歌姫の何もかもを愛している。僕ほど彼女を想っている人間など、現世の何処を探したって他にはいやしない。
     だが、黙っていたら、歌姫はいつまで経っても僕の気持ちに気付かないまま。このところは別段隠しているつもりもないのだが、周囲の視線の生温さだけが日々加速して当の本人には全く伝わらないのが不思議である。
     何ならはっきり告白したところで、歌姫のことだ、ドッキリか何かだと疑ってかかることだろう。これに関しては日頃調子に乗っておちゃらけ続けた弊害だ、自業自得とはいえ少々切なく、それなりに腹も立つ。いくら何でも鈍過ぎるだろ。
     考えたら段々と苛々してきて、僕もむっと唇を引き結んだ。
     時間が経てば勝手に大人になるのだと思っていた。現実はそう上手いこといかなかったわけだけれども、昔に比べれば多少なりとも物事がよく見えるようになっている。例えば、僕は僕が思うほどに強くなかったり、君が、弱くもなかったり。
     当たって砕ける趣味はない。正々堂々想いの丈を告げようものならば玉砕は必至、根気強く攻めるのも悪くないがどうせなら、多少小狡くてもいい、可及的速やかにかつ確実に仕留めたい。
     そうだ。もう、今夜、決めよう。
     このまま放し飼いにしておいて、知らない内に他の男に掻っ攫われていました、では笑えないし。
     思い立ったが吉日である。僕は、酔っ払いの前にお高い日本酒を追加した。無類の酒好きは飲んでも飲んでも乾くことのないグラスに特に疑問を抱くでもなく、ぐいぐいと喉の奥へ流し込んでは僕を相手に管を巻く。怒り上戸に絡み酒、変わらぬ酒乱ぶりを発揮する歌姫を前に僕もまたにこにこ上機嫌で酒を注ぐ。
     ゼッタイ、酔い潰す。
     そんで持ち帰る。
     念の為に言い訳をしておけば、非合意で事に及ぶつもりはない。無理矢理体を奪う事に意義も価値もない。大切なのは、ナニがあろうとなかろうと、嫁入り前の歌姫が僕と一晩明かしたという動かし難い事実である。
     これだけ飲ませた歌姫に今晩の記憶が残る筈はなく、僕が出鱈目を言おうとありのままを話そうと真偽を確かめる術はない。とっかかりさえ作って仕舞えば、後はもう、あの手この手で言い包めて囲い込むだけ。仮でも試用でも交際まで漕ぎ着けて仕舞えばこっちのもの、義理堅い歌姫は浮気なんて器用な真似は出来ないし、情に訴えかければ絆されること請け合いである。
     ……まあ、僕の告白に歌姫が素直にうんと言ってくれるのなら、それが一番ではあるけれども。
     幸いにして、高専きっての酒乱は酒が好きでも強くはない。一時間と経たず泥酔状態に陥った歌姫を抱え、僕は意気揚々と近場のホテルに向かった。
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