知らせを聞いて駆け付けたのは、彼女が傷を負ってから一週間も経った後だった。
駆け付けた、なんて言っても遠征から慌てて戻ったその頃にはもう傷も癒えていて、平気な顔をして任務に精を出していたので遅刻もいいところではある。
「何ですぐ連絡しないんだよ」
「だって、別に、命に関わるような怪我じゃなかったし……それに、すぐに硝子が治してくれたし」
「そういう問題じゃねえだろ」
「その程度のことよ。皮一枚裂かれただけ。それにあんた、任務で遠出してたじゃない。余計な心配されたくなかったの」
「余計? どこが? 下手すりゃ顔、真っ二つにされてたんだぞ」
「ッ…………わ、私だって、そこまで間抜けじゃないわよっ!」
結果的に何もなかったんだからいいだろう、とそっぽを向く。状況的に自分が不利だと悟り、しかしとやかく言われるのは気に食わないようで、早いところ会話を切り上げようとしているのが見え見えだ。
気まずそうに俯いた彼女の、艶やかな黒髪の合間を、白い指が落ち着かない様子でそろりと撫でている。
嫋やかな丸い指の先に、癒えたばかりの薄皮に透けた肉の色が触れるのを見た。
────何故、そんな、何でもないことのように言うのだろう。
元々は一人でも熟せるような簡単な仕事だと言われて、現場に向かったのだという。そして遭遇したのは階級よりも上の呪霊。歌姫が討伐出来たのは、単純に運が良かっただけだ。
もしかしたら、死んでいたのかもしれない。
一歩間違えば今ここでこうしてくだらない言い争いをすることすらなく、冷えた骸を前に、涙の一つも流さないで呆然としていたのかも。顔に怪我をする程度で済んで良かったのだ。それは、俺にだって判っている。
だが、それほど危ない目に遭ったのに、「怪我をしたけどなんでもなかった」と他人の口から聞かされるのは明らかに違う。
「なあ」
「──ッ」
「俺が歌姫の心配するなんて、当たり前のことだと思わねえ? 俺より遥かに弱いんだから」
「なっ」
「現場に出る度にいつも心配してるよ。ああ、今度も、生きて帰ってくるといいな、ってさ。大体弱い奴から死んでくし、歌姫程度の実力じゃ、大物引き当てたら一巻の終わりだろ?」
「…………ッそれは、そう、かもしれないけど……あんた、いくらなんでも私のこと馬鹿にしす──」
「どこが。俺だって、いつ死ぬかわかんねえし。……だから、歌姫だって、仕事前にいつも顔見せに来てくれるんじゃねえの?」
「……」
力任せに、だん、と壁に叩きつけた拳の間、俺よりも頭ひとつ小さな歳上の女が、目を見張り、顔の傷を押さえた。
そしてまた、俯く。
旋毛を俺に向けたままの頭が、そっと、俺の胸の上に伏せて震えるのを見届けてから、慎重に、ゆっくりと抱き締めた。
「余計とか、言うなよ。馬鹿姫。心配した」
「………………ごめん。五条」
「ん。いいよ、無事だったし。けど、ほんとよかったなー、皮一枚のヘマで済んでさ」
「……ねえ、何であんたって、すぐにそういうこと言うのよ……一気に感謝と謝罪の念が薄れたんだけど……ッ」
顔を伏せたままで唸り声を上げる歌姫はその後もぶつくさ文句を言っていたが、その声は、いつもに比べて愚図るように濁っていた。時折鼻をすする音が混じるのを、いつもであれば泣いているのかと茶化すところそうせずに、よしよしと背中をあやして抱き締める。
危険に身を投げる行為なのだと判っていて、不安を押し殺して、それでも君がいつもと変わらぬ悪態と共に「いってらっしゃい」と俺を送り出すように、俺もまた、万一あれば無事では済まないと知りながら今日もまた呪霊を祓いに向かう彼女を引き留めることはない。互いに理解している。それもまた、自身の一部なのだと。
切り離してしまっては、俺が好きな歌姫じゃなくなる。
……だからって、危ない目に遭っているのをみすみす見逃す気もないのだが。
「何かあったらすぐ言えよ。そういうの、隠すのはナシな」
「何よ……あんただって、隠し事ばっかのくせに……私にだけそういうこというわけ?」
「だって俺、歌姫と違って強ぇし。偉いし。色々守秘義務あるし?」
「……ッ」
「なあ、ほんと、マジな話、今回みたいなの黙ってんのやめろよ。事後でもいいからちゃんと教えて。もしもの時蚊帳の外にされんのが、いッちばんムカつく」
こうして抱き合っていても、唯一無二と誰より想い合っていたところで、肝心な場面では傍にいられない。万一の時に、真っ先に知らせを受けるのは俺ではない。その事実に、所詮は他人でしかないと、突き付けられるのが腹立たしい。
こんなにも、好きなのに。
間違いなくこれは俺の女なのに、何故、他の奴らに、いの一番に彼女の元へ駆け付ける権利を譲ってやらなくてはならないのか。
ああ。
いっそもう、すぐにでも結婚したい。
そしたら全部俺のものだ。
「はあ……」
「ご、ごめんってば……反省してる、もうしないから」
俺の溜息が余程哀れに聞こえたらしく、慌てた様子で歌姫が言葉を重ねて俺にしがみつく。
そして、言いにくそうにこう言った。
「……本当はね、わかってたの、連絡しなきゃいけないの……いずれは知られることだし。私から、ちゃんと言わないと、って。でも」
「でも?」
「………………馬鹿。わかるでしょ。顔なのよ。……覚悟、決まんなくて」
「……」
「まだ、見られたくなかった」
情けないわ、と歌姫が、蚊の鳴くような声で言う。
俺は軽く眉間に皺を寄せた。
そして、ぐしゃりと制服の胸に皺を寄せる、女の顔を上に向かせる。
「っ」
「歌姫はさあ、俺が、顔で選んだとでも思ってんの?」
「……それはない、けど……でも、ゼロってわけでもないでしょ……」
「そりゃゼロとは言わねえけど。そもそも、こんなちょこっと傷が残ったくらいで変わるような顔じゃねーじゃん。歌姫弱いし、舐められがちだし、箔が付いて寧ろ丁度良かったんじゃね?」
「ッ……。悪かったわね元から大して美人じゃなくて……!」
「……」
そういう意味じゃあ、なかったのだが。
まあ伝わらないだろうな、と思ってはいたので仕方がない。態とそういう言い方を選んだし。流石に俺も、面と向かって、「変わらず綺麗だからちょっと傷が残ったくらい心配いらないし何なら男除けになってどちらかと言えば好都合」なんて教えてやるのは小っ恥ずかしくて躊躇われた。
それに、美人は三日で飽きると言うし。
三つも上にしてはきゃんきゃんと子犬のように可愛いらしい女だったので、大してイメチェンにもならない些細な痕ではあるが、多少瑕疵があるくらいの愛嬌はあってもいい。
詳細な感想と情動は胸の内に秘めたまま、何も気が付かないで怒りに紅潮する頬を撫でる。癒えたばかりの傷を覆った皮膚はあまりに薄く柔らかく、こうして、慎重に触れているにも関わらず傷つけそうなのが少し恐ろしい。
「なあ、これ、痛かった? 今は平気?」
「……もう平気よ、治ったもの。怪我した時のことも、よく覚えてないし。必死だったから」
「ふうん。そお。ならいいんだけど」
「…………ねえ。あんまり、触んないでよ。じろじろ見ないで」
「何で? もう平気なんだろ。てかこのくらいいつもしてるじゃん」
「いつもだってやめろって言ってるじゃないっ。……ていうか、じゃなくて」
嫌なのよ、と少し泣きそうな顔をして、歌姫が呟く。
「こんなもの、見てて、楽しいものじゃないでしょ」
「……」
「あんたが、気にしないって言ってくれるの、嬉しいけど…………やっぱり、可愛くは、ないじゃない……」
そう言って、歌姫は俺の手から逃れるとまた顔を伏せてしまった。
仕方ないので、旋毛の上に顎を乗せて抱え込む。
すると歌姫は、更に深く潜るようにもぞもぞと抱きついてくる。腕の中に、暴れるでもなく大人しく収まる歌姫はいつもより脆く小さく感じられて少し不安になる。
こうして二人きりになる前は以前と変わらぬように振る舞っていたので案外平気なのかと思いきや、どうやら、そこそこ落ち込んでいたらしい。人の服の匂いを嗅ぐようにすんすん鼻を鳴らして、細い指が制服を掴んで引っ張っている。
不謹慎とは思いつつ、顔がにやけていくのを止められない。
「……へえー。歌姫、俺に、可愛いって思われたいんだー?」
「可愛い、っていうか……まあ、そりゃそうでしょうよ……じゃなきゃ付き合ったりしてないっつの。…………ねえ、今は、茶化すのやめて」
「茶化してねえし。感動してるんだし。俺めっちゃ愛されてるぅ」
可愛くないって、一体、それは何の話なのか。
他人の心無い言葉で容易く折れるような根性ではないと知っている。人の目を気にして俯くほど軟ではない。
そんな、人一倍負けん気の強いこの女が、こうして、傷の残った顔を俺には見られたくないと俯いて。他ならぬ俺自身に、離れ難いとばかりにしがみついている。
────ああもう、ほんと、歌姫ってわかってない。
「歌姫って案外乙女だよなー。かぁわいい〜」
「だから、茶化すな、つってんだろが……ッ」
「そんなことしてません〜本心ですぅ〜」
嘘は何一つ言っていない。が、やはり面と向かって生真面目に告げるのは照れるのだ。多少のおふざけは見逃せと言いたい。
しかしこれも日頃の悪さが影響してだろうが、全く気付かれないというのが、それはそれで何とも言い難いところではある。
「……あのさー、俺別に、歌姫がシミだらけのしわしわよぼよぼの婆さんになっても全然好きなままだと思うよ?」
「おいお前ほんとさっきから喧嘩売ってんのかコラ……ッ。私がしわくちゃのババアになった頃には、あんただって、おんなじようなジジイでしょうがッ!!」
「えー。そんなことないと思うけど? 爺さんになっても絶対かっこいいでしょ。俺」
「…………ッ…………あんたってやつはァ……!!」
怒るだろうなとは思いつつ他には碌に台詞が見当たらず、捻り出した末に口に出した言葉はしっかり歌姫の怒りのツボを狙い撃ちにしたようで、胸元に縋っていたはずの手が握り拳のように胸倉を掴み上げて細い血管をばきばきに浮かせていた。こちらを睨む歌姫の目尻は赤く、僅かに涙の痕跡も滲んでいたものの、今さっきまでの湿っぽさはどこにもない。
どうもフォローには失敗したようだが、しくしく泣かれるよりはぎらぎらと目を怒らせている彼女の方がよっぽどいいと胸を撫で下ろす。俺の為に落ち込んだり傷付いたりしている姿は可愛いが、やはり、見続けているのは落ち着かない。
いつか、もっと簡単に、言葉一つ仕草一つであっという間にこの女を笑顔にさせられるような、そういう器用さも身につけられるだろうか。
付き合い出して多少態度が軟化したものの、実をいうと、まだまだ笑った顔にはお目にかかれていない。一瞬浮かべた笑顔もあっという間に羞恥で染まって膨れ面に取って変わるのだ。折角念願叶って恋人同士になったというのに、お互い素直とは言い切れない。
なれる、のかな。今よりも、大人になったら。
あちこち抜けてるくせに相変わらず後輩扱いばかりしてくる三つ歳上のこの女を見ていると、あまり、期待も出来ないのだけれど。
「いちいちヒス起こすなよ。ほんとのことじゃん」
「そんなことで怒ってんじゃないのよッ、何でそんな無意味に自信満々なのよ、本当かどうかなんてまだわかんないでしょ……!?」
「んじゃ、賭ける?」
「は?」
「云十年後に答え合わせしようぜ」
「──ッ」
断言しよう。
お互いすっかり耄碌して棺桶に片足突っ込んだような歳になっていようとも、この女の隣を陣取るのは俺に決まっているし年相応に老けた婆さんだろうとも今と変わりなく愛している。
まあそれも、お互い生き残っていれば、の話だが。
ならばこそ最大限の努力をしよう。生き残る為に死力を尽くす。手は抜かない。何事にも全力で挑む。望む未来を手に入れるのだ。
指切りの代わりにキスをした。永遠の愛を誓うには、これ以上の手段はない。
そう思って触れるだけのキスを落とした俺に、誤魔化されたと思い込んだ歌姫は、顔を真っ赤にしながら唇をもにょもにょさせた後で拳を握り、「あんたのそういうところがきらいなの……!」と物凄く小さな声で怒鳴った。