狐の嫁乞い 鬱蒼と茂る木々の隙間に、大小二つの影が、声を忍ばせ潜んでいた。
「いい? ここ、まっすぐ行くのよ。寄り道しないで。振り返ったら駄目だからね」
「わーかってるって。ったく、子供じゃねえんだから──ッて!」
ぱちん、と小気味良い音が弾けると同時に幼い声が悲鳴を放つ。
赤くなった額を押さえ、恨めしそうに視線を寄越すその瞳は、青い。
それは、見た目には十一、二ほどの少年であった。
絹糸のような白髪に空の色の目をした彼は、あどけない中にも、歳に不相応の傲慢と威圧を覗かせる。
それだけでも十分過ぎるほどに普通ではなかったが、極め付けに、子供の頭には綺麗な三角形をした獣の耳がついており、仕立ての良さそうな銀鼠の着物の端からはふさふさとした尻尾が落ち着きなく揺れていた。
人ではない。化生の類である。
ふんぞり帰る一回りは年下だろうお子様を、目の前にしゃがみ込んだ女が呆れた様子で見上げていた。
「馬鹿言ってんじゃないわよガキが。うっかりこっちに迷い込んで、帰れなくなってたくせに」
「迷ってませんー自分で帰れましたぁー放っときゃ勝手に戻ったのに、余計な世話焼いたのお前だろ」
「ッあんたね……言わせておけば……!」
誰のおかげで命拾ったと思ってんのよ、と小声で吠える女の顔は、右から左にかけて切り裂かれ、顔の半分が血塗れになっていた。
傷は浅く、血も一先ず止まってはいるものの、派手な出血だったこともあって見た目には酷い。きっと、痕に残ることだろう。命はともかくも、容姿ばかりか女としての一生にも、これは大きな疵となるに違いなかった。
子供は、自分を真っ向から睨む彼女を見下ろし、くしゃりと顔を歪めた。
「だからそれが、余計な世話なんだっつの。お前が出しゃばんなくたって、俺一人で、どうとでも出来たし。……こんな傷、負う必要、なかった」
「……」
幼いながらに見惚れかねないくらい整った容姿がぐちゃぐちゃに潰れるのを間近に見せつけられ、ようやく彼女も、乱暴な言葉遣いの裏に隠された後悔に気が付いた。生意気なクソガキだと思っていたが、案外、悪い奴でもないようだ。
ほんのついさっきまで小憎たらしいくらいだったものを、耳を真横に倒して、項垂れるように尻尾を垂らす様はちょっと可愛い。
ふふ、と思わず声を溢す。
「……んだよ。何、笑ってんの」
「べっつに? 子供が気にすることじゃないわ」
「ガキ扱いすんなって!」
「煩いわね。いいからほら、さっさと帰りなさいよ。見つかったら拙いでしょ」
早く、と促して背中を押す。
とんっ、と一歩前にまろび出た子供は、不愉快そうに舌打ちをくれながら二歩、三歩と前を行き、獣道に立ったところでこちらを振り返った。
「……なあ」
「何よ」
「…………お前、名前は?」
ぶっきらぼうに尋ねる様子に、彼女は一瞬面くらい、次の瞬間には噴き出した。
「ふっ……庵よ。庵歌姫」
「ふうん。歌姫ね、俺、五条悟な。覚えといて」
「歳下が呼び捨てにすんな」
「いいじゃん別に」
小馬鹿にしたように鼻を鳴らし、その後で、子供がにかっと笑った。
歌姫、と名前を呼ぶ。
馴れ馴れしい呼び方に眉を顰めながらも、子供らしい明るい笑顔に怒るに怒れず、なあに、と低い声で答える。
奴は言った。
「その顔じゃ、どーせ、嫁の貰い手つかないっしょ。俺がもう少しでかくなったら、責任取って、貰ってやるよ」
「は」
「じゃあな歌姫。待ってろよ」
また、迎えに来る。
晴れやかな声で嘯いて、子供は踵を返した。
咄嗟に追求しようとして、遠ざかる小さな背中に向かって手を伸ばすも、引き止める間も無く白い影はあっという間に森の闇に呑み込まれてしまう。確かに、振り返るな、とは言ったけれど。都合のいい時ばかり素直に人の忠告を実行する小狡さに腹を立てるも、込み上げた怒りの行き場はなく、宙に浮いたままの手をずるりと体の脇に戻した。
「……何なのよ、もう…………」
血塗れで、その場に一人取り残され、ぽかんとした。
────それが、十年前の記憶。
今日も今日とてお勤めである。
変わり映えのしない一日を終えて、夕方、そろそろ帰ろうかと社務所を出た。
社殿の横を抜け、石畳を歩きながら背伸びをしていたところ、かつん、とやけに高く靴音が響くのを聞いた。
「──────」
振り返る。
石の地平と朱塗りの鳥居に切り取られた空に、一つ、人影が浮かんでいる。
男だった。
遠目にもはっきりとわかるくらい、背の高い男だ。夕闇に負けて染まるほどに淡い色合いの髪に肌、一方で纏う衣装の黒は夜よりも余程暗く、両極の対比が圧倒的な存在感を醸している。
しかし、何より異様なのは、顔である。
容姿が全くわからない。何故なら男は、白い狐の面をつけているのだ。
「っ、……」
こくり、と思わず喉が鳴った。全身が緊張して、強張る。身動き出来ない。
不遜にも鳥居の中央を真っ直ぐに潜り抜けた男は、迷いもなく、私の前に立った。腕を組み、品定めでもするように首を傾げ、私を見下ろしてくつくつと喉奥で笑う。
「んな怯えた顔すんなよ。別に、すぐに取って食いやしないし」
低い声が揶揄するように告げる。冗談のつもりなのかもしれないが、その言い方では、後で取って食う予定があるようではないか。何も安心出来ない。
身構えて、腰を、低く落とす。
じり、と下駄の底が砂利に引っ掛かる嫌な音がした。
「…………あなた、何?」
この威圧感。到底、人とは思えない。
臨戦体勢で睨みつけるものの、相手はさして気にした様子もなく、むしろやれやれとばかりに肩を竦めてた。
「何、ってひっでえ言種。歌姫、僕のこと忘れちゃったの?」
約束したのになあ、とぶうたれた声で嘯いて、男が面を解いた。
白い髪が、軽く、宙を戦ぐ。
同じ色をした長い睫毛がゆっくりと持ち上がり、その下から、露わになった眩い青が、私を映してにかりと笑う。
思わず、目を見張った。
その、宝石のような煌めきには、僅かながらに、覚えが、ある。
「な……あ、あんた、もしかして」
「あ、思い出したぁ? 僕だよ僕、悟くんだよ」
言ったろ、迎えに来るって。
節の張った大きな手が、そっと私の顔の傷痕を撫でた後で、奴は笑顔でこう宣った。
「じゃあ早速だけど、歌姫、僕と交尾しよ──────ッてぇ!」
「馬鹿が! 誰がするか!」
神聖な境内で何を言うか。
綺麗に微笑むその横っ面を、金切り声を上げながら思い切り引っ叩いてしまったとして一体誰が私を責めるだろう。