天秤が揺れるのを、ただ、眺めていた。
誰よりも近く。
「……」
自販機横のベンチに腰掛けて、項垂れる長身を見かけた。
トレードマークのお団子もちょろりと飛び出した前髪も心なしか勢いがなく、静止画のように呼吸の気配一つも感じさせない沈黙の様をみて、通り過ぎようとした足を思わず止めた。
らしくないな、と思った。
馬鹿同士で宜しくやっているところを、安全圏からついて回って距離を置いて、怪我した時にだけ都合良く登場するのが私の役割だ。君子危うきに近寄らず。学生の身ながら特級と分類され、規格外に力を振るう悪童共と同じ土俵になんか立っていては身が持たない。私は、反転術式が何となく使えるだけの一般人だ。出来ることは熟すが、決して無理はしない。三十六計逃げるに如かず、この業界で長く生き残るのならば引き際は肝心である。
だけど。
「夏油」
「……ああ。硝子か」
「大丈夫?」
「……」
らしくない。
こんなこと、らしくないなと、繰り返し思う。
限界まで草臥れた顔を、引き攣らせるように笑い、何でもないよと細い目で見上げる同期に眉を顰める。
まだ、何も言わないのか。
いや、言えないんだろう。こいつは今、きっと、一人きりだから。
いつしか、二人並ぶ姿を見かけなくなっていた。
時折戯れ合うのを見かけても、何でもないように燥ぐ馬鹿に合わせて無理に笑っているのが見え見えで。
絶対的な友情と信頼が、聡い男の目を塞いでいる。離れた距離にいた私だから気付いている。このままでは、きっと、遅かれ早かれ折れてしまう。
らしくはないけど、それは────そんなのは、いやだな、と思ってしまったのだ。
「…………しょう、こ?」
「ねえ。ちょっとの間だけ、忘れさせてあげよっか」
「……」
「いこ。夏油」
触れた唇は柔らかかった。
細い目を、見たこともないほど大きく見張って、そのまま動かなくなってしまった男の手を引き、寮の自室へ引き摺り込む。
今この時ばかりはめちゃくちゃにしてくれたって構わなかったのに、意外にも夏油は優しく私に触れた。
「紳士だねえ。モテるわけだ」
「……」
うつ伏せに寝そべり頬杖を付いて、枕に頭を預けたままの男のこめかみあたりを突いた。
夏油は、気まずそうに目を逸らす。
「…………皮肉はやめてくれないか。本当に紳士なら、そもそも誘いに乗ってない」
「かもね。じゃあ、やっぱりクズだ。あはは」
「……」
「ねえ、どう? 善かった? 多少は気が紛れた?」
「…………」
嘘でもうんと言ってくれたなら、きっと、それだけでも私の気は晴れた。
けれども夏油は何も言わず、笑う私にじとりと一瞥を寄越した後で、のろのろとこちらに向かって腕を伸ばした。
抱き締められた。
太い腕も、無断で胸に埋められた顔も、ぴたりと重なる肌はどこもかしこも熱かった。
「夏油?」
「──もう少し、このままで」
「……」
「駄目かな?」
「…………ん。いいよ」
腕の中に抱えた頭を、よしよしと撫でてやる。
すると胸元に、ほ、と息が零れた。ささめくような吐息が直接肌に当たるのが擽ったくて、堪らずに身を捩ると何故か夏油が追いかけてきた。口付けて、組み敷かれる。
もう一度、と言うので、いいよ、と笑った。
「今日は、気の済むまで付き合ってあげる」
「……。優しいね、硝子」
「そう? ただの気まぐれだよ」
本当に優しい人間は、こんなふうに、その場凌ぎの誤魔化しで済ませたりはしないだろう。
────踏み込ませてくれないから、私も、これ以上は踏み込まない。
結局夏油は二回目も馬鹿みたいに丁寧に私を抱いて、暫く眠ると、私の知らないうちに部屋を出て行った。
夏油が、離反した。
意外とも何とも思わなかった。ただ、ああ、もう限界だったかと、失望が溜息とともに零れた。
────やはり、私では、足らなかったか。
当たり前といえばそうなのだろうけれど、その事実に、どうしようもなく落胆する。
「あ、犯罪者だ」
「酷い言い様だな」
雑踏に紛れて現れた夏油は、薄く笑う。
吹っ切れた顔をしていた。
人を、殺しておいて。
守るべきだと唱えた弱者を己の手にかけておいて、晴れた表情をしていた。
そんな顔、いつぶりに見るだろう。
きっともう、迷うのはやめたのだ。間違っていてもそちらを選ぶと決めたのなら、最早、私に引き留める術はない。
「何しにきたの?」
「挨拶だよ。同期だからね、これが最後だと思って」
「……」
「ごめんね。硝子」
あの時と同じ、困った顔で笑って、ばいばい、と軽く手を振る男を引き止めない。その為の力も心も、何もかも私には足りていない。
それでも同期の誼で片割れにすぐ電話で知らせてやった。
携帯電話越しにもわかるほど張り詰めた男が「止めろ」と鬼気迫る調子で唸るのを聞き、つい、笑った。
「やだよ。殺されたくないもん」
────わかっていたのだ。
こんな程度の気持ちで救ってやれるほどの闇ではない、と。
馬鹿な男たちだと、つくづく思う。
それでも、突き放して見捨ててしまうには少々ながら情がある。傍にいる以上のことをしてやろうとも思わないが、傍にいるくらいはしてやらなくては、とも思っていた。
「ッ…………」
「泣き虫」
「……うるさいわね……こんな時くらい、黙ってなさいよあんたは……ッ」
薄暗い教室の中、図体ばかりが大きな男を、見知った緋袴姿の女性が抱き締めていた。
小袖の肩が震えている。細い腕が、懸命に、真っ白な男の頭を抱えて引き寄せて胸の中に仕舞い込もうとしていた。まるで、そうしていないと、そいつまでどこかへ行ってしまうのだと言わんばかりに。
対して男の方はというと、覆い被さるように抱き締める彼女の腕の中、椅子に腰掛けて、脱力して、されるがままになっている。それは、何処へ行こうという気力も尽き果ててしまったからのように見えるし、いきなり柔らかい体に視界を奪われて呆然としている所為であるようにも見えた。
そのうち、おずおずと、大きな手が小さな背中に爪を立てる。
掻き抱く仕草に溢れる嗚咽が大きくなった。
それを見て、ほっとして、その場を離れる。
あいつは大丈夫そうだな、と思った。もう誰も一人にしないと言っていた割には孤独の目立つ野郎だったので、まあ傍にはいてやろうかな、と思っていたのだが。少なくとも、今は手が足りているようである。先輩も一緒にいてくれるのならば一安心だ。少なくとも、私たちの手から毀れていったあちらの馬鹿のようにはならない筈。
「……あーあ」
死別も、離別も、何度繰り返したところで胸が痛む。
次こそは、と思うけれど私の覚悟がどれほどの役に立つだろう。考えるだけでも気が滅入るが、しかし、それでも熟すしかない。
此処にいると、決めたから。
それくらいならばしてやれる。私の身の丈の精一杯を、果たそう。
この先何があろうとも、私は此処で、何でもない顔をして、馬鹿な男たちの帰りを待っている。