何の因果か現在交際中の特級馬鹿は、恥ずかしげもなく「僕、最強なんで」と初対面に自己紹介をかますだけあって本当に忙しい。付き合い始めてそれなりに経つがまともなデートなど指の数があれば足りるし、遠距離も手伝ってそもそも気軽に会いに行ったりも出来ない。電話は少し鬱陶しいくらいの頻度でかかってくるものの、それも仕事が立て込めばぱたりと止み、一ヶ月程度の音信不通はざらだった。
不本意ながらも好き合っており、故に交際を承諾したわけで、仕事優先で放ったらかしにされるのも元より承知の上だった。だから何も文句はない、と言えばそれはまあ嘘になるのだが、仕方がないのもわかっているから面と向かって不平不満を垂れたりはしない。私と会う時間を作るため、相当な努力してくれているのも知っている。なのに、他ならぬ私が、そこにケチをつけるのは違うと思う。
そう、思いはする、のだが。
「…………何で、あんた、いるのよぉ……」
「帰り道だったから」
おはよ歌姫、とベッドの上、私に跨った男がにっこりと笑う。
朝だった。
しゃあっ、と勢いよくカーテンの開かれる音と直後に差し込んだ日差しの眩しさに目を覚ましたのだが、寝惚けて目を擦っている間に不法侵入者に体を押さえられてしまった。無念である。私、朝弱いのに。
欠伸混じりに薄目を開け、無遠慮に人の腹を潰す男を睨み付けると何故だか奴は喉を鳴らす猫のような顔つきになって、涙の滲んだ目元に口付けられた。
戯れる仕草につい、口元が緩む。
寝惚けた頭でお返しに私も奴の頬に唇を寄せて、太い首に腕を回した。
「もぉ……今日、来るって、きいてないんだけど……」
「急に時間できたから。顔見に来た。歌姫、今日休みって言ってたし」
「ん、そう……もしかして、電話、くれた……?」
「んーん、してない」
「……してよ、電話ッ……」
鍵も開いてないのにどうやって入ったのかと聞くと案の定、ベランダから、と返答が来る。いつも通りだ。今回、窓は無事だろうか。
仕事柄すっかり夜型だ。緊急連絡だってさほど珍しいことでもなく、電話を一本くれたのなら、多分起きられた。そうすればそのまま寝ないで待っていたものを。
急に来たからと言って追い返したりなんか、絶対にしない。こんなふうに、わざわざ泥棒のように忍び込んでくる必要なんて何処にもないのだ。
むくれて半眼になる私を五条は可笑しそうに見詰めて、機嫌取りのつもりか、隣に寝そべると瞼の上にキスをしてくる。
「だって、真夜中だったし。起こしたくなかったんだよ」
「今日休みなんだから、そのくらい、いいわよっ…………そんな理由で窓壊される私の身にもなってくれる……!?」
「だからそれは、この前謝ったじゃん。今日は上手くいったから、窓、割ってないし」
「……」
無駄に侵入技術が向上している。馬鹿だ。大抵のことは何でも出来ると豪語するだけはあるが、犯罪紛いの技術など身につけてどうするつもりなのだと問い糺したい。
……というか、私だって、忙しい彼氏が顔見せにわざわざ尋ねて来たんだから、少しでも長く顔を合わせていたいんだけど。尚更起こせと思う。
が。
今は取り敢えず、脇に置くことにする。
「…………そこ。引き出し」
「え? 何?」
「中、開けて。見て。封筒入ってるから」
「……」
べたべたと顔に触れてくる男の頬をぱたりと叩き、ベッドサイドのテーブルを指差す。
五条は怪訝そうにしていたものの、体を起こすと、私に覆い被さるようにして腕を伸ばし、引き出しを開けて手前に放り込んであった茶封筒を引っ張り出した。
「……何これ」
「あげる」
「見ていいの?」
「当たり前でしょ……」
あんたにあげたんだから好きにしなさいよ、とぼやき枕に突っ伏す。顔を伏せた振りでもぞりと動き、垂れて視界を覆う髪の隙間から、じい、と男の様子を窺った。
わざわざ開けていいかと確認を取った割には躊躇いのない手つきで、奴は封の折り目を開くと逆さまにした。そして、ぼとん、と下に待ち構えていた大きな掌に落ちたのは、鈍く光る金属製の鍵である。
私の部屋のものだ。
「合鍵?」
「そうよ……いい加減、夜中でも何でもいいから、ちゃんと玄関から入って来て」
いくらマンションの一階ではないと言っても、いつ来るかわからない男のために窓の鍵を開きっぱなしにしておくのは不用心すぎる。かと言って、人が眠っている時間に突然やって来て力技で家の中に押し入られるのも論外だし。別に隠れて付き合っている訳でもないのだし、夜遅いからとベランダを侵入経路に定める必要はない筈だ。
……まあ、本当は、もっと早く、一度でも窓を壊されるよりも先にこうするべきだったのだろうけれど。
何でもないふりをしながらその実固唾を呑んで反応を窺う私に、五条はぱっと笑ってこう言った。
「くれるの? ようやく?」
「含みのある言い方しないでよ」
「だって歌姫、僕のこと、信用してなかったでしょ」
「…………」
満面の笑顔で、渡したばかりの合鍵をひらひらこれみよがしに揺らす五条から、私は無言で目を逸らす。その通りだ。信用していなかった。それは別に鍵を渡したら部屋をめちゃくちゃにされるとか盗みを働かれるだとかそういう類のものではなく、すぐに別れるかもしれない男相手にそこまで自分を開け渡したくなかったからだ。
好きだ、と初めて言われた時には嘘だと思った。
青天の霹靂と驚くよりは、人の気も知らないで、よくもまあそんな気軽に普段の何倍も質の悪い冗談を言うものだと苛立ち呆れた。本気だなんて到底思えなかった。それまでの五条の言動を振り返っても悪戯と嫌味で殆どの思い出が覆い尽くされており、嫌われている、というのならまあわからなくもないがとても好かれているとは思えなかったのだ。
私は、好き、だったけれど。
遂げるつもりも、告げるつもりのなかったそれを、この男はこうも簡単に踏み躙るのかと怒りが沸いて、だから「付き合って」と言われた時に「いいわよ」と返した。
近いうち、恋人ごっこに飽きて「別れたい」と言い出すだろうこの男を、そらみたことかと嗤ってやるつもりでいた。
……幻滅、したかったのだと、今はわかる。
「まがりなりにも、一年、付き合ったのよ……本気かどうかくらい、ちゃんと、わかってたわよ……」
「けど、窓壊したのに、すぐには合鍵くれなかったじゃん。まだ疑ってたでしょ。どういう心境の変化かなあ〜?」
「………………うるっ、さい、わね……ッ」
しつこくて鬱陶しい。
布団に逃げ込んだ私を追いかけて覆い被さり、耳を噛む男に掴み掛かる。
「文句あるならそれ返せ!」
「やだ。やっと手に入れたのに、返すわけねーだろ」
「ッ」
「……もう、僕のだから。絶対、返さない」
「……」
起き上がった勢いでばさりと捲れ上がった布団と入れ替わりに抱き締められる。長い腕の中にぎゅうと囲われるのは、ぬくぬくと温かな寝床に馴染んでいた体には、少し苦しい。けれどもその窮屈さに、救われるような気もしていた。
恐々と、広い背中に腕を回す。
ますます強く抱き竦められてこのまま潰れてしまうのではないかと思ったが、胸の潰れるような心地にほっと息が押し出される。
怖かった。
これ以上本気になりたくなかったのに、騙されているに決まっていると何度も自分に言い聞かせて、けれども五条ときたらいつまで経ってもネタバラシなんてする気配はなくて。お調子者なのも小馬鹿にした態度も変わらないのに、二人きりで他人の目がなくなれば甘えてくるし甘やかそうとするし、なんてことはない理由で触れたがる。特別大切にされているのが、嫌というほど、身に沁みて。でもそれさえもが罠なのかもしれないと疑いつつ、けれど、全部嘘だとしても、私が素知らぬ振りでだんまりを続けていればこうしてずっと一緒にいてくれるのかと期待をした。
だから一言、大事なことを言えないままで、うじうじしていたのだけれど。
「…………好きよ」
「うん、知ってた」
意を決して、一年越しにこの男の告白に応えた私に、当の五条は何を今更とばかりにあっけらかんと笑った。
「歌姫、自分で思ってるよりうんとわかりやすいよ。頭ん中、割と全部顔に出てるし」
「……」
「だから、僕に、意地悪しようとしてたのも知ってるけど────それはまあ、お互い様だし。ツンツンしてんのも可愛かったから許してやるよ」
「っ」
「……これ、すんごい、嬉しい。また今度、お返しするから」
「…………。うん」
これからもよろしくねと、優しく微笑む五条に頷いて、私からキスをした。