平子先生は追跡される(仮) 時刻は夜九時。平子は一人で夕飯を済ませ、リビングのソファで珈琲を嗜んでいた。それは勿論、先日立ち寄ったカフェから仕入れた珈琲豆を使った至極の一杯である。
常ならばほとんど足音も立てずに帰る筈の平子の同居人——藍染惣右介は、帰るなりわざと物音を立ててズカズカとリビングに入り、形の良い鎖骨が見え隠れする平子の無防備な背中に懐いた。その首筋に顔を埋め、甘えるようにぐりぐりと他者に賞賛されてやまない整った御尊顔を雑に押し付けたのである。
「惣右介、邪魔や。退け」
「嫌です」
至福の時間を邪魔された平子は、容赦無く同居人を煩わしそうに口撃した。
「おっさんが可愛い子ぶったって何もおもんないで」
「……あなたまでつれないこと言わないで」
そう言って腕に力を込める同居人に平子は舌打ちを溢すと、汗ばんで少し湿度を含んだ髪に手を差し入れてぐい、と首元に纏わり付く邪魔者を押しやった。
「しかもオマエ呑んで来よったな? 酒臭いわ」
「僕だって呑みたい時くらいありますよ。あなたが呑めないから、僕は外で呑むしか無いでしょう?」
「呑めるもんなら呑みたいわアホ! くっそ何で俺、今世は下戸やねん……」
そう。平子は今世、生まれてこの方下戸なのである。死神であった時分は、酒をそれなりに嗜み、飲み会にも積極的に参加していたのだが、今世はアルコール自体を身体が拒絶する程、てんで駄目だった。この事実に平子は愕然とし、なまじ酒の美味しさを覚えている分、暫く立ち直れなかったのはここだけの話であり、ノンアルコールの飲み物に傾倒するきっかけとなった。また、平子がカフェイン依存症気味になっているのも、これに起因しているだという。
一方で藍染は今も昔も、酒は付き合いで嗜む程度で、実はあまりアルコール耐性が無い。普段は自らセーブして失敗するような呑み方はしないのだが、稀に部屋に帰った途端に崩れ落ちる事がある。今回はそのパターンであろう。猫被りのコイツらしい酔い方だ、と平子は密かに思っているのであった。
目下の課題は、この面倒な酔っ払いを引き剥がす事である。平子は仕方無く、背中に厄介な重りを付けたままソファから立ち上がり、キッチンへ向かった。その間、従順にも背に回した腕をお腹の辺りで組み直し、平子の歩幅に合わせて付いて来た器用な男にげんなりとしつつ、冷蔵庫に長い間入っていたであろう五百ミリリットルのミネラルウォーターが入ったペットボトルを取り出し、自らに懐く男の頬に当てた。
「!?」
男はあまりの冷たさに驚いて、思わず平子から飛び退いた。素面ならば憎らしい程冷静な男の間抜けなリアクションに、平子は堪らず吹き出し、腹を抱えてその場にしゃがみ込んだ。これでもう酔っ払いに拘束される事は無いだろう。
「酔い醒めたか?」
「……」
一頻り笑い倒した平子は、徐に立ち上がり、側に立つ酔っ払いに真顔で問うた。藍染は少し頬を染めて下を向いた。先程までの酔っ払い特有のとろりとした眦は鳴りを潜め、いつもの理知的な瞳が決まり悪そうに平子を見つめていた。
「その水飲んどき。どんだけ呑んだか知らんけど、今日のうちにそれでアルコール出しとけ」
平子は溜息を吐くと、キッチンを後にしようと一歩踏み出すも、往生際の悪い男が平子の部屋着の袖を摘んで動きを止めた。
「……飲ませてくれないんですか?」
藍染の眼鏡越しの瞳がゆるりとほどける。アルコールで水分を奪われた喉から、少し掠れた声が発せられ、平子は不覚にもドキリとさせられた。しかしそれを悟られぬよう、平子はわざと不機嫌な渋面を作った。
「甘ったれんな、アホな事言いなやボケが。オマエ面倒いからもう寝ろ」
それだけ言い残すと、僅かばかりの拘束を解き、リビングに置いたすっかり温くなってしまった自らのマグカップを回収し、面倒な酔っ払いをキッチンに置き去りにして、平子はそそくさと自室へ避難したのである。
A Drunk AnD A non-Drinker
——そういやアイツ、今日は部活やった筈やけど、何処で呑んで来てんやろ。