平子先生は追跡される(仮) 平子真子には、お気に入りの喫茶店がある。勿論、同居人には内緒である。
勤務地である学校と家を結ぶ沿線のちょうど中間地点の駅にそれは位置する。駅周辺は所謂繁華街と呼ばれる場所であり、常にたくさんの人で賑わっているのだが、そんな喧騒から隔絶された、日のあたるのんびりとした喫茶店。それが此処『Full House』である。
本日は開校記念日と言うイレギュラーな平日休みであった。平子は店の前に足を止めると、マホガニー材特有の明るい木目調の扉を開ける。リン、と扉に取り付けられた鈴虫を模したベルが涼しげに鳴った。
「いらっしゃいませ」
枯竹色のエプロンが印象的なマスターの、耳馴染みの良い落ち着いた声が平子を迎えた。それと同時に、深く煎った珈琲豆の香りとまろやかなジャズの音色が五感に優しく訴えかけている。
「久しゅう。いつもの頼むわ」
平子は迷う事なくマスターの向かいのカウンター席に腰を下ろした。只今の時刻は午後二時を過ぎたところである。忙しないランチタイムが終わり、店内ではゆったりとした時間が流れていた。
他のテーブル席を片付けていた従業員がお冷とおしぼりをさりげなく差し出した。おおきに、と顔を上げた平子は目を見開いて固まった。深く頭を下げてカウンターの中に戻り、後片付けを始めた寡黙な大男を、つい目で追いかけてしまった。
「なァ、あのでっかい奴。新しく入ったん?」
「二ヶ月程前からです。ああ、最近いらしていませんでしたからね。初めてお会いしましたか?」
「そうさな、『今回』は、……初めて見たわ」
あの姿もな、と平子は独り言ちる。『類は友を呼ぶ』とはよく言われるが、まさかこの二人も出会っているとは。本当に心臓に悪い。知らぬ間に結ばれている前世の因果を知らないふりをするのも楽ではないのだ。
そんな平子の心中など知る由もないマスターは、客に最高の一杯を提供するべく、淀みなく手を動かしている。彼のこだわりで厳選した豆から抽出した焦茶色の液体を、褐色の無骨な手が繊細に、品の良いアンティーク調のカップに注いでいく。立ち昇る湯気から芳醇な香りが辺りを漂う。これ、これやで、と平子の思考はあっという間に目の前の珈琲へ注がれた。
そんな平子の視線を感じた店主は、苦笑を浮かべながら完成したカップをソーサーに置き、静かにカウンターへ滑らせた。
「お待たせしました」
平子はいつもの——マスター特製のブレンドコーヒーをじっくりと味わった。澄み切った水面を目で楽しみ、鼻に抜ける香りを愉しみ、アンティークカップに似つかわしい上品な苦さが彼の味蕾を喜ばせた。
「やっぱしマスターの淹れてくれる一杯は格別やわ」
「大袈裟ですね。あなたも日頃、うちの珈琲をご自身で淹れて飲んでいるんでしょう?」
「俺が淹れてもこうはならへん」
平子はもう一度カップに口を付け、ほう、と感嘆の溜息を吐いた後、ゆっくりと店内を見回した。平子の座るカウンターの右側はテーブル席になっていて、様々な客層が珈琲を片手に思い思いの時間を過ごしている。会話を楽しむ者、読書に耽る者、課題をする学生など多種多様である。それらをぼんやりと眺めたり、マスターと他愛無い会話をするのが、平子の束の間の楽しみであった。
「そういや、今流しとんの『Full House』やろ? Wes Montgomery の」
「よくお気づきになりましたね。中古店で偶然見つけたんですよ。まさか店と同じ名前の曲があるとは恥ずかしながら知らなくて。思わず購入してしまいました」
色眼鏡の奥の瞳を伏せ、恥ずかしそうにはにかむマスターの姿を見て、平子は意外そうに尋ねた。
「ほんま? 何や、分かってて付けとるんかと思ってたわ」
「いえ、この店の名前はオーナーが名付けたので。私に権限はありません」
「そか、あんた雇われや言うとったな。それはそうと、ええ曲やろ?」
平子がニヤリと笑って見せると、店主も豊かな黒髪を揺らして力強く頷いた。
「ええ、私はあなた程音楽に明るいわけではありませんが、聴いていて心地良くなりますね。何というか、お客さまの邪魔をしない程度に気分を盛り上げてくれると言いますか」
「せやろ。管楽器中心の馴染み深いジャズもええけどな、この曲みたァにギターをメインで使てる曲もまた良えんよ。響きが柔らかい言うんかな。マスター、ちゃあんと分かっとるやんけ」
平子は嬉しさに再び珈琲に口を付ける。少しだけ冷めてしまったが、味は相変わらず美味しかった。そういえば、とマスターは自身の分厚い唇を不器用に歪めながら、平子に問いかける。
「本日は、どうされますか? 今回良い豆が入りましたよ。そろそろ買い時では?」
「言うやないか。全くあんたも商売上手やなァ。ほんなら貰おか」
「いつもの量で良いです?」
「おん、一緒に住んどる奴が珈琲飲まへんで茶ァばっか飲むもんでな。ジジイかって」
平子は暫く珈琲を楽しみながらマスターとの会話を楽しんでいたのだが、ふと彼が腕時計で時刻を確認すると眉間に皺を寄せて、もうこんな時間か、と不服そうに呟いた。
「そろそろお暇するわ。この近くで待ち合わせしとんねん」
平子は残りの珈琲を飲み干し、忙しいとこスマンけど、さっき言うてた豆包んでくれへん? とマスターを急かした。
「差し出がましいようですが、この近くで落ち合うのでしたら、うちの店を待ち合わせ場所に使っていただいても構いませんよ?」
平子が待ち合わせの為に、この店を慌てて出て行くのは何ら珍しい事では無かった。しかしこの控えめな性格のマスターが、平子に対して意見する事は、彼がこの店の常連になって初めての事だったのである。
平子は予期せぬマスターの言葉にきょとんとしていたが、やっぱしあんた優しなァ、と目を細めた。
「俺な、この店ほんまお気に入りやから。今んとこ、誰にも知られたないねん」
平子は申し訳なさそうに微笑んで席を立った。
一方でマスターは自らの発言で相手の気分を害していない事が分かり、内心で胸を撫で下ろしていたのだった。
「何と言うか、光栄です。またいつでもいらしてください」
マスターは平子の為に手早く持帰用の珈琲豆を包み、勘定を済ませた。ありがとうございました、と挨拶をする彼の特徴的なドレッドヘアが俯いた折に見え隠れする。
「おおきにな、また来るわ」
東仙要サン、と振り向きざまに平子は、様々な思いを抱えながら、前の記憶を持たないマスターの名前を呟いた。
——ほんまのとこは誰にも、言うより藍染に知られたないだけなんやけど。
Full House ~afternoon edition