【サイナルモノ】全ては君の為に 突然、何者かの襲撃を受けて焼かれたヤライカナの集落を脱出してから、ホロケゥカナはテテラカナを背負い、深い森を彷徨っていた。
彼自身も、あまり集落を離れたことは無く、土地勘など無きに等しい。しかし、集落を襲った者たちに見付かれば、どうなるか分からない。できる限り遠くに逃げなければ、と、ホロケゥカナは必死で走った。走りながら、ホロケゥカナは背中にしがみついているテテラカナの身体がひどく熱を持っているのに気付いた。
テテラカナは熱に浮かされながら、時折うわ言のように両親の名を呼んでは泣きじゃくった。こんな状態が続いたら、彼女はどうなってしまうのか……ホロケゥカナは胸が押し潰されるような感覚を覚えた。
「大丈夫だ、死なせない」
ホロケゥカナはテテラカナに向かって何度も声をかけた。彼女を励ます意味もあったが、ホロケゥカナにとっては自分自身を奮い立たせる為の言葉でもあった。
食べられる果実の成った藪や、綺麗な水の湧く泉を見付けては、ホロケゥカナはテテラカナを休ませた。
「テテラカナ、この実はよく熟れていて甘いぞ。少しでもいいから食べろ」
ホロケゥカナが採ってきた果実を差し出すと、テテラカナは弱々しく頷いて、それを受け取った。彼女の様子に、ホロケゥカナは違和感を覚えていた。テテラカナは幼いながらに聡明な少女であったが、今の彼女は年齢よりも、ずっと幼さを感じさせた。一夜にして家族と住処を失った衝撃で、精神に変調を来しているのかもしれない、とホロケゥカナは思った。
やはり、テテラカナの為に人のいるところへ行かなければならないと、ホロケゥカナは考えた。
大きな集落や街に行けば、医術や薬の知識のある人間が存在する可能性は高いだろう。
それからも一昼夜ほどの間、ホロケゥカナはテテラカナを背負い森の中を走り続けた。やがて木々の間隔が疎らになってきたかと思うと、彼の眼前に平原と、長い間に踏み締められたと思しき道が現れた。既に陽が落ちかけており、西の空は橙色に染まっている。この道を辿れば、どこかの集落か街に辿り着けるかもしれない。
と、ホロケゥカナの鼻が、何か物の焦げる匂いを捉えた。自分たちの他に人がいるのだろうか……そう思って周囲を見回した彼の目に、遠い丘の向こうで煙が上がっているのが見えた。
人家があるのかもしれないと、ホロケゥカナは煙の上がっている方向へと足を進めた。
煙を上げているのは、野営している者たちが夕餉の仕度をしている焚火だった。
ホロケゥカナは、傍にあった岩の影から、その様子を伺った。
停められている数台の幌が付いた荷馬車の周囲で、男女入り混じった十数人ほどの者たちが、忙しく立ち働いている。殆どの者が武装していないところを見ると、彼らは軍隊などではなく一般人──おそらく、隊商か何かだと思われた。
その時、ホロケゥカナの背で微睡んでいたテテラカナの身体が、ぴくりと震えた。
「……おとうさん……おかあさん……!」
テテラカナは小さく叫んで、泣きじゃくり始めた。集落が襲われた時の夢でも見たのだろう。
彼女の声で、野営していた者たちも、ホロケゥカナの存在に気付いた様子だった。一行は、彼に対して怪訝そうな視線を向けた。顔に傷のある、薄汚れた大柄な男と、どう見ても血縁ではない泣きじゃくる幼女──事情を知らない者たちからすれば、不穏な状況を想起させることに、ホロケゥカナも気付いた。
何と説明すべきなのか……ホロケゥカナが考えあぐねていると、一行の中から一人の男が近付いてきた。
「お困りのようですね」
男が、よく通る澄んだ声で言った。彼は思いの外、若い男だったが、ホロケゥカナの目には、どこか多くの経験を重ねてきた人物のようにも見えた。
「あぁ……そうだ」
油断なく身構えながら、ホロケゥカナは答えた。男からは敵意など微塵も感じなかったが、相手は見ず知らずの人間だ。万が一、テテラカナに危険が及ぶなら、即座に離脱するつもりだった。
「その子、具合が悪そうですね。ちょっと見せてくれませんか。私は、少しですが医術の心得があります」
そう言われ、一瞬迷ったものの、ホロケゥカナはテテラカナを抱きかかえるようにして、男に見せた。
男がテテラカナの手首を取って脈を測ったり、首の周囲に触れたり、瞼の裏や口の中の粘膜を観察したりする様は、確かに医師のようだった。最初は見知らぬ人物に怯えた様子を見せていたテテラカナも、男が危害を加えようとしている訳ではないことを悟ったのか、徐々に落ち着いてきた。
どこか痛いところはないかと男に尋ねられ、テテラカナは首を振った。
「大まかに見ただけですが、器質的な異常は見られないようです。おそらく、この子の熱は心因性のものでしょう」
男の言葉に、ホロケゥカナは首を傾げた。
「シンインセイ?」
「病は気からと言う通り、精神が弱ったり痛めつけられたりしても、人間は身体に異常を来すのですよ。何か深い事情があるようですが、とりあえず、その子を寝かせてあげましょう」
言って、男はホロケゥカナに付いてくるよう促した。
テテラカナは病気になる程に心を痛めていたのだと、ホロケゥカナは唇を噛んだ。
男の指示で、荷馬車の中に簡易ではあるがテテラカナの為の寝床が作られた。毛布に包まって横たわるテテラカナの傍に、ホロケゥカナは付き添った。テテラカナは潤んだ目で、ぼんやりとホロケゥカナを見上げた。ホロケゥカナはテテラカナの頭を撫でながら、少しでも彼女に安心して欲しくて、ぎこちなく微笑んでみせた。
その様子を見ていた男が言った。
「我々は隊商をやっていましてね。私は、隊長を務めているモモセといいます。差し支えない範囲で構いませんから、事情を聞かせてもらえませんか」
「俺はホロケゥカナ、この子はテテラカナだ」
ホロケゥカナは、自分たちがヤライカナの集落に住んでいたこと、その集落が突然何者かに襲われ焼かれる中、何とか逃げ出してきたことを、モモセに話した。
「……つまり、あなたたちは行くところが無いという訳ですね」
「そうなるな」
答えながら、ホロケゥカナは小さく溜息を吐いた。
「どうでしょう、あなたたちが良ければ、我々と一緒に旅をするというのは」
モモセの言葉に、ホロケゥカナは目を見開いた。
「我々は商売柄、あちこちを移動しますし、そのうちに、お二人の落ち着き先が見付かるかもしれません。もちろん、ホロケゥカナさんには何らかの仕事をして貰うことになります。その代わり衣食は保証しますし、多くはないかもしれませんが報酬も別途出します。悪い話ではないと思いますけど」
モモセの申し出は、ホロケゥカナたちにとって願ってもないことであるのは間違いない。しかし、あまりに都合のいい話に、却ってホロケゥカナは戸惑った。
「なぜ、あんたが見ず知らずの俺たちに対して、そこまでしようとするのか聞きたい」
ホロケゥカナが問うと、モモセは毛布に包まっているテテラカナに目をやり、微笑んだ。
「なに、あなたたちの様子を見ていたら放っておけなくなっただけです。それに、ホロケゥカナさんは体力もありそうだし、できることも色々あるでしょうから、こちらにとっても利益はあるのですよ」
自分だけなら、草の根や木の実を齧り、野生の獣を狩ってでも生きていくことは可能だとホロケゥカナは思った。だが、テテラカナには人間らしい、まともな生活をさせてやりたかった。会ったばかりの、このモモセという男を完全に信用したとは言えない。しかし、世の中の道理もよく分からないままである今の自分は、彼に頼る他ないのだと、ホロケゥカナは腹を括った。
「……分かった。あんたの言葉に甘えさせてもらうことにする。俺にできることなら、何でも言ってくれ」
「では、契約成立ということですね」
ホロケゥカナの返答を聞いて、モモセが言った。
と、馬車の出入り口から、失礼します、と女の声が聞こえた。人の好さそうな中年の女が、湯気を上げる具沢山な汁物の入った椀を乗せた盆を持って、馬車の中に入ってきた。
「食事をお持ちしました。モモセさんも、こちらで?」
「ありがとう。うん、私もここで頂こうかな」
モモセは、女から受け取った椀と、何かの粉を練って焼いたものをホロケゥカナに渡して言った。
「それは、汁に浸けて食べると旨いですよ」
「……ありがとう」
ホロケゥカナは、以前テテラカナに「人に何かして貰ったら、お礼を言うのよ」と教えられたのを思い出し、礼を言った。
「その子には、私が食べさせるから、心配ないですよ」
女は、そう言うと、テテラカナの半身を抱き起して自分の身体に寄りかからせた。
「あなたのは、食べやすいように、お粥にしておいたからね。さ、口を開けて」
粥を一匙すくって、女はテテラカナの口元に近付けた。テテラカナは目の前に差し出された匙と、女の顔を不思議そうに見比べている。
「テテ、大丈夫だ」
ホロケゥカナが声をかけると、テテラカナは安心したのか口を開けた。赤ん坊に食べさせる時のように、女は一匙ずつ、テテラカナの口に粥を運んだ。
ホロケゥカナも、渡された椀の汁に、練った粉を焼いたもの──彼の脳裏に「包(パオ)」という言葉が浮かんだ──を浸して食べてみた。汁にはヤライカナの集落では使われていなかった香辛料が入っており、彼は、それに何故か懐かしさを覚えた。そして、久しぶりに人間らしい食事をした所為か、ささくれ立っていた気持ちが落ち着くのを感じた。
「今日の夕食には、この辺りでは珍しい、西方の香辛料を使ってみたんですけど、口に合ったかしら」
女が、テテラカナに粥を食べさせながら言った。
「……どこかで、食べたような気がする味だ。旨い」
ホロケゥカナの言葉に、女は満足そうな笑みを浮かべた。
「あなたも、話し方などから見ると、この辺りの人ではないようですが……」
モモセが口を挟んだ。
「俺は、深手を負って森で倒れていたところを、テテラカナに発見され助けられた。その前のことは覚えていないから、自分が何処の誰なのかも分からない」
ホロケゥカナが答えると、モモセは、なるほどと頷いた。
「俺が今こうしていられるのは、テテラカナのお陰だ。だから、俺の全ては彼女のものだ。テテラカナの為であれば、俺は何でもする」
誰にともなく、ホロケゥカナは呟いた。