一番星を求めて ──星を見ました。異界の侵食の先に、一等輝く星を見ました。
白い壁紙、白いベッド、白いカーテンに、大きな窓。そこから差し込む淡い光が、寝台に力無く横たわる白い男を照らしていた。腕に管を繋ぎ、電子音が響く部屋で、微かに上下する胸が男の生存を伝えてくる。
死体のように変わり果てたレクイエム・白が、そこに居た。
かちゃん、と部屋の扉が開かれると、真白い部屋にぽかりと浮かび上がるような金の装飾の黒いジャケットを肩にかけた男がトランクを片手に入ってくる。白いメッシュの入った黒い髪を束ねた神経質そうな男は、寝台の横に立つとトランクを傍に置き白い手袋を嵌めた手で点滴のクレンメを調整する。
男の名はイソップ・カール
またの名を〈翻弄者(trifling with)〉
翻弄者は白の体をするすると手を滑らせて念入りに見分していく。脚、腹、腕、そして顔、と翻弄者の手が頬に触れたと共にひくり、と白い目蓋が震え、血の色をした虹彩が顔を出す。しかしそれは何も映しておらず、ただ虚に空を見ている。
「……たすけて……うじん……」
薄く開かれた唇からほとんど吐息のような言葉が出た。異国の、行ったこともない故郷の、言葉。翻弄者は一瞬不思議そうな顔をし、異国語であると合点がいったのか、同じ言葉で返す。
「はい、白さん。……いいえ、謝必安さん。范無咎さんは貴方の祈りを聞き届けました。彼の依頼で私があの地下牢から貴方を連れ出しました。范無咎さんは貴方を助けました。安心してください」
血の色が、翻弄者を捉える。瞳孔がゆるりと開き、白が微かに身じろぐ。黒い髪、白いメッシュ、青いシャツ、黒い服。死にかけの彼の目に一瞬だけ、何よりも愛しいたったひとりの神が映った。目の前にいる人物が自らの神ではないと理解すると、白はゆったりと目蓋を閉じてゆく。
「……かれは」
「死にました。鉤爪の彼に切り刻まれて。死者への冒涜です、あんなの」
目を軽く伏せていた翻弄者はハッと顔を上げると、ゆるりと目を細めて薄く笑う。
「大丈夫です。貴方は私が完璧にお見送りします。外見を取り繕うのは得意です。任せてください。良き旅を貴方に」
「……なぜ」
翻弄者は寝台横の椅子にジャケットを脱いで腰掛けると左手袖を軽く捲り、脚を組み口を開く。
「お喋りをご所望ですか?ええ、構いませんよ。『なぜ』とは何に対してのものでしょう?私の仕事に対して?それとも依頼に対してでしょうか?ああ、構いません。そのまま。楽にしてください。順に話しましょう。会話はあまり得意ではありませんが一方的に喋るのは嫌いじゃないので……」
身じろぐ白を片手で制し、翻弄者は静かな目で額にかかる乱れた白髪をそっと整えると口を開く。
イソップ・カールにとって他者とはその須くが全身全霊を持って見送るべきものだった。そこに主義主張も、人の善悪も関係なく、自身がそういう機構であると理解していた。その手で見送った命はあまりにも多く、世間は彼に“大量殺人者”のラベルを付け遠ざけたので、人間社会の中でイソップは孤立していった。もはやイソップは大人にならず、透明になったロストボーイだった。そんなときだ、“C”が彼を拾ったのは。
“C”は良くも悪くもイソップを縛りつけはしなかった。重要なのはイソップの技術であり、人格はどうでもよかったのだ。イソップはそれがなんとも心地良かった。自分の技術に自信を持っていたし、それを咎められるどころか必要とされるこの穴ぐらが大好きだった。暗く静かな地の底も、新しい名前も、彼はお気に入りだった。彼は人でなしだった。見送るという行為に必要なもの以外を全て削ぎ落とした化け物だった。それに拍車がかかったのは、とある任務に原因があった。
星を、見たのだ。異界の侵食の先に。アーミラリースフィアの中に揺蕩う星を。それを愛し気に抱く星を。たった一瞬のことだった。体を蝕む侵食に呑み込まれる刹那の謁見だった。その一瞬でイソップ・カールはその星に目を奪われてしまったのだ。
あれを見送るのが自らの使命である。
それに囚われてしまった翻弄者は、侵食を逆に喰らい、あろうことかその力の一端を無理矢理に手に入れた。あの星へ辿り着くために。翻弄者は目的のために手段を選ばなかった。異界に渦巻く本来ならば人を死に至らしめる狂気を飼い慣らし、自分の体の許容値を無視して侵食を喰らいに何度も異界に触れた。そうする内に、やがて翻弄者は本当の意味で人でなしになった。
「一目惚れというものだったのでしょうか、ただただあの星が眩しかったのです。あの星を追いかける内に、不思議な手紙をもらいました。私に手紙を書くようなひとが居るだなんて信じられなかったけれど、中身を見て納得しました。謝必安さん、平行世界というものを信じますか。私はこの手紙で信じるようになりました」
翻弄者はベストの内ポケットから赤い封蝋のついた羊皮紙の封筒を取り出す。血の色がそれを捉えるとゆるりと瞳孔が開き、白はか細くそれ、と呟いた。
「エウリュディケ荘園。数多の世界を束ねる、世界の終わり。そこで行われるゲームに参加しているとある人物の“衣装”に、どうやら私が選ばれたようなのです。私は彼の、“イソップ・カール”の記憶を見ました。彼は疑う余地もなく、私でした」
ゆるり、と唇が柔らかく弧を描く笑みを翻弄者は浮かべる。人形のようにやや不自然に上がる口角に、白はほんの少しだけ目を細めた。
「私は異界と繋がっています。そして異界は何処にでも覗き穴を作るんです。世界の終わりだろうが。そこで、彼らを見ました。きっと貴方も見たのでしょうね。“白黒無常”という冥府の神に似た成れの果てを。直感的に解りました、あの星はこの成れの果ての“衣装”だと。そして、貴方たちも」
きろり、と光を通さない翻弄者の目が力無く横たわる白い男を見る。口角だけを上げて笑みを作る翻弄者は手袋越しに白の首に触れ、ほんの少しだけ力を込めた。僅かに気道を塞ぐ指を退かすことも叶わずに、白の喉は掠れた音を立てる。
「貴方たちからあの星に繋がると思ったんです。これが私の『なぜ』の理由です。縁というものは何処から繋がるかわかりませんから。本当はお二人ともお見送りしたかったのですが、銀鎌は用心深くて連れ出せるのは一人でした。だから接触できた范無咎さんに言いました。『一人だけはこの地の底から連れ出す。どちらが来るかは貴方たちが決めてくれ』彼は最初拒否しました。酷く怒ってらしたのですが、私にはよく分かりませんでした。自分か大事な人が安らげる場所に行けるというのに……不思議ですよね。けれど、時間を置いて状況や気持ちが変わることもあるでしょう?だから近くの同僚を紹介したんです。覗き穴をつけて私は待ちました。彼が現れたときは本当に嬉しかった。急いで彼の元に向かいました。異界の窓でショートカットして。変装も忘れて行ったものですからきっと酷く驚いたと思います。彼が選んだのは貴方でした」
嬉しいですね、と翻弄者は込められていた力を抜き、手を離す。けふり、と白は弱々しく咳き込み、虚ろな赤を翻弄者に向けた。視線を受け止める翻弄者は人形のようにニコリと笑うと、ぱん、と軽く手のひらを合わせ声色だけを楽しそうにさせて再び口を開く。
「さて、今後の予定についてお話しますね。まずは貴方の身体をできるだけ取り繕います。主に外見を。ご心配なく、ここ数年の貴方の顔は記憶しています。背丈がとても高いので、棺が特注になります。申し訳ありませんがこれに時間がかかりそうです。あとほんの少しお待ちください。材質やデザインに希望があれば今のうちに。あとは副葬品がありましたらお預かりします。何かご質問は?」
「……ころせ……」
「いいえ。ご質問がなければこちらからの説明は終わりです」
翻弄者は白の乾いた唇から溢れる願いを却下した。椅子の背凭れにかけたジャケットを手に取ると立ち上がり、翻弄者は肩にかける。翻弄者は血の通わない真っ白な顔で白を見つめ、口元だけで微笑んだ。
「少し眠ってください。なんだかんだ睡眠が一番身体を修復します」
翻弄者は白い手袋に包まれた手を白の目元に伸ばすと、そっと覆う。その瞬間白の身体と白の生存を知らせる電子音がほんの一瞬、電気が流れたように跳ね上がり、白は動かなくなった。翻弄者は軽く呼吸を確認すると点滴のクレンメをもう一度調整してからトランクを持ち、白い部屋を後にした。
◇
「『異界』?」
「そう、危険なところさ」
リーズニングはソファに凭れながら片眉をキュッと上げてイライを見る。ファンタジーじゃあるまいし、と思いつつも、先程ファンタジーのようなやり方でこの場所にやって来た身としては、リーズニングは信じる他ないのだった。
「以前僕はそこに赴いたことがある。そのチームにいたのが翻弄者……イソップ・カールだ。彼は異界に渦巻く狂気を上手く飼い慣らしていて、彼の技術のおかげで僕らは今日も生きている」
「マ、でも異界にハマって人間辞めたって聞いたけどな。元々人間離れしたような奴だったけど本当に辞めたか〜って笑ったのを覚えてる」
イライが苦い顔で溢すと、クレスは口の端を少しだけ上げてハン、と鼻で笑う。リーズニングは「翻弄者とやらはクレスにだいぶ嫌われているようだ……」と頭の中のボートに付箋を貼り付けて、マグカップを手に取ると珈琲に口をつける。
「…………わたしは神という存在を肯定した上で自分の都合の良いように解釈している」
ふかふかのテディベアを抱きながらバルサーはポツリと溢した。カウンターの前の椅子からこぼれ落ちて床にでろりとほとんど横たわるように座り込むバルサーは明後日の方向を見て続ける。
「世界には層が存在する。我々が生きる世界と、神の世界だ。この二つは本来干渉しない。しかし、神の側からのみ条件付きで干渉が可能であると考える。例えば、永久機関、黄金比、自然に出来たとは思えぬほど精巧なものがこの世にはたくさんあるだろう?結晶だってそうだ。科学だって、美しい数列だって、神がもたらしたものであると考えている。神は美しいものを寄越しはするが、救いはしない。そして『異界』とは、大まかに分ければ神の世界だ。でも『異界』はズルをする。人間の狂気を使って無制限にこちらに干渉してくる。小賢しいのが『異界』の狂気はこちらに『救われている』と勘違いをさせる。実際のところキャパを超えた情報にぶっ壊されているだけだというのに、ありがたい神様が自分を救いに来たのだと脳が勘違いをする。そんな存在をミュージアムにした馬鹿たれがいてね。それを摘発しに行ったのがクインテットくんのチームというわけさ」
「おお、復活したな」
「おはよう、バルサーさん。僕の名前はクラークですよ」
「あぁ、すまない、クランクくん」
まだボヤボヤと眠そうに瞬きをするバルサーに、イライはうーん、今日一番に惜しい!と悔しげに声をかけた。リーズニングが聴いた中でも一番惜しかったので、リーズニングも片側の口角を少しだけ上げてフ、と笑う。
「と、まあこんな感じで彼はこっちの常識が通用しないのさ。ご理解いただけたかな?」
「あぁ、おかげさまで。しかし……レクイエムの行方を調べるにあたって最も情報を持っている人物だ」
「そうなんだよね」
イライはふうむ、とソファの背に凭れ顎を撫でる。手に持った煙草を吸って、ぷかりと煙を吐き出した。
結局のところはそうだ。リーズニングの『レクイエム、及びエージェント・ウィラの行方の捜索』という目的において、有力な情報を引き出せそうな者は彼において他ならない。だが、その性質に難があると来た。
「翻弄者……会ってみないことにはな……」
「そもそも彼って神出鬼没だから今どこに居るかは知らないんだよね」
リーズニングは眉間にシワを寄せてイライを睨みつける。
「おい、会えないこともないって言っていたのはなんだったんだ」
「人探しが上手いエージェントがいるのさ」
イライは柔らかく微笑みながら傍らの梟を撫でた。ふかふかの羽毛を流れにそって、身体に見合う大きな手のひらでゆったりと撫で付ける。うっとりと目を細める小さな梟はふるりと頭を揺らすと、イライの指をかしかしと柔らかく噛み、小さく鳴いた。
リーズニングは片眉を上げて片目を小さな眼帯で隠す梟を見る。
「人の顔の見分けが梟に付くのか?」
「付くとも。彼女はそこらの人間よりもずっと賢いよ。ねぇ?」
問いかけに応えるように小さな梟は透き通る声で鳴いた。