寝言「……さくら」
聴こえてきた名前に酷く驚いた。なにせその名前の人物は、窓際の日当たりが良いぽかぽかの席で机に突っ伏す杉下京太郎とは犬猿の仲と言える人物であるからだ。桐生はソッとスマホをスリープにしてそろりと杉下の席の横にしゃがみ込むと、ジッと耳を傾ける。スウスウと穏やかな寝息が聴こえるだけで桐生はフ、と息をついた。
「(サクレ、だったかもしれない……今日あったかいし……アイス食べたかったのかも……)」
すっくと立ち上がり、桐生は定位置の教室の一番後ろに回れ右をする。その拍子に空気が揺れたのかピクリと杉下の目蓋が震え、むずがる声を上げながらもぞもぞと頭の向きを変えた。
「ン……さくら」
「……何がサクレか、ばっちり『桜』じゃん」
桐生はセルフで数十秒前の自分にツッコミを入れる。まあまあ普通の声量が出てしまったがしかし、杉下は眠りから覚めることなく眠り続けた。
「夢にまで見るとは……仲が良いのか悪いのか……」
「悪いよりかは良い方がいいんじゃないかな?」
「およ?」
いつの間にやら隣に人がいる。サラリとピアスのタッセルが揺れたと思えば、にこにこと微笑みながら杉下に近づいて蘇枋は杉下の髪をすくって三つ編みを始めた。桐生は呆れ顔で肩をすくめる。
「あーあ、またやってる……」
「だって触り心地いいんだもの」
「それはちょっとわかるけどぉ……」
「何やってんだ」
「「あ」」
現れたのは件の人物、桜遥であった。桜は二人の顔を見て不思議そうな顔をすると、スイ、と視線を下ろして杉下を見る。わずかに目を細めると、杉下を刺激しないようゆっくりと二人に近付いた。片眉を上げて状況の説明を求める桜にくふくふと蘇枋が笑う。
「夢を見ているみたい。杉下君寝言言ってるんだよ」
「かあいいね〜」
「ふうん……」
蘇枋がすくい損ねた髪が一房頬を渡っている。桜はするりとそれを耳にかけてやった。肌が触れたのか、杉下の目蓋がピクリと痙攣すると、大きな手が桜の手を捕まえる。これに驚いたのは桐生や蘇枋の方で、起きて喧嘩が始まるかと身構えていればなんとまあ穏やかな時間は流れ続けたのであった。桜はフ、とかすかに口を緩め、捕まった手と反対の手で優しく蘇枋の悪戯を解き、杉下の髪を梳いてやる。
「……梅宮と喋ってるよな」
少しばかり呆れたような、寂しそうな、柔らかい表情をしていた。二人は顔を見合わせ、我がクラスのツートップがまた何かすれ違っている気がする、と軽く頷き合う。桐生がススス……と桜に寄ると潜めた声で「あのね……」と囁いた。
「桜ちゃん呼んでたよ」
「え」
「もう間違いなく『桜』って呼んでたよ」
「オレも聴いたことあるよ、桜君を呼ぶ杉下君の寝言」
桜の頬が途端に色づく。動揺に勘づいたのか杉下が身じろぎ、薄っすらと目蓋を上げる。眠たげな視線と動揺しきった視線が絡み合うと、杉下は軽く桜の手を引いた。小さく漏れる桜の吐息を喰らおうと杉下の唇は桜を近づけることで距離を詰める。がたん、と椅子が鳴る。ドクドクと鼓動が速まり、瞳が動揺に揺れ、接触に備えて桜はギュウ、と目蓋を閉じた。
「コホン」
聴こえてきたわざとらしい咳払いにギク、と二人は中途半端な体勢で固まる。桜が目を見開きいっそうブワリと顔に熱を集め、杉下の手を振り払う。
「違うからな!!」
「何が〜?いやぁいい天気だねぇすおちゃん」
「ほ〜んといい天気だねぇ」
「違うっつってんだろ!!」
杉下はギャンギャンと真っ赤な顔で弁明をする桜を拗ねたように見つめる。ひとつ舌打ちを落とすと、ぽかぽかと暖かな日差しの当たる窓辺でまた腕を枕に突っ伏した。腕の中で小さく小さく発された春の花の名は、今度は誰にも聴かれることはない。
寝言 了