水差しの中身を満たした帰りだった。
夜明け間近なのか廊下は薄明るく、灯りを持たず、来た道を引き返していたイソップは自室の前で立ち尽くす人影に息を呑んだ。
こんな時間に起きてる人なんていないはず。
「…………な、にを」
「……何も」
すぐに誰か分かった、他でも無い恋人だったから。
しかし、いつもより軽装の彼は……
頭から爪先まで水浸しに見える。
「……濡れてる」
「水、被ったから」
「どうして、」
甘い香りが鼻についた。
何度か嗅いだことのある匂い。
「……そんな顔しないでよ」
どんな顔だろうか。
どんな、顔をしてしまったのか。
「……中に入ってください」
「いや、そんなつもりじゃないし」
そんなつもりじゃ無かったら、どうしてこんな時間に、そんな状態で、僕の部屋の前に立ち尽くしているのだろうか。
「……このまま貴方を帰すわけにはいかない」
「は、すごい口説き文句」
きっと、自室に戻っても彼は着替えようとはしないだろう。
それくらいは、イソップにも予想できた。
ノートンの手を取り、部屋の中へ引き入れた。
水差しを置くため、そのままベッドの側へ。
ランプが灯った部屋の中は幾分か明るく、黒い髪から雫が滴っているのが良く見えた。
イソップはクローゼットからタオルを手早く取り出し、彼の額から順に、丁寧に水分を拭っていった。
ノートンは、じっと、されるがままになっている。
……何か言うべきか。
思案に余りながら髪を拭いていると、長いまつ毛がゆっくり持ち上がり、こちらをぼんやり見つめた。
黒檀の瞳がランプの灯りで揺らめく。
目を、逸らすことができない。
浅く、ゆっくり、息を吸い込むと、鼻腔いっぱいに甘い香りが満ちて、頭が少し、クラクラした。
惹かれるように、鼻先を近づけていく。
唇が触れる、……すんでのところで、冷えた手がイソップの口元に当てられた。
「…………だめ」
泣きそうな顔をしているノートンを見て我にかえった。
「どうして」
「分からないの」
分からない。
予想出来ても、それは予想でしかない。
「どうしてか、教えてください」
彼の口端がきつく結ばれる。
火傷の引きつれも相まって、辛そうに見えた。
「……お願い、ノートン」
このままでは帰せない。
懇願する思いで彼の手を握った。
手荒れでざらついた手を、努めて優しく、逃さないよう。
目が離せない、離したらいけない気がして。
先に目を逸らしたのはノートンだった。
「……臭いでしょ、僕」
彼は少し後ろへ下がったものの、手を振り払いはしなかった。
「……ヒートの、匂いのことでしょうか」
小さく鼻で笑うのが聴こえた。
「嫌いなんだ、ヒートも、匂いも、抑えられない自分も」
灯りとは反対へ顔を背けてしまって、表情がよく見えない。
彼の手から震えが伝わってくる。
「嫌っても、どれだけ水を被っても、どうにかなるものじゃないのは良く分かってるけど……さっきの君を見て、やっぱりヤダな、て、……」
尻すぼみになっていく独白をただ静かに、慎重に聴いた。
握り返された手が痛い。
「オメガじゃ、なくて、僕を抱いてよ、僕じゃないと、いやだ」
初めて聴く、彼の泣きそうな声。
きっと、この手を離してはいけない。
「…………僕は貴方以外と、番うつもりはありません」
「……」
「……抱きません、その為に、貴方を部屋に入れた訳ではありませんから」
「じゃあ、どういうワケ?」
「……風邪を、引いてしまうと思って、」
はた、と。彼の前髪の隙間から雫が落ちた。
「それだけ?」
拍子抜けと言わんばかりの声だ。
「……ずぶ濡れで、僕に会いに来た貴方を、このまま帰してはいけないと、思いました」
あぁそうだ、彼の体は冷えたままだ。
掴まれた手をそっと握り直し、ノートンの手を引いて、イソップは浴室へ入った。
蛇口を捻り、お湯を出しながら、以前にノートンが置いていった服を思い出す。
「使ってください、着替えは用意しておきます」
浴室を出ようとするも、繋いだ手をとかれることはない。
「あの……?」
「……ごめん、」
「はい?」
「八つ当たりみたいなことして、……我儘言って、」
思わず首を傾げた。どちらも心当たりが無い。
確かに、互いに慣れないことをしているとは思う。
「大丈夫です、喧嘩した時に比べれば、全然」
なお手を離そうとしないノートンの顔を覗き見た。
まだ始まりたてとはいえ、ヒートが辛いのか、ふぅふぅと息をしている。
ふと、他のサバイバーから聞いた話を思い出した。
「ノートンは巣作りをしますか?」
「え?」
「オメガ性の方は、番の持ち物で巣作りをすることでホルモンバランスの乱れを抑えると、聞き齧ったことが」
「そうなんだ?」
反応からして、ノートンにとって巣作りはあまり馴染みがないらしい。
それならば。
「……作って、みますか?」
イソップが提案すると、ノートンは一瞬だけ惚けた顔をした。
ぱちり、と瞬きしたあと、青ざめていた頬に赤みがさす。
「つくるって、巣を?イソップの、服、で?」
「服に限らなくて良いそうです、作る本人が安心できるものであれば、何でも良いと」
「でも、いいの?着るもの、無くなるよ……?」
「必要な分だけ抜いておきます。他は好きに使ってください」
湯が出始めたのか、湯気が立ち込めていく。
黒髪から覗く耳たぶが赤い。
「……完成したら、ぜひ見せてください」
こきゅりと嚥下する音が響く。
「ほん、とに、ぐちゃぐちゃにするよ」
「構いません、楽しみにしています」
さぁ、風邪を引く前に。
ゆっくり指をほどくと、彼はその手でシャツのボタンを外し始めた。
シャツの張り付いた胸が、見て取れるほどに大きく鼓動していた。