夏の盛りの青空に「俺こそが夏なのだ」と言わんばかりのくっきりとした白い雲がのんびりと泳いでいる。刑部は一つ嘆息をして視線を外から室内へと移した。エアコンディションも最適な自室、テーブルを挟んで向かいに座っていたはずの桐ヶ谷は仰向けになって寝転んでいる。
「宿題、やるんじゃなかったのか?」
桐ヶ谷はころりと寝返りをうって背中を向ける。着古したTシャツがだらしなく捲れて、幼さの残る背中をちらりと覗かせた。
「この部屋すげぇ涼しいから……快適過ぎて宿題とかムリ」
眠気のにじんだまろい声に刑部は溜息を吐く。このまま放って置いたら本格的に眠ってしまうだろう。
「切るぞ、冷房」
「マジ止めて」
刑部はテーブルに積みあがった問題集の表紙を手の甲で叩く。
「まず、比較的簡単に済みそうな問題から手をつければいい。エンジンさえかかればそれなりに進むものだよ」
エアコンを人質に取られて渋々起き上がった桐ヶ谷は問題集の山から一枚のプリントを引き抜いた。
「んじゃ、これにするか。一枚ペラだし」
爪先の整った指に摘まれた紙は進路調査票だった。中学二年生の夏休み。制服を着る平等な不自由の中へ投げ込まれた小さな火種は刑部の中で苦い匂いをたてて燻っている。
「……お前、コレもう書いた?」
黙って首を左右へ振った刑部に見向きもしないまま「ふぅん」と気のない返事をした。
「メンドクセェ。刑部、俺のこと囲ってくんない?」
「意味を分かって言っているのか?」
「この間ドラマでやってた。マンション買って貰って住むんだろ?」
全く分かっていない。何の見返りも無く衣食住が保障されるわけも無いだろう。刑部は呆れた態度を隠すことなく、むしろ見せつけるように肩を竦めてみせた。
「籠の鳥だよ。俺の都合でお前の生活が決まるんだ」
「へぇ?楽勝じゃん」
「糸の切れた風船みたいなお前に出来るわけ無いじゃないか。すぐに飽きて窓から飛び出していくに決まっている」
「いいな、それ」
桐ヶ谷は頬杖をつきながら口の端をぐっと持ち上げて笑っている。刑部の無知に対する軽蔑を装った虚勢を物ともしない顔だ。
「そん時は俺と飛ぼうぜ」
この手を取れたらどれほど自由になれるだろう。なにも振り返らないで飛び込む空はきっと彼の瞳のように青い。
返事の無い刑部を気にすることも無く、桐ヶ谷は三本の指を顔の前に立てた。
「進路決めた。俺、まずバイクの免許取るわ」
指を一本だけ折り曲げる。
「それから18才になったら車な!」
もう一つ指を折って最後の一本を見て「やべぇ余った」と呟いた。
「最後はヘリでも飛ばすか!」
明るい顔で拳を突き出してくる。反射的に拳を合わせようと腕が上がったが、刑部はその手と相手の手を見比べてから膝へ下ろした。
「馬鹿なことを言う」
代りに浮かべた皮肉な顔、それすら包み込むような顔で桐ヶ谷は目を細めている。何も知らない癖にやり場の無いの心が求める物を悟っている。刑部は目の前にあった問題集を掴んで顔の前に立てた。
「ヘリを飛ばすにしても知識はいるんだ。まずは宿題」
盛大な溜息を聴きながら問題集に隠れて細い息を吐いた。
さぼろうとする相手を問題集で叩いたりおやつで釣ったりしながら宿題に取り掛かっていると、桐ヶ谷が窓の外を指差す。振り返ると空が暗くなっていた。
「俺帰る。おふくろに洗濯物取り込んでくれって言われてたんだった」
桐ヶ谷が慌ただしく立ち去ると部屋は急に静かになった。寒気を感じて部屋の温度を上げようとリモコンを探す。進路調査票がテーブルの下に落ちていた。
──第一希望 ヘリコプター
乱雑だが生命力に満ちた文字が紙面で踊っている。
「小学生か」
せめて「ヘリコプターの免許を取得する」と書けばいいものを、まるで乗り物そのものになりたいかのように誤解させる書き方だ。
「おまえは何もわかっていない」
刑部の隣を歩めば彼の大切な母親を悲しませることになる。刑部だってあの人が好きだ。そして、自分の祖父に対しても家族としての情がある。
「俺もわかっていない」
自分の進路は定められているのだと、ブラスバンド部を辞めた時に思い知らされたはずだった。けれども同時に思いがけない光を得てしまった。突き放すべきか、掴むべきか。その大切な輝きの守り方を刑部はまだ見つけられないでいる。
机の上に広げた進路調査票に消しゴムを添わせた。一文字ずつ丁寧に消していく。摩擦で紙面が燃えるように熱くなる。
水滴が窓ガラスを叩く音。雨が降り始めた。