トランペット私また失敗したんだ。よく分かんないけど、きっとそう。晃が、私の命の3倍大事な晃がブラスバンド部を辞めたって言う。
なんでどうしてあんなに好きだったじゃん。あんたが学校行く理由って8割ブラスバンドの為だったって私知ってる。
いじめられた?(親がホステスだから?)
練習についていけなくなった?(音楽教室に入れてあげるお金が無いから?)
トランペットが古いから?(お客からの貰い物!)
晃はごめんと謝ってテレビの前に座っている。放っておいてあげるべきなのか、抱きしめるべきなのか、こんな時って何が正解なんだろう。普通でまともな母親だったら何をしてやれるんだろう。
「母さんも仕事休んじゃおうかな」
「俺の為ならやめろよな」
せめて一緒にいてあげようと思ったのにピシャリと言われてしまった。確かに、休めば休んだだけ家計は苦しくなって、晃にご飯を食べさせてあげられなくなる。だから私は笑顔で仕事をしなくちゃいけない。
心がぐちゃぐちゃになりながらも髪を巻いてドレスアップ。いつもよりキツめに口紅を塗った。晃の頭を後ろから撫でてアパートを出る。
晃のトランペットはちょっと渋い感じに光る金色の中古品。
私の働くスナックのお客から貰った。
趣味の話ばかりしてる人。誰かの悪口聞いたりセクハラされるよりずっといいし、楽しそうに喋ってるから意味が解らなくても悪い気はしない。太客では無いけれど、良いお客さん。
好きなことの話を聞くのは好きだし、話したいって気持ちも解る。私だって晃のことなら何百時間だって話していられる。だから好きなことの話をたくさんしちゃう気持ちって解るよ。
誰からも話を聞いて貰えないまま大人になって、人様の話を聞いてあげる仕事をしてるのってなんだか不思議だ。
晃がブラスバンド部に入ってトランペットやりたいと言い出した時は、ちょっと驚いた。なんか音楽って金持ちの子がやるイメージだったから、まさかうちの子が?って思った。
楽器って買わなきゃダメなの?いくらくらいなんだろう。全く縁のない世界だったから、さてどうしたものかと思ったタイミングで件のお客さんが店に来てくれた。確かこの人ジャズが好きとか言ってた気がする、そう思って話を振ってみたら案の定身を乗り出して食い付いてきた。
トランペットを演奏する為に何が必要でいくらかかるのか、準備なんかを聞きたかったのだけれど、お客は自分が昔使っていたトランペットをプレゼントすると言った。
そういう経緯でうちに来た貰い物のトランペット。晃はとても喜んでくれていたっけ。
もし、私がちゃんと買ってあげてたら、晃はブラスバンド部を辞めなかっただろうか。私がまともな親だったなら、晃はどれだけのことを諦めないで済んだのだろう。
日付も変わった頃、自宅のアパートの階段を上っている時だった。
「桐ヶ谷くんのお母さんですか?」
突然背後から声をかけられて驚いた。振り返ると晃と同い年くらいの少年が立っていた。どこに隠れていたのだろう。存在に全く気付かなかった。
「そうだけど、あなたは誰?」
背丈の割に大人びた顔をした男の子。踵がしっかり地についていて顎がつんと上向いてる感じがいかにも賢い子って感じだ。
着ている服も高そうできっちりしていて、とても夜中に出歩く不良少年には見えなかった。
でも、この子の気質は炎だ。それもとびきりヤバいやつ。心の中に高濃度のアルコールを抱えていて、パッと火がついてドカンといくタイプ。私も昔はそういう連中と関わってたから解る。
「晃……いや、桐ヶ谷くんの同級生です。刑部といいます」
氷みたいな目が、晃の名前を呼んだ時だけ揺れた。まだ切ったばかりの傷がそこにある。
「もう遅いからなぁ。晃寝ちゃってるかも」
「あなたにお願いがあって来ました」
「いいよ」
二人並んで階段に座る。なるべく小声で済むように体を近付けたら、刑部少年は澄ました顔をして体半分横にずれた。そこは照れて欲しかったな。
「桐ヶ谷くんがブラスバンド部を辞めたのは俺のせいです。だから、彼を部活に戻してあげてください」
お願いします、と小さな頭が下がる。中身の詰まってそうな頭を見下ろしてなんだか肩から力が抜けていくような気がした。
晃のことを考えてくれる人が自分以外にも居る。それは私を身軽にしてくれる。
「何があったのか話せる?」
刑部くんはポツリポツリと事の経緯を話してくれた。彼の血縁関係を理由に退部を迫られたこと。晃がそれに怒ったこと。
深く息を吸った。夜の澄んだ匂い。
晃の為に何かしてあげなくちゃってそればかり考えていたのに、晃はもう他人の為に動けるくらい大きくなっていた。
「ねぇ刑部くん。晃の話がしたい気分なんだけど、聞いてくれる?」