すてきなひとりぼっち「禁煙外来ってこと?」
三ツ谷は、そう言って視線を紙袋の中に移すと、コロッケをひとつつまんだ。
「いや、禁煙っていうか、煙草の記憶?なくしたとか何とか」
林も、三ツ谷に差し出した紙袋に手を突っ込み、コロッケを取り出した。そして、大きな口を開けてコロッケを二口で食べきった。
「ンなことできんのか?」
三ツ谷は、コロッケをもぐもぐと食べながら、訝しげに林に問うた。
「ん~…パーちんの食いモンの記憶消してもらえてたら、信じられたよな~その話」
「フカシてんじゃねぇだろーなぁ」
「母ちゃんが友達からそう聞いたってだけだしな」
「…それがほんとだったら、いろいろ便利だよな」
1時間目が終わって早々に、二人は同級生の肉屋の子が持ってきてくれるコロッケを堪能した。林田家が贔屓にしている肉屋らしく、こうして毎日コロッケをこっそり差し入れてくれる。その恩恵に、三ツ谷も林も預かっていた。いつもこうしてコロッケを食べながら、廊下でくだらない世間話をする。それが、三人の朝の習慣であった。
林田が鑑別所から少年院に移された今も変わらず、二人の元にコロッケは届いた。二人は、毎日その肉屋の子に礼を述べて、林田の分も食べていた。林田の家にも、その情報は届いていて、むしろその肉屋の子とのつながりをもっていてほしいと頼まれているくらいだった。
今日は、林が母親から聞いた噂話。何でも、三年の先輩が、ある病院に連れて行かれて以来、煙草をきっぱりやめたという。部屋の中も臭いが取れつつ合って、大助かり。小遣いもせびられなくなって一石二鳥も三鳥もあったと、その先輩の母親は、林の母親の友人に話したらしい。知り合いの知り合いの話、というやつだから、いささか誇張があるかもしれない。何事にも慎重な三ツ谷は、警戒した。
何でも、記憶に関する相談を受け付けてくれる医院があるんだとか。催眠術か何かだろうか。最初は話半分に聞いていた三ツ谷であったが、なるほど禁煙とかダイエットに応用できるのか、と最終的には妙に納得してしまった。精神科医なのだろうか。今どきは、そういう催眠療法も、進んでいるのかもしれない。三ツ谷が考え込んでいると、確か内科だって聞いた気がする、と林がつぶやいた。
「なぁ、試しに行ってみねぇ?」
「誰の何をどう試すンだよ」
「…パーちんがいれば、実験台にできたなぁ…」
「…パーが、コロッケとチョコ食うの忘れたら、信じたな…」
二人は、顔を見合わせると、級友を思って弾けるように笑った。
しかし、林はいつになく本気だった。世間話ではあったが、彼は内実三ツ谷をその医院に連れていきたかった。彼が今心配しているのは、少年院にいるパーちんと呼ばれた少年のことではない。家のことも、学校のことも、族のことも、何でもそつなくこなしてしまう彼、三ツ谷である。
三ツ谷の雰囲気が、何となくおかしいと感じたのは、天竺との抗争後だった。総長の妹が亡くなり、みんなで葬式に出席したあたりからである。もちろん、それは林にとってもかなりショックな出来事だったし、誰もが傷ついて当然であった。龍宮寺の涙も、三ツ谷の涙も、昨日のことのように思い出せる。最後まで涙を見せなかった佐野の表情も、思い出せる。それは何かと忘れっぽい林の記憶にも、深く深く刻まれている。
みんなから信頼され、恐れられたあの副総長が。どんなことがあっても、佐野を支え、東卍を支え続けた、あの龍宮寺堅が、一人の少女を思って、泣いたのだ。少女のことが好きだったと、泣いたのだ。
林は、詳しいことは分からなかったが、二人が昔から親しい関係であったことは林田や三ツ谷から聞いて知っていた。男らしさの象徴とも言える龍宮寺が、愛する少女の死を前にして、悲しみに打ちひしがれた姿を見たのだ。
あの抗争では、林自身も先陣を切って戦った。あまりの実力差に、弱気になったこともあった。でも、最後の最後には、東卍のトップ二人が駆けつけてくれたのだ。あの時の、あの高揚感。まるで映画のヒーローが登場する時の、血が踊り沸き立つような興奮の渦。心の靄がスカっと晴れたような、そんなあの輝かしい奇跡の瞬間を忘れることは一生ないと、言い切れる。
だからこそ、林は龍宮寺のことを超人的に思っていたふしがあった。自身の行動がきっかけで巻き起こしてしまった8.3抗争でも、結局は龍宮寺が一番林田のことを考えて行動していたことが分かったし、あの負傷から龍宮寺が生還したと聞いた時の喜びは、たとえようもなかった。選ばれし英雄なのだと、林は密かに思っていた。(ドラケンは、マイキーと同じ人種なんだ。)
龍宮寺には返しきれない、大きな借りがあると、今でも彼は思っている。ただ、龍宮寺のために自分が何ができるのかは、いくら考えてみても、さっぱり思い付かないままだった。
ただ、そういうことになってしまった龍宮寺を、一番近くにいて支えるのは三ツ谷だろうなと、林は何となく思っていた。あの抗争の時も、林の行動がおかしいと一番に気付いて追ってきたのは三ツ谷だったし、龍宮寺が林田の家族と毎日面会に行っていたのも三ツ谷は知っていた。普段から龍宮寺とよく連絡を取っているのだろうし、隊のことを一番に考えた結論がすぐに出せる二人であることは、東卍のメンバー全員の知るところである。龍宮寺の思考回路と、三ツ谷の思考回路は似ている。頭脳派、というやつだろう。だから、こんなことになった後だというのに、一向に龍宮寺と会っている気配のない三ツ谷のことが、林は余計に気に掛かるのだった。
いつも通り、他愛のない話を二人でしているように見えるが、ここ最近、専ら話題の提供者は、林なのである。話すことが元来得意ではない彼は、知らず知らずのうちに、三ツ谷と朝を過ごすための話題を集めていた。最初は林田や手芸部の話題で済んでいたが、ふと話が途切れた時、彼は三ツ谷の表情が曇るのを見逃さなかった。ここで初めて、彼から龍宮寺や佐野の話題が全く出てこないことに気付いたのである。
そういうわけで、彼は柄にもなく、母親のするよく分からない噂話をしっかり聞いて覚えてくるようになった。山もなければ落ちもない話題だったが、三ツ谷が笑ってコロッケを食べてくれればいい、と林は思っていた。しかし、月日が経ってもどうにも三ツ谷の表情は、一向に晴れない。何か、顔を曇らせる嫌なことでもあったのだろうか。それは、いつまでも忘れられないようなことなのだろうか。
「…やっぱさ、行ってみねぇ?」
「その記憶の医院に?」
「話を聞くだけでもさ。」
林は、珍しく三ツ谷に食い下がった。
「ん~…でも証拠がほしいよな。」
「試しに消してもらってもいいような記憶ってことかぁ。何かあっかなぁ…」
消してもいい記憶。
林の口から、その言葉が出た時に、三ツ谷の心臓がドクリと鳴った。三ツ谷の脳裏に、あの時の龍宮寺の涙が鮮明に浮かんだ。愛する人を失う痛み。あの時の光景が、頭の中に次々と広がっていく。
たくさんの花に囲まれた、少女の棺。笑顔の遺影。マイキーの凜とした姿。佐野のじいちゃんの、力ない笑顔。そして、嗚咽する龍宮寺の声が響き渡る会場。
愛している人を亡くす悲しみ。想像を絶するものだろう。大切な仲間を失った時だって、心がちぎれそうなくらいにつらかった。何もできなかった自分を恥じた。もう二度と、味わいたくないと思った。立ち直るまでに、何日もかかった。
だが、佐野エマが亡くなった悲しみ、というよりは、龍宮寺が受けた心の傷や悲しみを想像して、三ツ谷は泣いた。そういう心の寄せ方をした自分に、内心驚きもした。そして、自分の胸の奧の奧にある激しい痛みにも気付いて、泣いた。
龍宮寺は、佐野エマを思って、大勢の人の前で憚らず泣いた。その事実が、自分の心臓をも抉る。
(…羨ましい。)
自分が死んだら、この男は本気で泣いてくれるのだろうか。自分の死を思い返して、落ち込んでくれるのだろうか。自分の嫉妬心に気付いた時、三ツ谷はこの場から逃げ出したくなるような羞恥心と浅ましさに苛まれ、ひどく動揺した。
(あぁ、早くこの場から立ち去りたい。)
三ツ谷の流す涙の意味がどんどん変わっていくのを、三ツ谷自身は気付いていた。
(こんな感情、消えてしまえばいいのに)
「…おい、三ツ谷」
「あ…悪い。チャイムj鳴ったな」
「今日部活か?」
「おう」
「じゃあ、医院の場所だけでも見つけてみねぇ?」
「…そうだな」
林は、上の空だった三ツ谷の目を、もう一度見た。やっぱり、様子が変だ。俺に言えないことだって、いっぱいあるだろうし、そういう時こそのドラケンなんだけどな…と、林は思った。いくら仲が良くても、自分や林田では三ツ谷の相談相手にはならないことは、分かっていた。根っからの、武闘派だ。頭脳派の悩みに対応できる頭は持ち合わせていない。頼みの龍宮寺と連絡を取っていないようなら、外部機関にでも頼る他はない。我ながら、いいアイデアではないか。
林は、部活が終わる頃にまた顔出す、と三ツ谷に言うと、自分の教室へ戻った。三ツ谷は、林の後ろ姿を見つめながら、ぺーに気付かれるほど、俺は今マジでやばいんだろうなぁと、ぼんやりと思った。
「…また来たの?」
家庭科室を開けるとすぐに、見知った顔が林を睨んだ。
「う…今日は、ほんとに用事があンだよ」
「ま、もう部活終わったから、別にいいけど」
少女は林に悪態をついたが、意に反して素直に三ツ谷を呼んだ。
「ぶちょー!また来てまーす!」
林は、恐る恐る家庭科室に足を踏み入れると、三ツ谷の後ろ姿が見えた。カバンを持っているから、すでに帰り支度を済ませているようだ。
「おぅ、ペー、時間通りだな」
「その医院、7時までだってさ。母ちゃんに聞いてきた」
「じゃ、ギリだな」
「急ごうぜ」
二人の会話を聞いていた少女は、不安げに三ツ谷を見た。
「部長、どこか悪いんですか?」
「あぁ、いや…」
「行くぞ、三ツ谷」
言いよどむ三ツ谷を見て、林は会話を遮るように二人の間に割って入り、三ツ谷の肩を押してドアの方へ促した。
「ちょっと聞いただけじゃない!」
少女の声を背にして、二人は家庭科室を後にした。
「またあんな言い方して…」
「別に何もしてねぇじゃんよ」
三ツ谷と林は、学校を出ると、駅に向かって歩き出した。