綿毛の君の傘帽子の君①第1章
ぼくは、山の上から、それらを感受していた。
祭囃子と人々の雑踏。
赤赤とした灯りを灯した提灯たち。
焦がし醤油の、香ばしく食欲をくすぐる匂い。
今日は、ぼくが住んでいる地域で、農作物の収穫を祝う秋祭りが開催されていた。
毎年、多くの出店が道沿いにずらっと並び、現地人と、それを目当てに集まった人々で賑わっているようだ。
"ようだ"と表現したのは、ぼくは一度だってこの祭りに参加したことが無いからだ。
その理由を簡潔に言うならば、ぼくの家は一般的な家庭より、幾分稼ぎが少ないから。
ぼくが物心着いた頃には、既に父親は家に居らず、身体の弱い母さんが家計を支えている状態が続いている。
母さんはいつも、使い古して薄くなった布団の上で、ちくちくと縫い物をしていた。
母さんは、小物や巾着を中心に作りたいようだけど、お客から頼まれるのは解れた着物などの繕いものばかりだ。
今では、地域内でそれなりの評判を得ることができたが、材料費が莫迦にならないため、家計は火の車だ。
暮らしていくのにも精一杯で、娯楽に使える余裕なんてあるはずもなかった。
誤解のないように言うと、ぼくはこの貧しい生活を嫌っているわけじゃない。
いや、母さんの負担を減らしてやりたいだとか、たまには甘い菓子を食べたいだとかを考えることはあるが、この生活自体を否定したいわけではない。
ただ、この祭りに未だに参加したことの無い理由を、ぼくは話したかっただけなんだ。
では、祭りに参加することの出来ないぼくが、何故、祭り会場の目と鼻の先の距離に居るのかと問われると、うまい言葉が見つからない。
祭囃子の音が気になったから?
前々から、祭りに参加したいと思っていたから?
今日は母さんに頼まれていた家事が、早くに終わって、暇だったから?
自分で根拠となり得そうなものを探ってみるが、しっくりと来るものはなかった。
ただ、なんとなく、来てみたかっただけなのかもしれない。
暫くの間、暗闇の中でぼーっと灯りを眺めたり、匂いから食べ物の味の想像を膨らませたり、ぼくなりに祭りを楽しんだ。
ぼくが一通り祭りを満喫したころ、さて帰ろうかと振り返ると、辺りは真っ暗闇に染まっていた。
祭りを楽しみすぎて、時間の経過に気づけなかったのだ。
足元も覚束無い状態では山道に入りたくなどなかったが、どうしても、帰らないというわけにはいかなかった。
今朝家を出た時、母さんが咳を零していたんだ。
秋と言ってもまだ初秋だから、極端に身体を冷やしたり、乾いた咳が止まらない状況にはならないことを知っている。
でも、今家で1人、咳に苦しんでいる可能性もある思うと、じっとしていられなかった。
母さんが家で待っていると自分を鼓舞し、1歩、また1歩と、慎重に歩みを進める。
カサカサと草を分けていく音の中に、時々、ぽきり、と小枝を踏み折る音が混じる。
その聞きながら歩いてみるが、一向に見慣れた場所に出ない。
進む方向を間違えたかと、進路を変えることを数回目。
自分が迷子になってしまったことを悟った。
このまま、当てずっぽうに歩いていても、家に着くことはできないだろう。
そもそも、ぼくには、そんな体力など残ってはいなかった。
母さんのことは心配だが、朝日が登るまで此処で休んで、道が分かるようになってから動いた方がいい。
ぼくは大丈夫。
一人で居ることには慣れている。
初めの十数分の間はそう思うことができた。
しかし、程なくして、暗闇という化け物が、ぼくの心を侵略し始めたのだった。
今聞こえた鳴き声は何だ?
奥の草陰の裏に何かが居るんじゃないか?
後ろから誰かが近づいてきている、いや、そこら中に何者かが居る!
両耳を塞ぎ、身を石のように縮こまらせ、身を震わせる。
早く家に帰りたい、もう、それしか考えられなくなっていた。
ふと、前方の落ち葉が沈むのを感じる。
もうダメだと思った。
『大丈夫ですか?』
若い男の声がする。
耳を塞いでいるのに、聞こえてくる。
頭の中で、男の声が何重にも反響して、気分が悪くなる。
意識が薄れていく。
最後に見たのは、爛々と輝く、1対の黄金だった。
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重い瞼をこじ開け、辺りの様子を確認すると、暗闇に目が慣れてきたようで、景色の輪郭がぼんやりと視認できるようになっていた。
『起きましたか。ご気分は?』
声のする方を見上げると、端正な顔立ちをした男が立っていた。
男は、縦縞の着物に黒い羽織、大きな鈴の付いた首巻きに、これまた大きな傘帽子という、派手な服装をしていた。
それだけでも十二分に目立つのだが、男には服装の他に、もう1つ、大きな特徴を持っていた。
それは角だ。
額の両端から、ぼくの掌以上はありそうな 立派な角が生えており、その先端は、じんわりと紅色に染まっていた。
ぼくは、その妖しい美しさに見とれてしまった。
ぼくみたいなキモチワルイモノとは違う、異質な美しさがそこにはあった。
「アンタの名前を教えて欲しいっ!」
弾かれるように、ぼくは、そう言っていた。